第1話

「俺、肺がんになったんだ」




 とある休日の夕方。

 外出していた両親が帰るやいなや、「話がある」と父に茶の間へ呼び出された。休日を満喫していた私は、しぶしぶソファから立ち上がって茶の間へ向かうと――そこで待つ父の発した第一声が、それだった。


「ステージⅢ。それも限りなく末期のⅣに近い進行度らしい。詳しいことは検査してみないと判らないが――」


 淡々と父は言葉を続ける。隣に座る母は、ただ黙りこんでいる。


「ちょ、ちょっと待って」


 ステージⅢとかⅣとか聞きなれない言葉を告げられて、確かに私は混乱した。しかし、それよりもまず確かめなければならないことがあった。


「肺がんって――なんの冗談だ、父よ」


 私は両親のことを「父」「母」と呼ぶ。幼いころに見たテレビドラマの影響である。そのドラマでは、子役が両親のことを「ちちー」「ははー」と呼んでいたのが凄く印象的だったのだ。


「冗談じゃない、事実だ」

「父は毎年、健康診断受けてたんだろ?」

「半年くらい前に受けたばかりだな」

「煙草だって何年も前に辞めてたじゃん。なのに、なんでそんな急に、末期がんとか――」

「そんこと、俺にも解らんよ。それはともかく――医者が言うには、今度詳しい説明をするから、家族全員で病院にきてくれとのことだ。娘二人にも連絡を取らなきゃならんが、まずはお前の都合がいい日を教えて欲しいんだ」


 今日は金曜日。

 私の仕事は土日祝日が休みではない接客業なので、平日が休みになる。おおむねパターンとしては、火曜と金曜が休みになることが多かった。


「まあ、次の休みは火曜だけど――姉ちゃんたちの都合考えたら、日曜のほうがいいんだろ?」


 ふと、壁にかかったカレンダーを見ながら答える。するとそこには、今日の日付の欄に「病院」とだけ書いてあることに、今さら気付いた。


「まあな」


 父は短く答えた。


「なら、会社に言って、休み変えてもらってくるから」


 表面上は冷静に受け答えをしながら――内心では混乱がおさまらず、平静を保つのに精いっぱいだった。こんな落ち着かない気持ちを抱えたままで、何日も過ごすのは我慢できない。本当なら明日にしたいくらいだった。


「そうしてもらえると助かる」


 変わらず静かに語る父は、まるで私の知っている父親とは別人のようだった。

 私の知る限りの父という人物は――。


 陽気で、

 少し思慮が足りず、

 短気で、

 酒が好きで、

 同じくらい本も好きで、

 少しうざったい。


 そんな、どこにでもいるような、ありふれたオヤジだった。

 こんなふうにドラマのような、深刻な表情を見せる男ではなかったのに――。


「二ヶ月くらい前に、肩の周りにができててな」


 絶句してしまった私に向かって、父は声をかけた。


「最初は、知らない間にぶつけて腫れたのかと思ってシップを貼ってたんだが、一向に良くならなくてな。ちょうど糖尿病の診察が近かったから、そこで医者に聞いてみたら――」


 そこまで言って父は、少し言葉に詰まる。それに代わり、今まで黙っていた母が口を開いた。


「お医者さんも、『こないだの血液検査の数値が少し変だから、どこか変わったところありませんか』って聞こうと思っていたらしいの。それでお父さんの肩を見たら――『紹介状を書きますから、すぐに総合病院で検査しましょう』って」


 気落ちしていると思っていた母だったが、説明をする口調は意外にもはきはきとしたものだった。


「その検査の結果を今日、聞いてきたら――」

「肺がんだったってわけだ」

「なるほど――解った」


 頭ではまったく理解できていないくせに、私の口から出た言葉は理解を示すものだった。

 そんな脳内を整理しようと思い、現実的な話題を振った。


「ところで、父の会社はどうすんの?」


 じつは昨年、父は長らく勤めた建設会社を退職し、個人事業主として己の会社を立ち上げたばかりであった。

 実家の壁に看板をしつらえ、「これでやっと、思うように仕事ができる」と語る父はとても身軽そうで――いまだ宮仕えの身としては、ひどく羨ましく思えたものだった。


「たたむしかないな。どうせ従業員は俺一人だし、他の人間ができる仕事でもないしな」


 その会社は、父が会社員時代に培った人脈を元に、家廻りのことで困っている人に対し、大工や職人などの施工業者を案内するというものだった。

 家は、建ててそれで終わりではない。

 住んでみて初めて、思いもよらない不便や不都合、また経年劣化による補修など、あらゆる問題が浮かび上がるのだ。

 しかし当然ながら、すべての人に大工の知人がいるわけではない。そもそも大工や職人は、常に次の仕事の予定が埋まっているので、赤の他人に直接仕事を頼まれても受けられない人が大半である。となれば、大半の人は苦労して電話帳やネットでそれらしい業者を探すか、慣れないDIYで済ませるしかない。

 そんな人たちを助けたい――それが、父の起業の発端だったのだ。


「それに――お前は継ぐ気なんかないんだろう?」

「いや、まあ――うん。悪いとは思うけど」

「それはいい。どうせ、元々継がせる気もなかった仕事だ」


 たとえばこれが、私の好きな漫画や小説の登場人物キャラクターならば――「俺が継いでやるよ!」などと力強く言えただろう。その結果、父をわずかでも喜ばせてあげることができたかもしれない。


 だがしかし――。


 私には、そのような言葉は言えなかった。

 単純に、自分が「やりたくない」と思った感情を優先させていた。


 ――命の刻限が迫った、父親に対してさえ。


 そんな自分の因果応報か――のちに私は、この性格ゆえに一生後悔することになるのだが――そんなことを神ならぬ私は知る由もなく、ただ現実的な会話に終始していた。


「それよりも――じゃあ、日曜でいいんだな?」

「ああ。姉ちゃんたちには?」

「それはお母さんから連絡してもらうから」

「任せてちょうだい。だから休みだけ、お願いね」

「――解った」

「迷惑かけてすまん。この先も色々あると思うが、よろしく頼む」

「謝んなくていいって――解ったよ」


 頭を下げる父にそう言い残し、私は自分の部屋に戻った。

 そのままソファへ腰掛けることなく、私がしたことは――煙草と喫煙用具のすべてをゴミ箱に投げ捨てることだった。


 今日は、六月第三週の金曜日。




 ――私は今月、二十代最後の誕生日を迎えたばかりだった。

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