ブラキオサウルスは消えてない

伴美砂都

ブラキオサウルスは消えてない

 国道から山肌に沿う道に逸れてしばらく走ると、窓を閉めていてもしっとりとした緑の匂いが車内に吹き込んでくるように思われた。

 窓ちょっと開けてみてよ、と助手席の咲良さくらに言うと、咲良はうん、と小さく頷いて、細い指を少しだけ彷徨わせてからパワーウインドウのボタンを押した。途端にぶわっと風が吹き込み、一瞬で髪の毛が逆立つ。


「ぎゃ、ごめんやっぱ開けなきゃよかったわ」


 言うと咲良は黙ったまま、たぶん今日会ってから初めて笑った。

 後ろからきたスポーツカーに、登坂車線で道を譲る。視界の端にきらきらと水の輝くのが見える。道のすぐ横が川なのだ。

 道路脇に古ぼけた看板がある。レストハウス・ネオ。まだあるんだな、と思う。大きな樹の影になってひっそりとしているレストハウスネオが果たして営業しているのかどうかは、私が昔ここを父の運転する車で通ったころから、ずっとわからないままなのだけれど。



 桜を見に行かない、と咲良にラインを送ったのに深い意味はない。私は友達付き合いが得意なほうじゃないから、元気じゃない友人を元気づける方法として、どこかに連れ出すということしか思いつかなかっただけだ。

 私たちの住む町、いや今は咲良は一人暮らしで、そこには住んでいないのだけれど、ともかく、私たちの育った町から車でおよそ二時間半のところに、樹齢千五百年といわれる桜の樹がある。

 その近くがキャンプ場になっていて、子どものころ、中学に上がるぐらいまでは、家族で夏休みに毎年行っていた。従兄弟一家と一緒に小さなコテージを借りて、川遊びをしたり、途中のスーパーで買った材料でバーベキューをしたり。

 子ども時代、ああいうことは本当に面白かったなと今でも思う。両親とも旅行が好きというのもあるけど、かろうじて学校はちゃんと行っていたが二人の妹たちに比べると地味で友達も少なく、部屋に閉じこもりがちだった私を(まあ、閉じこもってたのはいじけたり引きこもってたわけじゃなく、漫画とゲームが楽しかったからなのだが)、どこかに連れ出そうとしてくれていたのかもしれないな、とも思う。


あかね


 助手席からふいに咲良が呼んだ。思い出に浸ってしまっていた私が、おう、と慌てて返事をすると、それ、と咲良は言った。


「いつも茜、おうって言うんだよね、突然呼んだとき」

「そう?」

「漫画読んでるときとかさ、五回ぐらい呼んでも気付かなくて、はっと気付いたらおうって返事するの」

「あー……心当たりはあるわ」

「ねえ茜」

「うん」

「……」

「……」

「……、運転、できるんだね」


 咲良が本当に言いたかったのはそれではないんじゃないかな、と、うっすらとわかった。尋ねていいのかどうかまでは、わからなかった。だから、いや今更かいッ、と冗談めかしてツッコミを入れると、そうだね、と咲良は今度は笑わなかった。

 そのまま、しばらく走った。順調に行けば、あと一時間もしないうちに目的地に到着するはずだ。この先に道の駅のようなところがあったはず。ちょっと休憩しよう、と言うと、咲良は窓の外を見たまま小さく頷いたようだった。


 中学生ぐらいまで咲良がときどき家に遊びに来ると、二人で延々と漫画を読んでいたなと思い出す。同じシリーズを読んで感想を言い合うとかでもなく、黙って、ちがう漫画を読んでいた。咲良は家が厳しくて漫画は買えないんだと言っていたから(うちは居間に漫画用の本棚がでーんとあるぐらいだから、それを聞いたときわりとショックだった)、ものめずらしかったのかもしれない。

 運動音痴でインドアの私とちがって咲良は運動部だったし、ふだん付き合っている友達のタイプも全くちがった。クラスで目立つタイプの子に突然、殿村さん、このまえ津田さんと一緒に帰ってたよね、なんで仲いいの、と面と向かって言われたこともある。今で言ったらスクールカーストっていうやつだろうか、なんか失礼だなぐらいは思ったけど、当時はそんな言葉も知らなかった。

 なんでと問われると、わからないとしか言いようがない。でも、どうしてか、ときどきそうやって一緒に居た。



 サービスエリアは随分とリニューアルされていた。きれいな食堂や広い土産物スペースに、外には野菜の青空市もある。地元でとれたものを売っているのだろう。眺めながら歩いて行くと、敷地の端に、地層博物館、と書かれた小さな看板があった。入場無料。県が運営している施設のようだ。

 入ろうかとどちらかが言ったわけでもないけれど、なんとなく入ってみると中はひっそりしていた。公営の資料館らしく、このあたりの地層の模型や地質についての説明が、こぢんまりとした展示室の中に並んでいる。

 足跡化石、の文字につられて、奥の部屋に足を踏み入れた。


「うわ」


 そこに待ち受けていたのは、天井すれすれまで背丈のある大きな恐竜の模型だった。ジラファティタン、と書かれた小さなパネル。肝心の足跡化石はというと壁際に追いやられていて、かつてこの地にも恐竜がいたのです、と吹き出しの形の掲示物が設えられている。

 よく見ると、どうやらこのジラファティタンというのがここにいたわけじゃなくて、足跡化石が残っているのは、もっと小さな別の恐竜のようだ。ジラファティタンはさしずめ「この図はイメージです」ってところか、と思うと可笑しかった。見上げた天井には、翼竜の模型まで吊るしてある。


「茜」


 後ろから呼んだ咲良の声が固くて、振り返ると咲良は部屋の入り口のところに佇んだままでいた。少し離れていてもわかるほど顔色が蒼褪めていて、駆け寄ると咲良の、細身のジーンズを履いた細い脚が震えているのがわかった。


「え、どしたの、大丈夫、貧血?」

「ちがう」

「そこ、椅子あるよ、座る?」


 咄嗟にジラファティタンの隣のベンチを示すと、咲良はこれまで見たことないほどの勢いでぶんぶんと首を横に振った。その勢いで倒れてしまいそうなほどに感じられて、思わず背中に手を添える。咲良の身体に触れたことはこれまであっただろうか、ずっとまえだ、記憶よりもずっと細く、固く、骨が浮き出た背だった。


「怖いの、恐竜」

「え」

「怖いし、嫌いなの、わたし、怖くなった、嫌いになっちゃったの、恐竜!」


 悲鳴のようだった。何もわからなかったが、わかった、と私は言った。会社の先輩に、わかったふりだけはするなよ、と言われたことをふと思い出した。わからんのにわかったって言ってもいいことないからな、わからんふりはしてもいい、と入社初日に言ってくれた先輩は、そういえばむかし考古学者を目指していたんだと言っていたっけ。いや、恐竜は考古学じゃなくて、なにか別の学問だったか。考古学者からIT企業に進路を変えた理由を聞いたことはない。

 や、ごめん、やっぱりわからない、いやわからないけど、でもわかった、言うと咲良は焦点の合わない目のまま、それでも何度か頷いた。私は咲良の背中から手を外して、そっと腕を取った。



 外はよく晴れているが、山だからか日陰は肌寒いほどだ。車まで戻るか少し迷って、道の駅の裏手の、川に面した樹の下のベンチに座った。対岸の桜はほとんど満開で、しかしまだ開ききっていない蕾もあるのか、心なしピンク色が濃い。

 自販機で買ってきたお茶を手渡すと、咲良は対岸に目をやったまま、ありがとう、と口もとだけで言った。


「茜、ごめんね」

「え、……いや、全然、っていうか、こっちこそ、……ねえ、咲良、帰ろうか?」


 咲良がどうして会社に行けなくなってしまったのか、詳しい理由は聞いていない。ただ、今、咲良が何を見ても、白黒にしか見えない、ということだけは聞いていた。目にも脳にも異常はないらしいから、仕事のストレスで、そうなってしまったのだろうということ。

 それなのに桜を見に行こうだなんて、ほんとにそういうとこだよなあ私、と今更ながら背中にずしんと来るものがあった。しかし咲良は、はっきりとした口調で、やだ、と言った。


「やだ、行く、茜と、桜、見に行く」

「……、わかった」


 今度は本当に、わかった。さっき展示室で慌てて掴んできてしまったリーフレットのようなものを、膝の上でくちゃくちゃにしてしまっていたのをそっと伸ばす。

 咲良の口から、やだ、という言葉を聞いたのは初めてのような気がした。ひとの悪口も言わないし、否定的なことも言わない。もしかしたらほかの友達の前では言っていたのかもしれないけど、どうしてか、咲良はもともとそういうひとなんだとずっと思っていた。でもそれは、もしかしたら咲良にとっては、とてもつらいことだったのかもしれない。


「茜」

「うん」

「会社、……会社にさ、新人って、いる」

「え、……うん、いる、けど」

「新人、教えたり、するの」

「や、チーム違うから……まあでも、隣の席だし、社内システムの使い方とか、なんか基本的な、デバッグの仕方とかは教えたりするけど」

「指導係だったの」

「え……っと、新人の?」

「うん、そう、……私も、でも、ひとりで教えてたわけじゃ、ないんだけど」

「うん、」

「仕事、できなくて」

「え、……っと、その、新人の子?」

「うん、……教えても、教えても、できなかった」

「……、そっか」


 中学生のころ、一時期、咲良は学校へ行けない時期があった、と記憶している。咲良自身から聞いたわけではない、彼女のクラス担任の先生に呼ばれたのだ。殿村さん、津田さんと仲いいんだよね、なにか悩んでるとか、聞いていないかな、と。件の派手なクラスメイトに似たようなことを言われた記憶が新しいうちだったからなんとなくムッとしてしまって、なにも知らないです、としか答えなかったのだけれど。

 咲良がバドミントン部で試合に出たり、部内の二年生の学年代表もしているということはなんとなく知っていた。後輩も入ってきて、指導に悩んだり、責任を感じているのかな、と、帰り道に考えていたのをおぼえている。それも、想像でしかないけど。そんなことを、ふっと思い出した。


「……その人、異動になったんだよね」

「へ」

「一年半ぐらいかな、去年、じゃないや一昨年、……もう一昨年か、……うん、一昨年、の秋にね、時期はずれの異動で」

「……」

「田舎の方の工場の事務に変わったの」

「……、」

「それから、わたし、だんだん行けなくなっちゃった、会社」

「……、そっか」

「ゆるせなくて」

「え、」

「ずっと、ゆるせなくて」

「え……っと、その、新人の子」

「そう、……あのね、わたし、一回転職したんだよね」

「そうだっけ」

「そう、茜と、全然会ってなかったもんね、……最初に勤めた会社で、なんていうのかな、」


 ひゅっとふいに強く風が吹いた。気のせいかもしれないけど、桜の匂いがふっと鼻を掠めた。咲良の、ペットボトルを握りしめた手が真っ白になっていて、そろそろ車に戻ろうか、と、尋ねる前に彼女はまた口を開いた。


「いじめられてたの、それで、一年で辞めて、転職した」

「え……、そう、なんだ」


 いじめられる、という言葉ほど、咲良にそぐわないものはない気がした。でも、そうなんだ、としか言えないほど、そういえば私は、咲良とずっと一緒にいたわけではない。

 誰だって、変わることぐらいあるのだ。意図せずに、変わってしまうことも。


「なんでいじめられないんだろうって、思ってたの」

「え、」

「あの子が、……あんなに仕事できない子が、どうしていじめられないで、みんな優しくてって、……めちゃめちゃにいじめられればいいのに、傷つけられたらいいのにって、ずっと、」


 咲良は大きく息を吸って、そして、ゆっくり吐いた。そっと横目で顔を見る。泣いてはいない。顔色はまだ良くないが、頬には少し赤みが戻ったようにも思えた。


「ジラファティタンっていうんだね」

「え」


 咲良の視線は、私の膝の上のリーフレットにあった。さっきの恐竜模型の写真。あ、と慌てて畳もうとする私の手を咲良はそっと止めた。そこに書いてある説明文を見てみる。


「ジラファティタンは、むかしブラキオサウルスとよばれていた恐竜です……え、ブラキオサウルスって聞いたことあるわ、っていうか、むかし本に載ってたブラキオサウルスって、これだよね、たぶん、古い記憶だけど」


 言ってから、さっき怖いと言った咲良に恐竜の話をしても大丈夫だったのかと、そっと顔色を窺う。けれどジラファティタンを見る咲良の目は、もう怖がってはいないように見えた。


「研究の結果、これまでブラキオサウルスと呼んでいた恐竜が、実はまったくべつの種類だとわかったのです、……ねえ、茜、ブラキオサウルスは消えたのかな」

「や、えっとね、ここに書いてある、ブラキオサウルスっていう名前の恐竜もいるんだって、こいつとは別の恐竜だけど」

「そうなんだ」

「ブラキオサウルスは消えてないっぽいよ」

「そっか」

「うん、なんかちょっと変わったっていうか、別人だってわかったけど消えてないって感じ?別人っていうか、人じゃないけど」

「……、」

「まあ、周りっていうか、人間が勝手に呼び名、変えただけで、こいつ自体が変わったわけじゃないもんね、骨の形とかさ、べつに」

「……、そうだね」


 ややこしっ、と言うと、そうだねと咲良は笑った。


「っていうか、ここで見つかった足跡のこと全然書いてないし」

「ほんとだね」

「咲良」

「うん」

「行こっか、桜、見に」

「うん」



 道路はいつの間にか片側一車線になり、少し前を木材を積んだ白い軽トラが行く。このあたりでは有名らしい古木の桜は大混雑かなと予想していたが、少し遠いところの駐車場にはすんなりと入ることができた。

 咲良とふたり、屋台も並ぶ緩やかな坂道をのぼって行く。焼きそばの匂いにふと空腹をおぼえる。そういえば、道の駅に食堂もあったのに昼食を摂らずに来た。


「「おなかへったな」」


 同時に言ったので、笑ってしまった。


「あ、あのしいたけ焼きっていうの、食べたい」

「いいけど、絶対おなかいっぱいにはならなくない?」

「じゃあ焼きそばも食べよう」


 坂を登り切ると少し息が切れた。桜の古木は、広場の真ん中にひっそりと佇んでいた。この樹を中心にして作られた場所なのだろうに、ひっそりと、と感じられるのは不思議だ。

 もう、ひとで言えば老人の樹だ。周囲を幾本もの太い支柱に支えられたその姿からは樹木の生命力というよりは、どこか悟りを開いたような雰囲気を感じる。花は少ししか咲いていない。桜は老木のほうが早く咲くというから、もう散ってしまったあとなのかもしれない。皺が寄っているようにも見える樹肌に点々とあるのは、白に近い、薄い色の花だ。


「濃いピンク?」


 咲良が隣から聞いた。えっとね、ほぼ白、というと、そっか、と笑う。


「なんか、あんまり咲いてなかったね、意外と、がっかり?大丈夫?」

「いいよ、べつに、見れただけで」

「まあ、そうだね」

「千五百年は、すごいよね」

「そうだね」

「ずっとあるんだもんね」

「そうだね」

「茜」

「うん」

「ありがとう」

「え、……うん」

 

 古木の桜は最初見たとき、なんだか倒れてしまいそうだな、と思った。でも近くに寄ってみると、白髪のように色の薄い花弁はきちんと瑞々しく、花の散ったあとから薄い緑の葉も少し顔を出している。見上げながら、咲良、どうか、どうか元気になれ、と、私は強く願った。


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ブラキオサウルスは消えてない 伴美砂都 @misatovan

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