ハルジオンが牙を剥く 4

 ワケも分からず走り続け、僕はいつの間にか目的地にたどり着いていた。


 明滅する視界がようやく認識できるようになったのは、破裂しそうな心臓の音を理解できてからだ。

 僕はリノリウムの床で、大の字で寝転んでいた。

 背中にあたるひんやりとした硬さ。動こうとするも、全身が鉛のように重い。ここまで走った反動が、ここ数分の記憶を飛ばしている。頭に血が上ったようなあの時間は、まさに地獄のような数分だったと言えよう。


『大丈夫ですか』


 落ち着いた声が、僕を心配する。

 返す気力もなくて、視線だけで周囲を見渡した。未だに呼吸は荒い。


 広いその部屋は、天井が高かった。

 四方の壁を黒く細長い箱が塞いでいる。部屋のど真ん中にも同じような箱が佇んでいる。高さは人間三人分くらいだろうか。

 僕が転がり込んできた入り口は隔壁で封鎖されている。すでに突入してから六分が経過している証拠だ。つまり、ここがゴールだと仮定すると……


「僕、は……間に合った、のか」


 掠れる声でつぶやく。

 すると、心底安心した様子で女の子が覗きこんできた。


「よかった」


 数秒遅れて、端紙だと気づく。

 僕は咳き込み、上半身を起こす。端紙はいたわる仕草をするが、さわれないことを思い出し指を引っ込めた。

 その仕草をなんだか懐かしく感じる。動く彼女を見られたのが水代わりに染み渡った。お陰ですこしだけチカラも戻ってきた。


「ここ、が?」

「はい。管理センターの最奥、記憶データの集積場所です」


 よろめきながらもなんとか立ち上がる。

 気分は人間に戻ったゾンビだ。


 改めて周囲を見渡し、広さに驚く。

 窓は設けられておらず、外の光は入ってこない。部屋が明るいのは壁に走るライン状の光。無音に近いが、四方を囲む箱と中央の箱が静音を放ち、稼働していることを実感する。

 きっとこの黒い箱こそが、『リラシステム』の本体なのだろう。

 荒咲市に生まれた人間の脳を、幼少期にスキャン。その記憶を基盤となるデータとして蓄積。僕らの携帯にインストールされた相性診断アプリは、この場所から引き出したデータをもとに算出されている。

 正確には、ここにあるデータを成長させて。


 校長の語っていた本質が、そこにある。

 そして同時に、これは片踏マナが手に入れようとしている代物だ。


 視界の中心の人影に、僕はもう気づいていた。


 見染目が追い詰めた少年にして片踏マナの実兄――片踏キョウ。

 そいつが、部屋のど真ん中に鎮座する箱の傍らで眠っていた。


「……あれは、」

「彼はいま、『リラシステム』のデータバンクに潜り込んでいます。きっと片踏マナも一緒でしょう。現在進行形で、彼らは情報を盗んでいます」

「――、」


 片踏キョウは、片腕を箱に付けたまま眠っていた。否、眠っていたという表現は違うのか。今彼は潜っているのだから。意識を移している、という方が近いかもしれない。

 僕はこの管理センターに入るまえに言われた言葉を反芻していた。

 『求められるのは殴り合い』。

 僕と彼ならともかく、実体の持たない片踏マナと端紙リオが殴り合うというのは不可能だ。少なくとも現実では。

 しかし、現実でできないのであればフィールドを変えるしかない。


 簡単な話である。

 殴り合いできる場所に赴けばいい。


「端紙」

「いけますか」


 ゆっくりと、二人で箱に近づいていく。

 端紙リオはこうなることを想定していた。遅かれ早かれ、この兄妹はここに至る。今現在そうしているようにデータを漁る。

 だから、きっとここからも彼女の想定どおりの展開。

 僕と端紙が後を追う流れだ。


 ここからが正念場です、と端紙はこぼした。

 身体が動くといいんだけど、と僕は苦笑まじりに返した。


 触れられる程度まで近づくと、黒い箱は仄かに発光する。

 それを見据え、一度端紙と目を合わせた。


「触れば中へとアクセスできます。大丈夫、私も一緒です」

「これが最後、になるのかな」

「……おそらく。きっと私たちの役目は、この先で終わりを迎える」


 端紙リオは片踏マナと決着をつける。僕はその兄を足止めする。明日の『リラ』がどう転ぶとしても、もうやり直しはないだろう。

 一度きりの殴り合い。

 僕らは互いの未来を背負ってここに立っている。あとは証明するだけ。


「――詩島さん」

「なに?」


 同じ方向に目を細めながら、声が聞こえた。


「いつか私は、一度だけ牙を剥いたと、そう言いました」

「ああ。言ったね」


 騒動の最初に彼女が侵した罪。僕と出会うために、数多の死者の情報を露出させた行為。


「ごめんなさい。あれ、訂正します」

「……そっか」


 言わんとすることを理解する。

 僕と彼女は、間違いなく通じ合っていた。




「私はもう一度だけ、牙を剥きます」




 追想の愛。

 君は僕のことをハルジオンのようだと言ったらしいが。

 僕からすれば、君こそがハルジオンに相応しかった。


 感触はなくとも、僕らは手を繋いでいた。


 もう片方の腕は持ち上げられ、指先がそっと、冷たい箱に触れた。

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