トウカとミズホと青い海─冬の霞と絶滅と─
Mun(みゅん)
氷雪とバカ
0 (校)放浪するもの/The Wanderer
頬から乾いた血が剥がれ落ちる。
淀んだ碧眼に廃墟が映る。
泥と血で塗れた髪が凍えた突風に踊る。
地吹雪の中を行く、女が一人。左手に
ここは生けるものを排斥する、極寒の地獄。
捨てるのも億劫だと言うように温度計を足元に落とすと、避ける気もなく踏み砕く……物々しい武装と裏腹に、有様は勇ましさとは程遠い、むしろ敗残者の有様。どこに攻め込むでも、守るでもなく。
しかし汚濁で塗り固め、息も絶え絶えでもなお、深彫りの相貌だけは端正さを主張している。荒れ果てた世界の中、それがむしろ実在感を奪っている。意志はほとんど感じられない、機械人形の如き歩み。ぎっ、ぎっと雪を踏む音は生命よりも、軸受の軋みを連想させる。そしてそれさえ吹き付ける吹雪の中で消えていく。
彼女の有様を恐れるもの、手を伸べるものは居ない。割れた硝子、朽ち果てた戸、雪に踏み潰された家々。どこまでも荒れ果てた、廃墟と氷の世界には人の気配などあるはずもなく。
「ぅぁ」
突如、素っ頓狂な声とともに女の姿が消える。
──────。
「おい瑞穂、瑞穂?死んだのか?よし。それじゃあ……」
吹雪が一面を覆った頃、雪山の一つが内側から吹き飛んだ。
「生きてるぅっ……」
「ケッ」
目を疑うほど長身の女──名を
「どうせ長生きできないんだから、死に損ねたくらいで拗ねないの」
「死ぬなら綺麗に頼む、今みたいに。そうすりゃ、お前の体と記憶くらいは残る……かもしれん」
大女につかまったために却って常識的な大きさに見える大盾──名を
「僕に何のメリットが……」
居候の不遜に切り返す言葉を堰止めて、女はにやりと口角を上げる。
「女の子になりたいの?」
「ちがわい」
「やらしっ」
「だから
「うっせ。しかも人じゃないじゃん……で、ぼく何時間寝てた?」
「……。……はぁ。半日くらいじゃないか、しらん」
「なるほどね」
女が見渡せば、かつての終末で砕けた
興味がない訳ではなく。むしろ、暇を見ては星空を眺め、いい感じの石を拾い、ガラクタを押入れに溜め込む手合の、ぼやっとした女だった。
「
しかし今は空腹が問題だった。あわや頭が砕けて死ぬ所だった事でも、まだ湿り気のある流血でもなく。顰め面で腹に手を当てた途端、腹の虫が大きく鳴いた。
その背後で、黒い影が蠢いた。
「ゲァグアア!!」
巨躯長身の怪物。二足歩行、鋭い牙と爪。闇に溶けるぬるりとした毛のない黒い表皮。端的に表せば熊そっくりの生き物が、人の胴ほどある腕を振り上げて女に躍りかかった。惨劇を予感する間もなく、体の一部が宙を舞った。
もぎ取られた頭部?ちぎられた腕?……否。
それは砂、礫。月明かりに煌めく怪物の爪、その破片。振り向きざまに突き出された盾に一本残らず打ち砕かれている。平衡感覚と力、それに硬度。瞬く間に圧倒的な力量差が顕となる。
「グゲア!?」
怪物が……改め、哀れな獣が身を引こうとする、もう遅い。女の青い目がぎらり殺意に輝いて、巨躯を押し返す。巨躯は想定外の力に足をもつれさせ、無防備に胴を晒す。
「ゔらあああ!!」
女は咆哮と共に、
……銃抜きで熊と殴りあって勝てるだろうか?一般に無理である。
例えば、190cmの体躯ならどうだろう。長く重く、鋭い
……無理に決まっている。
だから女はこれらを兼ね、さらにもう一つを持っていた。頭のネジが飛んでいる事である。追い打ちのように盾を突き立てると、硬質の表面が生物的に脈動して
「昼寝の分は取り返せたか?」
盾が半ば揶揄するように、びりびりと振動して言う。調子は平板だがとぼけた口調。
「足りない。全然足りない」
雪氷の世界で、如何にしてなけなしの防寒で行軍を続け得ているのか。実に単純に、出会ったものすべて叩き潰し、生き血を啜り、効率もなにもなく代謝して肉体を維持しているのだ。
「もっと食べないと」
怪物を吸い尽くした盾を女がごく自然に振り上げる。すると軽石を割るような音。食後の隙を狙い、音も無く忍び寄っていた怪物の下顎を、闇夜に紛れた黒い大盾が砕いた。
「なめないで、」
そして倒れる前に大盾をめり込ませ、侵食し、生気を奪って萎びさせていく。
「格上の相手は初めて?」
新手の化け物を1秒で喰い尽くし、ぱさぱさの粉炭になって散らせると、女はげっぷを一つ。
「満腹感が……」
「胃が小さくなったんじゃないか?その……なんだ、随分痩せたじゃないか」
女は一瞬不思議そうな顔をしてから、合点の表情で
「ふかふかするね……」
「エアバッグだな……ってやめろ、もういい!!」
自分以外の知性が宿った腕を膨らみに押し付けながら、女はわざとらしく衝撃を受けたような顔を作る。
「そうだよね……ちっちゃいもんね……」
「じゃなくて軽率に他人に触らせるんじゃない!!にしても、この量じゃ半日保つかどうか」
「んー、半日後に考える」
「食えるときに食っとけよいつもそうやって計画性が……聞けよ……」
「♪天国のような
女が甘ったるいが掠れた声で歌いながら、ざくざくと雪を踏み潰して進んでいく。時たま闇から転げ出る化け物を砕き、叩き切り、骨も残さず平らげる。
「手稲山に石狩川……じゃなくてやめろよ、目立って呼んでどうすんだ。食いすぎても困るぞ。俺が」
「やめたら怖くて発狂しそう」
「怖いって、片手間で切り払ってるじゃないか」
「
「そうか……それなら、街に着いたら何がしたい?」
飛びかかってきた狼の化け物を空中で木っ端微塵にして、迷わず答える。
「ちゃんと味のあるご飯をいっぱい、それからこれのオーバーホールと」
右手の槍斧を振り回して、鹿の化け物の角を叩き折る。その長柄と化している、年季の入った機関銃を整備したいらしい。
「それからあったかい部屋と、ふかふかの布団……やめよ、この話」
「どうしてだ?今できそうなやつだってある」
「だからだよ。僕の意思の弱さを知らないんだ」
「……そうか。だけど休息はしっかり取ったほうがいい」
女の目元にはどす黒い隈がわだかまっている。ぱちぱちと瞬いて、目許をもんで見せる。
「それこそ二度と動かなくなるかも」
「……無理しすぎるなよ」
「元より絶体絶命、この程度……」
それきり会話は途絶え、また無心の行軍が始まる。
女は寝ぼけ眼に映るそれを、何かの見間違いと思う。朝の
「街……か?」
「見間違いじゃないの。まさか」
冷たい雪を顔に塗りたくって、目をこすり、細め、それから自分の頬を力一杯に張って確かめる。そこに確かに、高い城壁に護られた都市がある。
「見間違いじゃ……ない。やろう」
「長かったな」
「……うん。」
腰に下げた、傷だらけの信号銃を空に向ける。この瞬間のために取っておいた一発。
「……あ、
透き通る氷河期の空を、煌めく一筋が滑り降りてくる。
「帰れますように、帰れますように、帰れま……」
城壁の街から一筋の
「ハ、消えちまったな。しかし目の前に家があるのに、なんでそんなこと願ったんだ?」
「もうない場所に、さ」
遥か南、
──1999年7月、空から恐怖の大王が来るだろう。
──アンゴルモアの大王を呼び覚まし、マールスの前後に首尾よく支配するために。
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