五話:悪童と鯰の甘露煮

楓が外に出ると、蓮司は御野屋みのやの黒いスポーツジャージ姿でハーブの植え替えをしている所だった。

冬の間小分けにしていた鉢をほどき、煉瓦れんがで囲った花壇に植え直しているのだ。

ローズマリー、タイム、パセリ、セージ、ラベンダー。白を基調とした中に葉の濃淡とラベンダーの青紫が映えて美しい。牛肉やピクルスが食べたくなる組み合わせだ。

砂利を踏む音で楓がやってきたのには気づいているだろうが、蓮司は振り返らなかった。

喉と目の奥が熱くツンと痛くなったが、顔を合わせても言葉が出なくなってしまいそうだ。

七十手前でも張りのある広い背中に向かって謝罪を投げる。


「心配かけてごめん。

お土産ありがとう。」


下げた頭を上げられないまま固まっている楓の横を蓮司が通り過ぎる。

いつものように怒ることも、拳骨もやってこなかった。水道の水が不規則にコンクリートを打つ。呆れられてしまったのだろうか。堪えていた涙が零れ落ちそうになって頭を振る楓の目の前に少し湿ったタオルが差し出される。


「顔を拭きなさい。

少し歩こう。」




昨日は楓一人で歩いた道を、今日は蓮司と二人で歩く。農道脇に申し分程度に引かれた白線の内側は狭く、並んで歩ける程ではない。

車が来ない時は白線を跨いだ道路側を蓮司が歩き、モーター音やタイヤが砂利を踏む音が聞こえる度に縦一列に並んで道を開ける。

蓮司は元々口数の多い人ではないが、今日はいやに静かだ。昨日と同じ青空も、民家の庭々を彩る花々も楓の心を和ませてくれる事はなかった。

暗い気持ちで辿り着いたのは昨日お世話になったカフェだ。今日はカフェボードに白いチョークで営業時間が記されている。

《11:00~17:30》


然程長居できる程時間はない。

カラカラと音を立てて戸を開けた蓮司は黙って中に入っていく。

楓もその後に続けば、穏やかな文彰と、ハツの快活なハスキー声が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ、楓くん、蓮司さん。」

「おう、楓坊おかえり。

こっちさこい。」

「えっと……、ただいま、ハツさん。」

「どうした、蓮坊に苛めらいだが?ん?」

「いえ、違います。」

「……ッチ。」


黒板消しでカフェボードの文字を消して戻る文彰を背後に、ハツの傍へと近付く。

椅子を引きながらも、ハツの言葉に反射的に首を振った楓の頭上で舌打ちが聞こえた。

驚いて顔をあげると、蓮司がばつの悪そうな顔をしていた。

楓と目が合っても蓮司は何も言わず向かいの長椅子に腰掛けた。


「楓坊は|何が飲みで?ん?

ハツ婆が好きなもんをご馳走してけるな。ん?」

「えっと。」

「俺はホット珈琲をごちそうになります。」

「蓮坊は自分で払いな。お前には今までいっぺ食わせてやったべ。」


B5の透明な下敷きに挟まったメニュー表を押し付けられ、戸惑いながらハツと蓮司の顔を見比べる。

楓に顎をしゃくりながら返答する蓮司に、ハツは辛口だ。

強い。


「ほれ、楓坊。遠慮すな。」


「ありがとうございます。

えっと、じゃあ温かいカフェオレかな?」

「おう、カヘオレだな?文坊!」

「はい。ホット珈琲と温かいカフェオレですね。承りました。」


九十も半ばで尚ふさふさとした髪を金色に染めたハツがくしゃりと笑うと、金色の八重歯が輝く。

服装も眩しい。首元に黄緑のスカーフを巻き、黒いレースの長袖Tシャツの上からゼブラ柄の袖無しワンピースを重ね着している。足元は更に華やかで、小花柄のレギンスに蛍光黄緑のクロックスだ。

若い。


「そんなに悄気しょげねって、楓坊ばいい子だ。

大体悪童ってのはな、蓮坊みたいに悪びれねで笑いながら逃げていく奴どご言うもんだ。」

「えっ……じいちゃんが?」

「んだよぉ。学校の帰りに枝ば拾ってきて、道に競り出した柿をみな落として持って帰ったりなぁ。」

「……掃き掃除だとか、手伝いもしただろう。」

「そりゃあ、芋を焼く為だべ。

お前も今は立派になったたって、埃叩いで山ぁできるべ。」


店のなかいっぱいに珈琲の良い香りが広がる。

唸る蓮司を信じられない思いで見詰めた楓の頭を豪快に撫で、機嫌良さそうにハツが笑う。

日頃の姿とはまるで違う。秘密を覗いたようでわくわくする。


「時代だな。

昔なら、行き先と帰宅予定をきちんと告げれば、子供たちで沢にも行けたし。魚を取ってくれば褒められたものだ。」

「んだな。家さ帰ったらなまずいねぐなったって話も聞いだ気ぃする。」

「鯰?とれるのこの辺。」

「今でも獲れるぞ。山を登ればな。

でかいのを釣ったと翌日学校で話してしまってな。仲間を連れて家に帰ったら甘露煮になっていた。」

「うわぁ。」

「鯰はまぁ、臭せどもさぴっとしてうめよな。

昔は側溝の水も沢がら落ぢできてだっけがら綺麗なもんでな。 鯰だば桶っこさ離したり、

鰌だば捕めできたまま、溜まりさ離して泥抜ぎしたもんだ。」

「一つ隣の溜まりに籠に吊るした野菜を冷やしておいてな。

家の手伝いの合間にそれを食いながら鰌を眺めたりしたんだ。」

「逃げられたりしないの?」

「ああ。たまに塞き止めていた笊ごと流れてしまったこともあっぞ。」

「まぁ、そんときゃただのネギ玉だなぁ。」

「ふはっ。」




赤い夕日が西の空に落ちきると夜が染み出てくるまでのほんの僅かの時間だけ、日の出前よりも爽やかに澄んだ青空になる。

気が早くも点灯した外灯の下を蓮司と楓は手を繋いで歩いた。


「すまなかったな。

結局、お前に任せきりにしている大人が悪い。不測の事態が起きた時、お前だけを責めるのは検討違いなんだ。」


肯定も否定もできない楓の手をぎゅっと強く握ったあと、柚子を許してやってくれ、と蓮司は囁くように言った。



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