けれどソレは偽物ではない 14

 いつかの私は、すべてを取りこぼさないようすくい上げるのが正しいと思っていた。

 勉強。部活。そして何より人付き合い。

 すべてを完璧に、というのはさすがに無理がある。でも平均して七割を維持するほどの成果が常識で、両親は喜んで褒めてくれた。

 人々は勉強を何かと数値化したがる。だから単純だ。

 部活もカタチとして成果が与えられる。表彰なんかは最たる例だ。

 輝かしい日々を日記に綴りながら、私は嬉々として上を目指してきた。失敗は改善した。どんなに酷くてもやり直して、見直して、立て直した。だからこそ努力はカタチとなって舞い降りてきた。

 それまでの私は、きっと環境に恵まれていたのだと思う。

 皆が喜んでくれた。皆が褒めてくれた。私もそれに応じて恩を返してきた。だれ一人として、私の害となるものは居なかった。それが世界だと信じていた。


 だけど、常識など容易くくつがえる。


 最初に崩れ去ったのは部活動。

 上級生の部長は気難しいひと――というより不満や鬱憤を部活動で排出するタイプだった。上辺だけの部活動に入部した私はすぐに思い知る。

 険悪な空気。

 常にコミュニケーションは最悪。他人の陰口が横行し、時には所持品が隠されることも少なくない。連鎖的に部員は疲弊し、ストレスを吐き出して、それを受けてまた別の生徒が黒く染まっていく。悪循環だった。

 まず思い知ったのが、「人間関係はやり直しが難しい」ということだった。

 今まで、勉強も部活も七転八倒な精神でやり遂げてきた。

 でも、これはダメだった。いくら改善を尽くしても、状況は悪い方向ばかりへ進んでいった。上級生から反感を買い、密かに標的にされた。きっと私は世間知らずで、あの集団の中では真っ直ぐすぎた。


 ――日記の愚痴が増えた。


 引っ張られるカタチで、勉強にも支障が出た。

 予想外のストレス、重圧で集中できない。睡眠不足がさらに足を引っ張って、身体と脳が上手く働かなくなった。点数は七割から八割をキープしていたものが、四割まで落ち込んだ。

 両親にとっての常識は七割で固定されている。当然スランプに陥れば落胆の色を見せる。

 どうしてもっと頑張れないの。何かあったの?

 そう訊いてくれる。でも素直に答えれば、親は学校に乗り込むほどの危険さを兼ね備えていた。保護者がわざわざやってきてクレームなどしてみろ、私はさらに滑稽なお人形となる。


 ――日記の愚痴がさらに増えた。


 部活はダメ、勉強もダメ、人間関係は一番ダメ。

 もう救いようがようがない気がした。どうすれば立て直せるのかわからなかった。立て直す自信も失っていた。

 私は暗くなっていく。

 心をすり減らして、死にたくなっていく。だれも、頼れるひとは居ない。もう関わるのさえ恐怖があった。

 私は死にたくなっていく。

 私は死にたくなっていく。

 私は死にたくなっていく――。



「別に、立て直す必要はないんじゃないの」


 ある日の席替えでとなりになった少年が、そんな感想を口にした。

 偶然拾った私の日記を読んでの一言だった。

 少年は冷たさと暖かさの混ざった不思議な瞳で、ひっそりと生きている生徒だった。言いたいことだけ言って日記を返し、帰って行く彼。当時の私はどうしても気になって、こっそり追いかけた。


 彼は自由気ままだった。

 部活動になど入っていない。図書館で好きな本を読んで、閉館になったら学校をあとにする。まっすぐ帰宅かと思いきや、本屋でたっぷり三十分徘徊。マンガを二冊購入。コンビニで買い食い。牛肉コロッケをイートインで美味しそうに口にしていた。

 本はともかく、下校中の買い食いは禁止されている。しかし、彼は粛々とひとりで違反を犯す。


 数日にわたる観察で、彼の動向――といっても一般的なものだが――を知ることができた。

 その頃には、私は彼と接する機会が増えて、教えてもらうカタチで息抜きの仕方を教わった。すべてが正しいというわけではないけれど、彼の薄情な部分にもいくらかの学ぶべきところがあった。


 私の世界は変わっていって、やがて端紙リオは部活をやめた。

 自分を大切にすることを学んだ。上を目指すことだけが全てではないと思い知った。


 日記のページ下部には、毎日詩島ハルユキの名前が載るようになっていた。

 私にとって彼は、日々を生きる楽しみになりつつあった。




◇◇◇




「私は手違いで生まれた幽霊だと言いましたね」


 視線を前方に向けたまま、思い出すように端紙が語る。


「ですが、実際は違います。私はあなたとの記憶を――いえ、違いますね。あなたに対する感情を失いたくない一心で、とあるくわだてを行いました」

「企て?」


 反復する僕に対し、一度視線を投げる。

 困ったような笑みを携えて、彼女の言葉が続く。


「私の父親は『リラシステム』の研究員のひとりであり、それなりの立場にいました。だから、あらゆるものを犠牲にしてお願いしたんです」


 端紙は太ももの上で手慰みをして、開きかけた口を閉じた。

 だけど、オレンジの空を見あげた横顔は何か吹っ切れたように晴れやかで、思わず魅入ってしまう。

 そんな僕には目を向けず、彼女は過去の過ちに苦笑した。


「私が願ったこと。即ち罪。『死んだあとも彼を好きでいたい』――それを実現してしまったことです」

「実現したって、いや、待て。まさか――」


 点と点がつながる。

 ずっと燻っていたものが浮上する。


「ええ。そういう意味ではあなたも御門先生も同罪です」



 脳裏をよぎる記憶。

 それは、事故によって失われたものではない。端紙リオの母親に譲り渡された日記帳――その間に挟まっていた手紙に書かれた数字の記憶。

 『037』。

 ただ記されただけの番号は、荒咲駅北口のロッカー番号だった。 

 端紙の家で線香をあげた帰り、僕は思いつきでロッカーを発見し、開けた。期限を大幅に過ぎてはいたが、中身は無事手に入った。

 得体の知れないメモリー。

 僕はそれを覗くのが怖かった。だから、。その手の詳しい知人なんて、ひとりしか居なかった。

 それこそ御門先生だ。


「――、そう、か」


 やはり、危惧していたとおりだった。

 『リラ』におけるエラーが発生したのは、僕が御門先生にメモリーを手渡した直後。あの親指ほどにもない小さな媒体が騒ぎを引き起こしたとは思いたくなかったけれど。

 端紙の説明は真実を照らす。僕は確かに、端紙の感情が封印されていた箱を開けていた。

 のし掛かる責任という名の重さを感じて、僕はゆっくりと息を吐いた。


「やっぱり、僕が原因か」

「……半分は」


 端紙がすかさず補足するので、くすりと笑いが漏れてしまった。端紙も小さく笑ってくれた。


「……だからですね」


 ふいに、端紙が音もなく立ち上がった。かと思うと、なんとベンチに座る僕のまえに回り込み、じっとこちらを見つめてくるではないか。しかも妙に距離が近い。生身の人間だったら吐息もかかるほどである。

 ホログラムとはいえ、その姿は生前の記憶に基づいて忠実に再現されている。紛れもなく彼女は端紙リオの記憶を持ち、同じ性格で、そして生前同様の感情を抱いている。

 彼女がしれっとこぼした『好きでいたい』という告白のせいか、見つめ合うのは気恥ずかしい。

 しかし、


「――、」


 僕はすでに目をそらすこともできないほどに引き込まれ、囚われていた。

 よくできたもので、僅かに湿った瞳も、そこに映る自分の顔も、長いまつげも、何もかもがホンモノと遜色ない。ノイズさえなければホログラムということも忘れてしまいそうだった。


「詩島さん」

「な、に……」


 見るからに上気した頬。

 触れることなどできないはずなのに、口元が気になってしまう。


「わ、」


 口を湿らせた折、ごくりとノドが鳴ってしまう。


「私と――」


 携帯が震えた。


「相性診断してください」

「……」


 まぁ、そうなるよね。

 だって触れられないし、仕方ないと思う。きっと彼女自身もだれかと診断してみたかったのだろう。なら、僕が相手になってあげれば済む話だ。


「はぁーあ」


 いそいそと携帯を操作しながら、残念な感情を隠しきれない。そんな僕を、端紙は苦笑して見ていた。

 ――のだが。


 その表情が、瞬時に強張る。


「? 端紙?」


 端紙は宙を見つめたまま眉をひそめた。明らかに動揺の色を見せ、顔を青ざめさせた。手は口元を覆っている。

 かと思うと、今度はその場で膝をつき、必死になにかをかき分け始める。モノを投げて広げてめくって……。

 僕はぼうぜんとその一部始終を見つめていた。

 何がどうなっているのかは不明だが、どうやら端紙には僕に見えないなにかが見えていて、それに触れているようだ。今の彼女は本に囲まれている。知覚できないけれど、間違いなくそこには数多の情報があって、彼女は追い求める一冊を探している。とても大切な一冊。それがどんな内容なのかは定かではない。でも、必死の形相をさせるほどの代物であることは確かだ。

 そして端紙は件の本を見つけたようだった。しかし、ページを開くなり、ピタリと動きを止めてしまう。

 愕然とする。


「そんな、ことって」


 辛うじて聞こえたのは、現実に向けたそんな一言だった。


「あ――」


 そこで、ようやく思い出す。

 『リラ』に視線を落とせば、そこには無慈悲な十四パーセントの文字が浮かんでいた。

 僕は元より、数値が低い。


「端紙、大丈夫だよ。僕のはいつもこうなんだ。だから端紙が特別低いってことじゃなくて――」

「ちがい、ます」

「違うって、何が……、え?」

「……。」


 気づくと。

 端紙の頬を、涙が伝っていた。

 へたり込んだまま、気の抜けたような彼女が泣いていた。

 僕はぎょっとした。

 どうすればいいのかわからない。生きていたのなら、抱きしめることだってできたかもしれない。ハンカチを渡すだけでも紳士的だったかもしれない。でも実体のない相手には何も出来ず、途方に暮れる。

 涙は溢れた。


「ぁ……ぁああああ……っ」

「ちょ、端紙? 大丈夫だから、どうしたんだよ」


 両手で顔を覆う彼女に駆け寄る。とにかく落ち着かせたくて、安心させたくて、唯一伝えられる言葉を探した。


「ごめん、ごめんなさい」

「ええっと? いや、どういう、」

「だって!」


 ばっと顔を上げた端紙と至近距離で向かい合う。

 端紙は僕に触れようとして、つんのめるように倒れた。透き通る身体は僕の服を貫通してしまう。

 振り返って端紙と目を合わせる。

 顔はさらに絶望が増していって、ただ嗚咽を漏らしながら俯いた。


「は、端紙」

「……っ、私が、望んだんです」

「望んだって、なにを」


「死んだひとと生きてるひとが、触れあえる世界」


「――、」


 それは、片踏マナが目指しているものと同じ世界に思えた。

 いいや、もっと抽象的――それも違う。まるで、片踏マナの謳う理想から、そのまま原点に立ち戻ったような……。


「私、わた、しは……何のために、こんなこと……!」


 涙はぼたぼたと地面に落ちて、波紋を生んで消えていく。

 儚いながら、それは途絶えるところを知らない。濡れない水滴が落ち続けた。


 ああ、繋がっていく。

 嫌でもピースがはまっていく。


 きっと端紙リオという女の子は、僕と会うために騒動を容認した。

 もう一度、もう一度だけ出会って、相性診断がしたかった。生前に抱えていた感情を伝えて、カタチとして残したかった。

 でも、僕は記憶がないから。

 事故のせいで、大部分が失われたしまったから。だから、『リラ』の相性診断が役に立たない。幼少期の記憶はたしかにデータベースにあるだろう。それをもとに『成長した詩島ハルユキ』を演算だってできる。

 しかし記憶がリセットされたとなれば、予測は意味を成さない。いくら『リラシステム』が僕の人生を想像したところで、僕という人間の記憶が消えてしまったのなら、データベースの記憶などと同義だ。


 つまりそれが、僕の欠点。

 だれとも繋がれない、相性診断できない原因。

 『リラ』は本体から読み取った情報をもとに診断しているのに、その本体自体が壊れてしまった。それが詩島ハルユキだった。


「ああぁぁぁあああああ……!」


 僕のまえでうずくまって泣く端紙。


 死を乗り越えて。

 些細な願いを胸に覚悟を決めて。

 世間に一度だけ牙を剥いて。


 そこまで足掻いたのにもかかわらず夢がついえた、ひとりぼっちの女の子だった。


 僕は、自分が空っぽであることを心底恨んだ。胸の張り裂けそうな痛みがどこまでも責めた。

 どうして詩島ハルユキはそうなのだろうか。中途半端に生きて、記憶を消してしまった。どうせならあの事故で完全に死んでいれば、まだマシだったんじゃないか。

 そうすれば、端紙リオをこんな風に泣かせてしまうこともなかった。


 僕は罪深い。

 許しがたい。


 死んでしまえとすら思う。



「でも……っ!」


 自分を奮い立たせる。

 空は徐々に紫へと変わっていく。僕はそれを意識して、目の前で泣く端紙に声を掛けた。


「端紙」

「……っ、」


 誓ったはずだ。僕は端紙リオの過去も現在も、未来も背負うと。

 ウソにはしない。彼女を裏切って、ソウタに任せたのだ。ここで啖呵たんかを切らねばどこで切るのかわからない。


「僕は……君にとって詩島ハルユキじゃないかもしれない」


 腫らした目で、彼女が僕を見る。

 薄く開かれた口元はちいさく名前を呼んだ気がした。


「ごめん、記憶がなくて。ごめん、君のことを忘れてしまって。でも、それでも、」


 言葉しかない。

 幽霊と通じ合うには、声で伝えるしかない。だから、もうそこに注ぐしかない。


「今の詩島ハルユキには、君が必要だ」

「……ぇ」

ハルを、手に入れるんだろ」

「――、は、る」

「詩島ハルユキには似て非なる。大切な思い出だってひとつしか残ってない。でも確かに、あの告白は嬉しかったんだ。だから、ああくそ、何ていうか……!」


 息を呑む。

 まっくもって、僕には不釣り合いなキザな言葉だった。

 こんなことは幽霊相手でなければ口にできない。けれどそれが必要な言葉ならば、その限りではない。

 だから、言え。

 親友が勇気を出したのなら、責任を持て。

 羞恥は不要、相手を伺うことだってしなくていい。


 ただ今は、目の前の彼女を救いたいだけ――。だったらこうだろ、詩島ハルユキ!

 おれは一度気を引き締めて、見つめた。



「お前が、ほしい」



 肩を揺らして、端紙の顔が紅潮した。

 目を丸くして僕を見つめるものだから、思わずそらしてしまった。でも、こみ上げる恥ずかしさを抑えて視線を戻す。

 面と向かって、真正面から彼女を見据え続けた。すると、ぽつりと音がこぼされる。


「わ、たし……?」

「それ以外にだれがいる」

「触ることもできない」

「いい」

「いつ消えるかも知れない、幽霊」

「わかってる」

「ほん、と、に、」


 顔をくしゃりと歪めて、感情を吐露した端紙リオ。

 紫の空の下、すべてを失った日だ。


 これくらいのことはあってもいいと思う。

 もしも今の詩島ハルユキに、それだけの価値が残っているのなら。僕は喜んで身を差し出そう。ずっと惹かれ、追いかけてきた相手なんだ。以前の僕に果たせなかった告白を、僕が継ごう。

 紆余曲折。

 互いに別々の死を経験して、ここにいる。


「端紙リオがほしい」

「――、」


 たった一言、そう表現するだけで事足りる。

 端紙は、震える指をおそるおそる伸ばした。

 触れていいのだろうか。手を伸ばしていいのだろうか。そんな葛藤が支配していることだろう。想像もできないほどの複雑さが胸を締め付けているだろう。


 僕は、背負う。

 彼女が内包しているすべてを受け入れよう。


 触れようとしては引っ込めるその人差し指に、手を添えた。

 感触はない。

 だけど僕らはきっと通じ合うことができていた。そのお陰か、端紙は精一杯の微笑みを浮かべてくれた。もどかしくて、切なくて、それでもちゃんと返事を返してくれた。


「こちらこそ、あなたを、ください……」


 邂逅からは想像もできないほどぼろぼろの少女は、儚げな声音でそう告げた。


 夕暮れはすでに消えた。

 頭上の空は夜の気配を増し、星を散りばめて僕らを見下ろしていた。




◇◇◇




「全部終わったら、どうしようか」


 地図を進む黄色い矢印を眺めていると、彼がそんなことを口にした。

 私はすこし笑って答えた。


「幽霊に未来の話をするんですね」

「変かな」

「変ですね。嫌いではありませんが」


 こんな会話をできるなら、またしたい。

 今だけと言わず、これからのことをずっと話していたかった。


 けれど、現実は優しくない。

 ひた隠しにしていた恐怖は消えてくれない。それどころか一層強まった気がする。

 これが終わったら、きっと私は処分される。意識が消えて、死者はあるべき眠りにつく。あなたと心を通わせておいて、なんて無責任だ。

 もしかしたらそうやって彼は怒るかもしれない。


 ――今だけは、と。


 彼の足音と落ち着く話し声を聞きながら、目を閉じた。

 神さまに祈る。どうかこの何でもない時間が、すこしでも長く続きますように。



 知覚できる領域の隅。

 点滅する赤い光は、すぐそこまで迫っていた。

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