第2話

 父の告白から二日後の日曜日。


 私と両親は総合病院の入り口ロビーで姉二人を待っていた。

 長姉は家を出て高校の教師をしている。いくら公務員とはいえ教師なので、本来は日曜日も部活やらなにやらで忙しいらしい。

 また、次姉もすでに結婚して家を出ていた。彼女は昨年第一子をもうけたばかりで、まだ幼い我が子の育児のため、なかなか手が離せないようである。そのため、我々家族一同が顔を合わせるのはじつに数年ぶりのことであった。

 理由が理由でなければ、家族の再会を喜ぶところであったが――さすがに今回ばかりは、そんな気分にはなれなかった。


 ――どうせなら、もっと明るい理由で集まりたかったな。


 父親と母親が受付で主治医にアポイントの確認を行っているあいだ、私はロビーをぐるりと見まわしながら――そんなことに想いを巡らせていた。


 ロビーの床はワックスで光り輝くように美しく磨き上げられ、清潔さを重視しているためか必要以上にシミや汚れがないように思えた。その美しい床の上に備えられた待合用の長座席には、たくさんのひとが腰掛けて、自分の順番が来るのを待っていた。

  この病院は設立からやく二十年ほど経つのだが――私自身、病院とは縁遠い身なので、ここに入ったのは今回が初めてであった。

 五十人は下らないであろうその場にいる人たちを一瞥して、また考える。


 ――ここにいるすべての人の中で、父親よりも重篤な症状の人間はいるのだろうか。


 もしそうであるのなら、父親だけが特別なわけではないだろう。

 もしそうでないのなら、父親が大病を患ったのは――ただの不運だったのかもしれない。

 その答えも今日――これから判るのだろうか。


 遠くの自動ドアが開く。

 そして、待っていた姉が二人そろって入ってくるのが見えた。

 どうやら長姉が次姉を迎えに行ってくれたようだ。

 周囲を見渡す姉の様子を見て、私は席を立ちあがり、二人を迎えに行った。


 座席に戻ると折よく両親も手続きを終えたようで、すぐに戻ってきた。

 数年ぶりの一家団欒だんらんを喜ぶ私たち。

 しかしそれは――ともすれば、沈みがちになりそうな空気を吹き飛ばそうと――必死で明るく振舞っているにすぎないことを、全員が理解していただろう。


 お互いがそんなことをおくびにも出さないまま、和気あいあいとエレベーターを待つ。

 六階という普段は決して足を運ばないであろう階層に降り、すぐそばのナースセンターへ向かうと、すぐに主治医の待つ別室へと案内された。


 白い壁。

 白い床。

 白い机に白い椅子。

 そして白衣の男。


 いよいよ本題が始まると覚悟を決めて、私は席に座った。

 願わくは、「父の末期がんは治ります」という説明をしてくれないだろうかと祈りながら。


 ――しかし。


 いざ、主治医から病状の説明を受けると――嫌でもそれが現実であることを突き付けられた。


 肺がんの形状的に、喫煙者に多く見られるタイプのがんであること。

 だがしかし、喫煙との因果関係は証明できないということ。

 先に説明した通り、がんはすでにだいぶ進行してしまっていること。

 そのためおそらく、もはや完治の望みは薄いこと。

 最後に、余命は――もって二年程度であること。


 主治医が何かを説明するたびに、長姉と次姉は涙ぐみ、私は――怒りに震えていた。拳を握りしめて、叫び出そうとする自分を抑えることに必死だった。


 そこまで進行するまで、なぜ気付けなかったのだ。

 なんのための健康診断だったのだ。

 どうしてそこまで、淡々と説明できるのだ。

 どうして人の父親の命を、勝手に見限るのだ。


 どうして。


 どうして。


 どうして――こうなったのだ、と。


 言ってしまえば、単なる八つ当たりである。

 ただ「父親が末期がん」という現実を受け入れられない私は、やり場のない怒りの矛先として主治医を選んでいたに過ぎなかったのだ。


 しかし。


 最後に主治医が放った言葉を聞いて、私は怒るだけの自分を恥じた。


「言い訳になりますが――初期段階では、背骨の裏に隠れてしまっていて、がんを発見することができませんでした。それまでに幾度かの健康診断を受けたにも関わらず、です。すなわちこれは――我々医学の敗北です。まことに申し訳ありませんでした――」


 それまでに父の健康診断を行ったのはこの人ではない。

 それどころか、父と初めて顔を合わせたのは、症状が進行しきった約一ヶ月ほど前である。

 彼はあくまでも、末期患者を診断をしたに過ぎない。

 それなのに――これまですべての医療行為を含め、その無力さを謝罪したのである。


 もちろん医者として、彼がこういった事態にでくわすのは初めてではないのだろう。

 もしかしたら単なるマニュアルの一環かもしれない。

 それでも――真摯に頭を下げる人間をなじる気にはならなかった。


 もはや時間は戻らないのだから。


「二年か」


 父親が小さく呟いた。

 

 二〇一二年の六月。

 第三週日曜日。

 奇しくもその日は、父の日であった。


 来年のこの日、私は父を祝うことができるだろうか。

 たとえ存命だったとしても――。


 真っ白な部屋の中で、私はただそれだけを考えた。

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