ブラームスのワルツ

増田朋美

ブラームスのワルツ

ブラームスのワルツ

ある日、杉ちゃんは製鉄所の利用者である女性、棚村智子と一緒に、三島駅へ出かけることになった。三島駅近くにあるコンサートホールでピアノを弾いてみようという体験会があって、それに参加する為であった。富士駅へ行ってみると、次の電車は沼津行きであった。仕方なく杉ちゃんたちは、その電車に乗って沼津駅へ行き、沼津駅から別の電車に乗って三島駅に行くことにした。

沼津駅まではなんてことなかった。ただ駅員に手伝って貰って、電車に乗り込んで、沼津駅まで乗せて貰うだけである。沼津駅で又駅員に下ろしてもらって、杉ちゃんたちは別の電車に乗せて貰って、三島駅へ向うことにした。

三島駅で下ろしてもらうと、杉ちゃんたちは、ホールへ直行した、のだが、三島駅前のコンサートホールは、坂道ばかりで車いすではひとりで移動できなかった。杉ちゃんは智子に車いすを押してもらって、坂道を下って、コンサートホールに向うのだった。ホールの入り口は、階段を登っていくよううになっているのだが、エレベーターもちゃんとあった。

「全くよ、ホールの入り口だけはしっかりしてるんだな。でも、これでバリア―フリーっていうのかな、それができていると思ったら大間違いだよ。途中の道も、こんな坂だらけにしないでさ、車いす一匹でも、通れるようにしないとダメなんだよな。そうでなければ、本当に誰でも音楽聞けるわけじゃないからさ。まあ、そうなるのは、大分先になりそうだな。」

と、杉ちゃんはそうつぶやきながら、エレベーターに乗った。智子は、まあ、そんな事いわないでといいながら、一緒にエレベーターに乗った。とりあえず、エレベーターで入り口は通ることができた。受付を済ませた二人は、車いすでピアノ演奏体験イベントが行われている、大ホールへ向った。今回、観客席は設けられておらず、付き添いの人も一緒に舞台で演奏を聞くことになっているので、杉ちゃんも智子も、係員に付き添われて、舞台のそでにいった。丁度二人が行くと、前の人が、技巧的なブラームスのソナタ三番をやっていたので、智子は一寸しり込みしてしまうほどであった。数分後にその人の番は終わって智子の番になった。智子も杉ちゃんも前の人がどんな人物なのか気になった。演奏し終わって、舞台袖に戻ってきた人物は、すくなくとも80歳は越えているお爺さんだった。しかも、ピアノ演奏が楽しくてたまらないというくらい、にこやかな顔をしていた。智子が係員のひとに誘導されて、舞台で演奏を開始したが、お爺さんにはかなわないほど下手な演奏であった。

「ほう、珍しい曲をやられますな。」

お爺さんが、杉ちゃんにそういう事をいった。

「珍しい曲って何?どういう事?」

杉ちゃんが聞くと、

「いやいや、若い人が、ハイドンのソナタをやるなんて、珍しいなと思っただけです。若い人というと、ドビュッシーとかラベルみたいな、そんな曲をやりますからね。大体、古典派の曲をやりたがるなんて、なかなか若い人はいませんよ。」

と、お爺さんはにこやかにいった。何だかかなり年を取ってしまっているらしい。前歯はかけているし、髪は白髪頭だった。とても、ピアノを弾く人の風貌というよりは、遠ざかっているように見えるのであったが、それでも、ブラームスのソナタ三番を弾きこなしたのは確かだった。

「お爺さんはどっかでピアノを習っていたんですか?誰か音大の先生についていたとか?」

と、杉ちゃんが聞いた。

「とても、素人が弾くような曲ではないよな。あれ、音大生でも弾きたがらない曲だね。そんなのをどうして、お前さんがやろうと思ったの?ブラームスの初期の作品で最も難曲とされている曲。」

「いやあ、音大の先生にはついていません。とてもそんな余裕はなかったのでねえ。」

と、お爺さんはにこやかに答える。

「それでは、音大の先生でなくても、誰か優秀な人物が近くにいたのか?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「いやあ、優秀な人物なんていませんよ。ひとりで全部やりました。まあ、言ってみれば、動画サイトが先生みたいなモノかなあ。其れを真似して、曲の雰囲気とか、そういうのを真似しているだけだよ。」

と、お爺さんはいった。

「本当にそうなんですか?なんか全然そんなセリフが合わない、すごい演奏だったぞ。絶対誰かについてるだろ?失礼ですが、爺さんはお年はおいくつですか?」

杉ちゃんは疑い深そうな目でそう聞いた。

「はい。大正15年生まれです。」

と、いうお爺さん。ということは、90歳をとうに越しているという事になるのだろうか?そんな事、とても信じられない演奏だった。

「うーん、そうだねえ。ルービンシュタインは、90代まで演奏してたけどねえ、、、。」

と、杉ちゃんは、頭をかじった。

「まあいいじゃないですか。90歳を越えてやっと、自由に演奏ができるようになりました。こういう自由な時代になってくれて、よかったと思いますよ。ははははは。」

お爺さんはにこやかに笑って、持っていた楽譜を鞄の中に入れて、帰り支度を始めた。

「自由な時代になった?お前さん、なんかの訳ありか?」

杉ちゃんは、すぐに聞いた。そういう人のあいまいな表現にすぐに突っ込みを入れるのが杉ちゃんというものである。

「その、訳というのを、一寸話して貰えないもんだろうかな?せめて、名前だけでも聞かせて貰えない?」

好奇心いっぱいの目で杉ちゃんが質問すると、相手は答えが出るまで、質問され続けるのである。お爺さんは、杉ちゃんのそういう性質を、知っているわけでは無いと思うけど、すぐに答えてくれた。

「宮川です。宮川明憲。明るいに、憲法の憲と書いて明憲です。」

「はあ、文字の事を説明されてもよくわからないが、宮川明憲という名前だけは覚えておくよ。何か訳がある奴であることもわかった。それだからこそ、ピアノがすごいうまいんだと思う。住所は何処に住んでいるの?」

「ああ、函南町です。」

と、お爺さんつまり、宮川さんは言った。

「函南町ね。じゃあ、三島から近くのところだね。じゃあ聞くが、富士に来て貰って、演奏することはできないものかな?」

と、杉ちゃんが言った。

「富士ですか?電車ですぐにいけるところですよ。函南駅から近くなので。」

と、宮川さんが言うと、

「ああそうか。じゃあ、悪いんだけど、ネットか何かで、高野正志ピアノ教室を調べてみてくれるか?そこで、ピアノサークルやっているからさ。お前さんに賛助出演で出てもらいたいんだよ。曲は、さっきも言った、ブラームスのピアノソナタ第三番。他のでもいいけど、とにかく華やかな曲を持ってきてくれ。よろしく頼むよ。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑って言った。宮川さんは手帖を出して、高野正志ピアノ教室、富士市と書き込んだ。字はうまく、何処かで書道教授でもしていそうなほど、綺麗な字だった。

「よし。よろしくお願いします。マーシーこと高野正志には、僕から言っておくよ。じゃあ、連絡はメールかなんかでやり取りしてさ。マーシーのピアノサークルで花を咲かせてやってくれ。」

杉ちゃんはそう話をつづけた。

「分かりました。じゃあ、そのピアノサークルでお世話に成ろうかな。」

宮川さんもにこやかに笑った。多分高齢のお爺さんでなければ、杉ちゃんのこういう強引な姿勢に従ってはくれないだろうなと思う。でも、宮川さんは、杉ちゃんの話しに乗ってくれた。

「今、ハイドンのソナタを一生懸命やっているあの女性も一緒だ。彼女のように、社会へ出れなかった訳ありの人たちが、いっぱいいるんだ。だから、お前さんみたいなお年寄りが来てくれるとみんな喜ぶよ。だって、みんな、親とか、親戚とかそういうやつらの心無い発言に、傷ついている奴ばかりだからな。」

杉ちゃんが笑ってそういうと、智子の演奏時間はおわった。係員の指示で智子は演奏を終えて、舞台裏に戻ってきた。もう、30分経っちゃったのねなんて言いながら智子は戻ってきた。杉ちゃんが急いで、

「あ、お前さんの演奏は終わったのね。お爺さん、宮川明憲さんね。お前さんの所属しているサークルで演奏してくれるって。よかったな。皆さんも喜ぶだろうよ。」

杉ちゃんがいうと、

「来て下さるんですか?」

と智子は言った。

「まあ、こちらの方の強引なお誘いがありましてな。」

と、宮川さんが言うと、

「こちらの方じゃなくて、杉ちゃんと言ってくれ、杉ちゃんと。本名は影山杉三だけど、そんなの呼ばれたくないもんでね。こっちは、親友の、棚村智子さんね。よろしく頼む。」

と、杉ちゃんは互いの名前を紹介した。

「了解しました。じゃあ、そのピアノ教室のホームページにアクセスして見ますので、よろしくお願いします。」

にこやかに笑って頭を下げる宮川さんは、もう何だか人生を達観しているような、そんな感じのおじいさんだった。何か、辛いことがあって、その真っ只中という感じの人ではない。それどころか、悟りを開いて、それを皆にわけてあげたいと思っているような、そんな雰囲気がある。

「ありがとうございます。私たちのサークルに出てくれるなんて、感激です。ぜひ、すごい曲をやってください。」

智子は、宮川さんに頭を下げる。

「今度の日曜日に例会があるんです。一寸急ですけど、出ていただけますか?私、高野正志先生に言っておきますから!」

「ええ、分かりました。先ほど杉三さんという方にもお話しを伺いました。富士駅まで迎えに来てくれれば、何処の会場でも演奏いたしますよ。」

智子がそういうと、宮川さんは言った。

「分かりました。日曜日の一時に迎えに上がります。よろしくお願いします!」

「はい。了解です。」

宮川さんは手帖に、一時に富士駅と書いた。

その日は、約束を確約させて、三人は別れた。杉ちゃんたちも、ホールのスタッフに手伝って貰って、ホールを出た。宮川さんもホールを出ていったが、ちゃんと入り口の階段を降りていく。杖も手すりも何も使っていないで、平気な顔をして階段を降りていくのだ。そんなしぐさをみて、とても90歳を越えた、お爺さんであるという雰囲気は見えなかった。顔を見れば確かにお爺さんだったけど、歩くしぐさとか、そう言うことは、まるで若い人に見えるのだった。

「すごい大物だな。なんか、エビで鯛を釣ったような気分だ。」

「本当ね。」

智子と杉ちゃんは、そんな事をいいあった。

「うちのサークルで、満足してくれるかしら。あんな大曲弾ける人は、今のサークルにはいないわ。」

智子はそんな心配をしているほどである。

「ま、運を天に任せよう。」

杉ちゃんはそういった。そして、又智子に車いすを押してもらって、坂道を登って、三島駅に戻っていった。何だか、宮川さんより、杉ちゃんのほうが、よほど他人に頼っているのではないかと思われた。

そして、日曜日がやってきた。杉ちゃんと智子は、大型のタクシーを予約して富士駅の北口で宮川さんを待った。宮川さんは、やはり杖もなく、北口の階段をおりて北口のタクシー乗り場まで来てくれた。杉ちゃんが手を振って、彼をタクシーに招き入れ、智子がタクシーのドアを閉めた。

「いやあ、なかなかいい街ではないですか。」

と、タクシーの窓の外を眺めながら、宮川さんは言った。

「函南町は、こんな立派な商店街もないし、大きな文化会館もないですよ。おまけに車がないと何もいけませんから。それなのに大きな駅があって、電車が走っているなんて、便利な町だと思いますよ。」

「そんなにほめなくていいよ。」

と、杉ちゃんは言ったのだが、宮川さんはにこやかに笑っていた。

「いえいえ、駅中にカフェもあるし、楽器屋さんもあるし、いい街だと思います。それは、自慢してもいいですよ。」

「ありがとうございます。」

智子と杉ちゃんの代わりに、タクシーの運転手が答えるほどであった。数分後、駅から少し離れた楽器店に到着した。その店舗の奥に、練習室があって、10人くらいの人間が入れるようになっているのである。杉ちゃんたちは、運転手に御礼を言って、下ろしてもらい、楽器店の中に入った。そして、奥の練習室に入ると、3人のメンバーと、マーシーこと高野正志が待っていた。

「おう、連れてきたぜ。大型新人の、宮川明憲さん。」

杉ちゃんがそう紹介すると、宮川さんは、深々と頭を下げる。メンバーを代表してマーシーが、

「初めまして、ピアノ教室主宰の高野正志です。よろしくお願いします。」

と、あいさつした。其れからメンバーもそれぞれの名前を言った。でも、みんな確かに訳ありの人ばかりで、鬱になっているというか、もう気力がなくなってしまっているようなそんな顔をしている人ばかりである。

「それでは、演奏を始めましょうか。ここのサークルのルールとして、うまい下手と比べてはいけないというルールがあります。大曲をやるのもよし、小品でもかまわないですから、とにかくご自身が

できる精いっぱいの演奏をしてください。」

と、マーシーが言って、メンバーさんはひとりひとり演奏を開始した。演奏と言っても、大曲は演奏せず、ブルグミュラーの練習曲とか、簡単なソナタ程度のものであった。それでも、みんなできる限りの事をせいいっぱい弾いていた。

「じゃあ、ラストは、スペシャルゲストに演奏してもらおうか。宮川さん御願いします。」

と、杉ちゃんがいうと、

「はい、わかりました。今日は簡単な曲をやっている方が多いようなので、皆さんに親しみやすい曲を演奏させて頂きます。」

宮川さんはそういって立ち上がった。

「はあ、何をやるんですか?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、ブラームスのワルツ、15番です。愛のワルツとも呼ばれています。」

と、宮川さんは言って、一礼してピアノの前に座った。そして、おだやかなワルツを弾き始めた。ブラームスのワルツなので音が多く、弾くのにくろうするが、でも、流石宮川さん。間違えることもなく、強弱もしっかりついて、ちゃんと曲になっている。大体の人は、強弱をつけられないとか、大きな音ばかりで曲のアップダウンがないなど、難点が出てしまいがちだが、宮川さんの演奏にはそれがなかった。

演奏が終わると、メンバーさんたちは、手を叩いて喜んだ。中にはブラボーと言ったメンバーもいる。

「いやあ、すごいですね。ブラームスの曲というと、なかなか音が多くて大変ですよ。其れなのに、よくやられますな。とても、90代の方が演奏されたとは思えない演奏です。ありがとうございました。」

と、メンバーを代表してマーシーが言った。

「どうして、そんなにお上手な演奏をされるんですか?どなたか、音楽学校の関係者にでも習ったんでしょうか?其れとも外国へ留学されたとか?何かそういう過去を持っていなければ、そんな演奏はできないでしょう?」

と、観客席に座った宮川さんに、マーシーが答える。

「いやあ、それはありません。ただ、物まねをやっているだけです。動画サイトの演奏を見て、それを真似しているだけです。それ以外に何もありません。」

宮川さんは正直に言った。

「ええー?そんなわけないじゃないですか。そんな演奏ができるんですから、絶対だれか偉い先生についてますよね。そうでもしなければ、そんなうまく演奏できるはずないですよ。」

一寸お調子者のメンバーさんがそういった。

「それに、あたしたちとは絶対違うでしょう。あたしたちは、もう社会からはみ出してしまって、こういうところへ集まるしかできなくなってしまったけど、宮川さんはちゃんと先生に習っているんでしょ?そうですよね?」

智子がそう聞くと、宮川さんは違いますよ、とだけ答えた。

「でも、そんな事ができるってことは、、、。」

と、智子はまだ、そういうことを言っているが、宮川さんはにこやかにわらっているだけで、答えなかった。

「いいえ、私も皆さんと同じですよ。時間があったから、ピアノを弾くことができた。それと同じです。」

と、宮川さんはそういうことを言った。それはまるで、重大な秘密を話した時の顔であった。もしかしたら、ずっと口にしてはいけないと言われたことを、口にしているようなそんな感じの顔つきであった。

「そうだったんですか。それは大変でしたね。でも僕たちは、それを恥ずかしいとか、ずるいとか、いけないとか、そんな事は思いません。体や心が不自由だったから、芸ができたという人は、このサークルにはいっぱい居ますからね。どうか、そこはご安心ください。」

マーシーが、宮川さんにいうと、

「そうですよ。それに、私たち、宮川さんのすごい演奏を聞くことができて、本当に感動したんですから。宮川さんのように、長く生きていればいいことがあるんだなって、今知りました。ひとつ

答えを出してくれたじゃないですか。これからも、私たちのお手本として、このサークルに来てください。」

智子は、にこやかに笑って宮川さんにいった。でも、宮川さんは、それを言ってはいけないような、そんな感じの顔をしている。それは、もしかしたら、極秘にしておきたいというか、黙っておかなければいけないというか、そんな感じの顔なのだ。

「まあ確かにさ、昭和の頃は、そういうピアノに打ち込んでいる奴はダメな奴だったかもしれないけど、今は、そうじゃなくなってて、色んな人が居て社会に変わりつつあるんだから、働けなかったとか、そういうことを恥ずかしがる必要は何もないんだよ。」

杉ちゃんがカラカラと笑って、そういうことを言った。

「そうですよ、私たちに、こんなすごい演奏聞かせてくれたじゃないですか。其れってある意味すごいことなんじゃないかと思うんですが?」

智子は宮川さんに言った。智子としてみれば、そういうところに自信をもって貰いたかった。それでも、宮川さんは申し訳なさそうな顔をしている。

「いいじゃないですか。これから、宮川さんのすごい演奏を、色んなところで聞かせてください。今は、動画サイトもあれば、SNSに演奏を投稿することだってできますよ。僕の生徒さんにも、そういうことをして、自信をつけようとしている人もいます。」

と、マーシーが、宮川さんを励ますと、宮川さんはそうですね、といった。

「初めて自分のピアノをほめてもらったんで、どういう返事をしていいか、わかりませんでしたよ。」





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ブラームスのワルツ 増田朋美 @masubuchi4996

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