第1章 困苦な邂逅
その日は、午後からの出社だった。
4月の下旬に差し掛かったこの時期、学生や新入社員らで溢れかえっていた上旬の喧騒とは打って変わって幾分か落ち着きを見せてはいるものの、それでもまだ活気に満ちていた。そんな時の午後出社は、本当にわずかだが安らぎを得られる。
僕が勤める株式会社ワールドドミネーションはフルフレックス制を導入しており、始業時刻や終業時刻は固定ではなく、遅刻や早退といった概念がない。
これを話すと、「羨ましい」だの「気楽そう」だの言われるが、決してそんなことはない。定時がない分、帰りにくい。心理的な要因から帰りにくいのだ。
上司や先輩はまだ仕事をしているから、19時以降に平気で2・3時間はかかるような作業を押し付けられる。
フルフレックス制とは、他の人が作業していても帰宅できる『鋼のメンタル』・スケジュールの『管理能力』・そして何より会社内での『立場』の三要素揃って初めて、その恩恵を得られる。光の住人になれるのだ。
まあ、当然僕は、長時間労働に否応なく追いやられ、光の住人を妬み、辟易とする、理想的な働き方とは縁遠い側の人間だが。
正午過ぎの電車は、主婦や老人、フリーターや移動中のサラリーマンと思われる人がまばらにいるだけで、それなりに空いている。いつもと同様に、ドア付近に立ち、発車するとネットニュースを漁り始めた。しばらくして、社用スマホに1通のメッセージが届いた。
「浅香くん、あとどのくらいで出社できる?」
上司の山崎からだった。
「今日は、午後1時からの出社にしておりましたが、何かございましたか?」
何かやらかしたか?一抹の不安を覚えた。
唐突なメールに背筋に流れる汗が今は一段と気持ちが悪い。
「いや、ちょっとお願いしたいことがあって、着いたら話そう」
「承知しました。」
ちょっとのお願いなら、わざわざ連絡してくるなよ、共有のスケジュールにも出社時刻書いているだろ、なんて心中悪態をついているうちに最寄りの池袋駅に到着した。
道幅狭いながらも人で溢れかえっている東口から徒歩十分のところにあるRC造の5階が僕の職場だ。到着するとそのままデスクに向かう。
ロッカーに荷物を入れるべきなのだろうが、最近はデスク横が僕の荷物置き場だ。
席に着くなり山崎から紙袋と段ボールを手渡された。
「この荷物、下の倉庫に仕舞ってきて」そういうと彼は喫煙所へと姿を消した。
「話ってこれ?…嘘だろ…心配して損した…」聞こえないように小さく独りごちた。
僕の会社の倉庫はすぐ下の4階にある。
セキュリティ扉を開けると、中は煩雑に荷物が積み上げられていて薄暗い。
その最深部にある部署のロッカーに手早く置き、階段で5階へと戻ることにした。
足取りは重く感じるが、誰も利用しないここは幾分か気分を軽やかにしてくれる。
オフィスに戻り、デスクに着いたが、どうやら山崎はまだ戻ってきていないようだ。『お願いしたいこと』の内容が本当に荷物運びだったのかは気になるが、嫌煙家の僕は喫煙所へと尋ねに行くのが憚られるので、メールチェックや資料作成などで上司の戻りを待った。
それから20分程度で彼は戻ってきたので、タバコの臭いに困苦しながら『お願い事』を尋ねた。
「お疲れ様です。先程メールでいただいたお願い事とはなんでしょうか?」
「お疲れ〜。いや、さっきのが頼みたかったことだから、もう大丈夫。」
「はあ、そうだったんですね。」
そう言い再び席に戻った。
最近こんなことばかりだ。
突然呼び出されたと思えば、数分で終わる雑用を押し付けられる。そればかりか、上司の秘書のようなこともさせられている。上司宛のメールのチェックからスケジュール管理、それを定期的にリマインドしていて、少しでも遅れや漏れがあると重箱の隅をつつくようにネチネチとした説教が待っている。正直、自分の担当していない案件の進捗も把握するというのはかなりの負担である。
昨年ごろからこの仕事環境になり、入社時のやる気に満ちた『浅香陽一』はどこへやら、日々鬱屈している。新卒入社後3年目になったというのに雑務ばかりだと成長はますます縁遠いものになり、『仕事を辞めたい…』と幾度となくそう思ったとしても、至って平凡な僕は転職活動に希望を抱けないでいた。
今日作業が終わったのが夜11時を回った頃だった。こんな時間に終わったのでは資格試験の勉強をしてアドバンテージをつけようとかいう気力も湧かない。
昔の人は、『四当五落』などと言い受験に臨んでいたそうなのだが、僕に言わせてみれば、そんなの無理難題だ。いや、『無謀卒倒』となるだろう。なに勝手に四字熟語作っているんだなんて考えながら帰路についた。
自宅の最寄り駅に到着したものの、この時間の家路に温かみなどない。あるのは静寂だ。人通りはまばらで、車の通りも少ない。営業時間の過ぎた飲食店や薬局を横目に、重たい足を動かす。今日は一段と足が重い。
– 階段で荷物を運んだもんな。階段使うだけでこんなに疲れるなんて、流石に運動不足が祟ったか、もうそんな歳なのか。 –
そんな思いに耽ってはみたものの、やたらに重く、その異常さに僕は困惑し始めた。ただ困憊しているだけだろうと無視していたのだが、重すぎて、ついに足が止まってしまった。これはもしや怪談で聞く類のものだろうか?振り向くべきではないとわかっているものの、流石に重すぎたので、薄目で一瞬確認した。
恐る恐る、されど毅然に。
街談巷説のアレではないかと期待半分、恐怖半分でいたものの、どうやら予想は外れたようだ。
幽霊ではなかった。
今思えば幽霊の方が数段マシだったように思える。
眼下にあったのは、僕の解けた靴紐を全力で引っ張る、大人の女性の姿だった。
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