第4話

 近年でもまれにみる大雪の冬が終わると、いよいよ待ちかねた春がやってきた。

 除雪作業から解放され安堵する私だったが――心が決して晴れることはなかった。

 父の容体は、悪化の一途をたどるばかりだったからだ。


 近頃は、肺に水が溜まり、呼吸が苦しくなるらしい。

 その水を出すために脱水剤を服用するも、うまく効果が発揮されず、身体は力士のようにむくんでしまった。

 着替えの際、たまに見える肌には、放射線治療の痕跡である火傷が見て取れた。

 がんというとやせ細るイメージがあったのだが、このようなこともあるのかと驚きつつ――変わっていく父の風体を見て、健康だったころの体型が思い出せなくなっていった。


 痛みも出るようで、通常の痛み止めはとっくに効果がなくなっていた。

 枕元におく薬はついに――医療用のモルヒネになった。

 そうなれば、様々な副作用が現れる。

 基本的に眠ることが増え、その間も夢をみているのか、うわごとを言うことが多かった。

 起きると幻覚が見えることがあるようで、目の前に物を置きたがらなくなった。

 大好きだった本も読めなくなり――情緒はどんどん安定を欠いていった。


 そんな日常に、母親が真っ先に音を上げた。

 そばにはいてあげたいが、このままでは身体以上に心がもたないと。

 そこで、我々姉弟きょうだいも交代で付き添いを行うことにした。


 次姉が甥っ子を連れて訪ねると、不思議と父は安定することが多かった。そのためあまり長時間はいられないものの、次姉は積極的に付き添うことを言い出してくれた。

 甥っ子も少ないながら言葉が喋れるようになっていた。そのほとんどは容量をえない幼児語であったが、父のことを「じっじ」母のことを「ばっば」とは呼べるようになっていた。

 「無理矢理覚えさせた」という次姉は誇らしげで、それがそのまま父への愛情を示しているようだった。

 長女も仕事終わりに毎日顔を出すなどして、少しでも母を支え父との時間を捻出しようとしていた。


 他方、私は仕事柄、病院へ寄るのが面会終了時間になることが多く、仕事の日は顔を出すことが難しかった。そのため、休みの日に父に付き添い、代わりに母が休む時間を与えることにした。そのため姉弟の中で私だけが、父親と二人きりになることが多かった。

 それは身もふたもない言い方をすれば――私は男なので、モルヒネの影響で万が一父親が錯乱しても、抑え込むことが可能だったからだ。

 初めのうちはいつ父がどうなるかと冷や冷やしていたが――私の心配したような事態は起こらず、大半は眠る父を見守るだけだった。

 とはいえ、さすがにゲームやパソコンを持ち込むわけにもいかず、また病室なので携帯の使用もはばかられた。そのため私は――六階から窓の外の風景を眺めることで時間を過ごしていた。

 階下に見える駐車場に植えられた木々は、ゆっくりと花を咲かせ、それが散ると新緑の葉をつけていく。

 静かな病室の中で響く父の寝息は、外を流れる春風のようだった――というのは、いくらなんでも言いすぎである。




 *




 そんな風に過ごした春が過ぎ夏になると、母もだいぶ安定を取り戻し、あろうことか父の容体も悪化が治まった。もっとも――快方に向かうこともなかったが。

 それでも正常に会話を続けることができたのは、何よりも喜ばしいことだった。


 気温が高まるにつれ、父は冷たいもの――特にアイスを欲するようになった。

 本来は糖尿病患者であるため、ご法度なのだが医者は止めなかった。

 医者が止めるのは、回復の見込みがある人間だけである。

 残りの時間で、悔いのないように――つまりは、父にその見込みはもはやない――ということである。

 それを証明するかのように、父はすでに満足に身体を起こすことも難しい体調となっていた。そのため、スプーンでアイスを食べるのは難儀していたようだった。とくに子供がいる前で、母に口元に運んでもらうのは気恥ずかしく感じていたようだった。


 そこで私は、とある商品を思い当たった。

 チアパック式のアイス――クーリッシュである。


 これならば、キャップを開ければ寝ながらでも飲めるだろうと思い手渡すと、果たして予想は的中した。

「ああ――これはいいなぁ」

 と、小さく喜ぶ父を見て、やっと私も父を喜ばせることができたと思った。

 父はクーリッシュをいたく気に入ってくれたため、私は以降、病室を訪れるたびに差し入れすることにした。体調が上向かずに食べきれない時は、付き添いの際に私もいただくことにした。

 窓から外を眺める。


 さわやかな青空。

 遠くに見える白い雲。

 緑を揺らす木々。

 駐車場に止まる様々な車。


 冷たく甘いアイスを味わいながら、昨年から嘆いてばかりのモノクロの世界に、やっと色が戻ったような気さえしていた。

 たかがアイスひとつで父の喜びを満たすために、一年近くもかかってしまったが――私はとても満足した。




 それは満足という名の、慢心であるとも知らずに。

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