第6話

 飛び込んだ病室の中には、母親と次女と甥っ子、そして――普段はいない、叔母夫婦がいた。

 父は目を閉じたまま、ベッドの上で荒い呼吸を繰り返している。

 すでに言葉を紡げない女性陣に代わり、叔父が説明する。


「お義兄にいさんは――今朝になって急に苦しみだしたみたいで――お医者さんの診断では、もういつが来るか判らないって。だから、家族の皆さんを集めてくださいって言われてね。学校に連絡して、長姉おねえちゃんを呼んでもらってるんだけど」


 さすがに叔父も平静ではいられないようで、涙をぬぐって続けた。


「よりにもよって、部活の遠征中なんだってね――間に合えば、いいんだけど」


 なぜ――。


 思いが巡る。


 なぜ、今日なのか。


 なぜ、明日ではないのか。


 なぜ、昨日――俺は病院ここへ来なかったのか。


 頭を巡るのは、様々な「なぜ」ばかりだった。

 そして思い出した。


 ああ、まただ。

 また俺は――


 父からがんを告げられた日。

 父の会社を継ぐと言えなかったように。

 父よりも、自分を優先してしまった――。


 情けなかった。

 それ以上に悔しかった。

 だから、祈るように父の手を取った。


 お願いだから、目を覚ましてくれ。

 そして一言だけでいいから、話をさせてくれ。

 謝りたいんだ――と。


 どれだけ強く握っても、その手が握り返してくることはなかった。




 *




 昼が過ぎたころ、ようやく長姉が到着した。

 長姉も泣きながら父に何かを呼びかけた。

 次姉も呼びかけている。

 母と私は壁際に立って涙をこらえていた。

 義理の兄が甥っ子を引き取って私たちの家へ帰り、叔母夫婦もそれに付き添った。母親と次姉は私同様、取るものも取りあえず飛び出してきたため、留守番を買って出てくれたのだ。

 私たちは交代で父の手を握っては声をかけ、存分に涙を流した。

 一度だけ医師が経過を観察に来て、


「後は何かあったらナースコールを押してください」


 とだけ言い残し、去っていった。




 *




 家族全員が泣き疲れる頃には、夕方になっていた。

 いまだ父の意識が戻ることはないが、しかし私が来たばかりの頃のように、荒い呼吸をすることもなく、小康状態を保っていた。

 そんな時、母親が「テレビをつけよう」と言い出した。


 今日は日本シリーズの日だった。

 父は野球が好きで、大の巨人ファンだった。

 しかし、同じくらい地元球団の東北楽天を応援していた。

 奇しくも今年の日本シリーズは、その両球団の対戦となっていたのだ。

 そして今日は、シーズン無敗の「まーくん」こと田中将大投手が登板する日であり、きょう勝てば楽天初の日本一が決まる日だったのだ。

 野球に興味のない母親が、そんなことを知っていたとは思えない。おそらく父が意識のあるうちに、「楽しみだ」とでも漏らしたのだろう。

 もちろん私たちも賛成した。


 もしかしたら、なんらかの反応があるかもしれない。

 祈るような気持ちでテレビをつけた。

 病室の小さなテレビに映る試合を見守りながら、野球に興味のないはずの女性陣が声をかける。


「お父さん、まーくんだよ」

「見なくていいの?」

「あ、巨人先制した!」

「もしかしたらまーくん負けるかも」

「お父さん、応援しないとまーくん負けちゃうよ」


 私も合わせて声を送ったと思う。だが、なんと言ったかまでは覚えていない。相槌をうちながらただひたすら、「目覚めてくれ」と祈っていた。




 *




 試合が終わり、楽天は敗れた。

 シーズン無敗の男がその年、唯一黒星を喫した試合だった。

 気付くと窓の外は、すっかり夜の闇に覆われてしまっていた。

 かわらず、父は目を覚ますことはないままだった。

 見るでもなくつけていたテレビも徐々に番組がなくなり、ついにすべての放送が終わったため、母は黙って画面を消した。

 そのころには姉二人は日中激しく取り乱したためか、ひどく衰弱していた。

 その様子を見かねて、母は仮眠室で休むよう二人に言った。

 最初は反対した二人だったが――、


「いつまでこの状態が続くか判らないし、もしもの時には手分けしてやることがたくさんあるから。今のうちに休んでいなさい」


 と言われ、大人しく従った。

 そして。

 部屋に流れるのは静かな父の寝息と、父を計測する機械の電子音だけになった。

 私は、数か月前には、あれほど穏やかに耳にできたそれらの音を――今はただ、それらが途切れるのにおびえていた。

 そして。

 いよいよ。

 ゆっくり、呼吸が浅くなり始めた。


「呼吸――ゆっくりになってきたね」

「――そうだね」


 母は父の右手を、

 私は父の左手を、

 お互いに握りながら呟いた。


 ――もう、私の願いは叶わない。

 

 その事実を受け止めた、十一月三日午前四時三十分。

 夜が明ける前の、空がようやく白み始めたころに――。


 私の父は、帰らぬ人となった。


 十一月三日、文化の日。

 一年の中で、本を愛した父を送るにもっともふさわしい日であった。

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