ハルジオンが牙を剥く 3

 視界に明滅する明かり。

 見える範囲の壁が大きな音を立てて持ち上がる。重厚なソレは次々と新しい道を繋ぎ、進むべき方向を示す。

 僕は通路のど真ん中を迷い無く進んだ。


 きゅ、と鳴る床を意識しつつ、冷え切った頭が現在位置と方角を確認する。

 置き去りにした追手がすぐそこまでせまっている。


 またひとり。男性と曲がり角で鉢合わせる。

 端紙による合図で接触することはわかっていた。身を屈ませれば、伸ばされた腕が空を切った。ズボンの膝が床を擦り、破れるのを感じた。


『突き当たりの階段を使ってください』

「はっ……はっ……!」


 返事は不要。

 僕は息を切らして階段にさしかかる。一段飛ばしで駆け上がり、そのたびに膝が悲鳴をあげた。ただ走るのとは全くの大違いだ。駆け上がれば駆け上がるほど、身体を疲労感が襲う。すぐそこで休みたい。ちょっとでいいから休憩したい。でもそんな暇はない。

 制限時間は六分。それを過ぎれば隔壁が閉まってしまう。そうなれば僕らは袋のネズミ同然。何もできず、ただただ、片踏マナが幽霊を現実のものにしてしまうのを待つことしかできない。

 ……歯を食いしばった。

 これはいつも端紙と行っていた作業とは違う。騒動の悪化を抑えるための行動ではない。失敗は許されない。以前は五分間を全力疾走したけれど、今は六分間を常に全力疾走だ。容赦がない。遠慮がない。

 でも、それだけ端紙リオは本気だった。

 心臓破りの階段を上り、四階へとさしかかる。酸素を必死に肺へ送り込み、ミドリ色をした非常看板のまえを通り過ぎる。そこで、進行方向を見た僕は戦慄した。


『詩島さんっ!』

「っ!?」


 暗くて見えない。でも確かにそこには大柄の男が立っていた。

 瞬時に踵を返す。

 すぐそこにあったドアノブを回し、体当たりするように転がり出た。


『右!』


 転びそうになりながら走りを再開する。後方で仲間に知らせる大声が響く。

 走りながら、僕は舌打ちした。


『東棟階段を使います! ルート変更、想定四分から六分ギリギリ、ごめんなさい!』

「いいっ」


 ノドが痛い。足が辛い。弱音のように大きな息を吐き出すのが怖くて、いつもの軽口を噛み殺す。

 前方で痩せ型の男と女が見えた。

 また響く端紙の声。

 頭が割れそうだ。思考が段々おぼつかなくなる。

 もはや自分の位置なんてわからない。だから声しか信じない。進む方向なんて考えなくていい。今だけ僕の脳は端紙リオだ。

 だから、

 だから今は、ただ前だけを見ろ、詩島ハルユキ――!


 避けられない集団が近づくのを感じた。

 ここを直進するしかないと声が促した。

 速度はあげられない。だから僕は覚悟を決めた。


 もうこの際どうだっていい。

 どうなったっていい。端紙リオの望みを叶えることができるのならば、力任せの方法だっていとわない。だってそれしかない。


『がんばって』


 その一言だけが、僕を走らせる燃料だった。その一言だけで、覚悟を決めるには十分だった。


 拳を振るう瞬間。

 様々な思考が邪魔をする脳は、刹那の時間に突入。ぶつん、と、記憶する作業を途切れさせた――。

 

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