けれどソレは偽物ではない 5
『――そしたらあとは、お玉の中でかき混ぜればオーケーです』
味噌の塊を菜箸で溶かす。
豆腐とわかめの浮かぶ出汁に味噌が広がっていく。それだけで普段はまったく感じない、言わば家庭的な香りが鼻をかすめた。名状し難い感動に思わずほぅ、と息がこぼれた。馴染みないものなだけに、それからは無言になってしまう。
僕は台所でかき混ぜる作業に没頭した。
「……」
端紙もまるで見守るように口を閉ざした。
『……』
コンロの火を放出する音に、ぐつぐつと沸騰の音。そこに箸とお玉のカチカチとぶつかる音が入り込む。
無言も不思議と苦ではない。むしろ安心感があって、内心すこしだけ首を傾げる。当然、それもすぐに気にならなくなってしまう。
同じ時間を、僕と端紙は共有していた。
ひとりだけの台所には、先ほど買ってきたドラッグストアの袋が置いてあった。中身はすべて冷蔵庫行きで、袋だけがそのままである。帰宅してからほとんど経っていない証だった。
『味見、してみたらいかがですか』
そんな提案をされたのは、僕が味噌を二回溶かしたときだった。
言われたとおり、すこしだけすくって味を見てみる。
……。
口にひろがる出汁の効いた味噌。懐かしささえ覚えるこの感覚に、思わず日本で暮らしてきた今までを省みてしまう。
いや、記憶、欠けてるんですけどね。
よくある言い回しだ。「日本の特権だよね」「これこそ食卓の醍醐味だよね」。危うく僕も口にするところだった。ほんと怖いな味噌汁。
『どうです』
「……なんていうか、ドラッグストアで言ってたこと、理解できた気がする」
たしかにこれは焼き魚や納豆を選びたくなる。
現に、僕の舌はすでに和食を求めていた。思えば当然の帰結だ。和食でいただきますと口にしたあと、最初に手を付けるのはどれだろうか。僕は汁物――つまり味噌汁である。個人差はあれど、手始めにそうやって舌を慣らす人は多いのではないだろうか。
つまり、味噌汁は食事の入り口と言っても過言ではない。
『そうでしょう? 常に油分の多いものばかりではなく、たまのこういう趣だって美味です。今度からちゃんとしてくださいね』
「あ、ああ。うん。ありがとう」
圧倒されていた。具体的な言葉が浮かばず、とにかく感謝を述べておいた。
そんなこんなで、本日の夕食は久方ぶりの和食と相成った。
メニューはお手製の味噌汁と強引に買わされた納豆、余りの野菜サラダと白米。それからつまみ感覚で唐揚げだ。
テーブルに並べて、さらに嘆息した。
まさかこんなにも整った食事をウチで食べることになるとは思ってもいなかった。普段のみすぼらしさに比べたら、写真に撮っておきたいくらいに圧巻。そのせいか、席に着くだけでも涙がこぼれそうである。
『では、私のことは気にせずどうぞ』
端紙が促す。
震える手を胸のまえに持ち上げ、合わせた。
――今日の「いただきます」は、過去最高に心がこもっていた気がした。
◇◇◇
満足感漂う食後の時間。
日頃の些細な節約精神のため、点いている照明は台所のみだった。居間と、その隣の寝室は明かりがなく薄暗い。
僕は一人ぶんの食器をスポンジで洗っていた。
いつもなら一日くらい水に浸けてため込んでしまうのだけど、今日はワケが違う。端紙リオになんと言われるかわかったものじゃない。
ちなみに、携帯は寝室で充電しているため音声は聞こえない。遠隔マナーモードの弱点――ある程度の距離制限がある。
とにかく、常に『リラ』に気を配り、なおかつ端紙とも通話を繋ぎっぱなしだったせいで、充電の減る速度は以前と比べものにならないのだった。
……こういうときは、彼女は何をしているのだろうか?
水で洗剤を流しながら、僕はそんなことを思った。
なので。
食器を洗い終えた僕は、真っ先に端紙の様子を伺うため寝室へ向かった。
三階七号室の寝室は、ひとり用ということもあってそこまで広くない。といってもこちらには全く不満はないのだ。居間と寝室が別れているというだけでも素晴らしい。拍手を贈りたい。狭めの寝室だってネコ気質な自分にはピッタリだ。広すぎて落ち着かないよりはよっぽど良い。
「端紙?」
ある程度近づけば声は届く。
開け放たれた引き戸から顔を覗かせて、僕は彼女に声をかけた。
しかし、そこで動きを止める。
照明の点いていない室内。
背後から届く台所のものだけが人工的な光源で、それも頼りない。逆に寝室を照らすのは、レースカーテン越しに差し込む月光だった。
青白い光を受けて――否、光に透けて。
寝室の隅の立つ彼女がいた。
初めて出会った瞬間と同じく、ところどころノイズが走る手足。風が吹いていないのに仄かに揺れる髪。薄明の中で佇むホログラムは、ああどうしてか、とんでもなく幽霊らしい。
携帯から伸びた映像ではない。彼女が言うには、次世代に向けた機能を先取りして利用し自立できているとか何とか。直接画面から映し出される必要はないが、半径数メートルにデバイスを必要とするらしい。
そんな彼女の視線は、デスクに落とされていた。
僕は釘付けになった目で伸ばされた腕をなぞった。
……押さえ付けるように、指が日記に触れていた。
「それ……」
思わず声を漏らす。
「っ、」
ハッとした表情で振り返る端紙。
案の定そのとおりで、端紙は「いや、これは」としどろもどろに話す。
相手の視線は僕と日記を行ったり来たりである。
「別に咎めたりしないよ。謝るべきはきっと僕の方だ。ごめん、勝手に読んで」
「え、あ、いや、そんなことは」
「その日記の持ち主は君だ。盗み見ていたのは僕の方だった。だからごめん」
そっと寝室に足を踏み入れる。
手の届く範囲まで近づき、僕は頭をさげる。それから顔を上げて、光を受ける彼女を見据えた。
端紙はそんな僕を見て、逃げるように目を伏せた。逆光もあって、顔がわずかに翳る。
「いいんですよ……私、死んでますから」
放たれた言葉に、息を呑んだ。
「所詮はこの世にいない人の書物。『焼却するように』と遺書もなければ、この日記に禁止事項も記していません」
「そう、か」
そこまで言うなら、とこちらは肩のチカラを抜いた。この話はお終いだ。
端紙は一度だけ微笑を見せると、また日記に目を落とした。
ホログラムの指は、開かれたページに沈み込んでいる。もう何度同じ文章を読み返したか不明だが、彼女は囚われたように目を細めている。
「ページ」
「……はい?」
「ページ、めくろうか?」
気づけば、口は勝手に申し出ていた。
きょとんとした顔をされてしまう。
僕は妙なくすぐったさを意識しないよう努め、傍に近寄る。それから、彼女のそれとは異なり色味の濃い指で紙に触れた。
できるだけ初めの方のページをひらき、読めるように見せた。
普段、時間のあるときに目を通している日記だ。僕はもう内容を知っている。そこに書き留められた日々の愚痴も、誰にも明かせずここで吐き出すしかなかった葛藤も。かつての端紙リオを構成していた言葉の羅列を、僕は読んでいた。
死んでしまった主なき日記。母親の手によってひとりの少年に渡された結果が今。
かくして、日記はあるべき持ち主のもとへ戻ってきたのだった。
「……っ、」
伸ばしていた手を胸の前で握りしめる端紙。
自分で書いたもののくせに、おそるおそる、といった風に覗きこむ。そんな仕草がなんだかおかしくて、だけど笑うことも失礼な気がして、僕はそっと様子を見守っていた。
――微かに唇が震える。
文字の意味を理解していく。そのたびに、端紙はこみ上げる感情を抑えるように、さらに拳をきつく握りしめた。
無音の室内。
差し込む月の光に包まれて、僕はページをめくり、端紙は吸い込まれるように過去の自分を読み取った。
そんな時間を、どれだけ過ごしていたことだろう。
ある程度読み返した端紙は、そっと吐息をはいた。
噛みしめていたであろうソレは、きっと僕には想像も及ばないほど複雑で、濃い。日記は彼女の生前の人生といってもいい。目を閉じて、静かにそれを再確認していた。
絵になる。
月光に照らされ可憐に佇む彼女に、僕は目を奪われていた。
――だけど、すぐに視線は開かれる。
なにかを決意したように見えた。
同じなのに、別人みたく強さを感じた。
「ありがとうございます」
声が空気を揺らす。
顔はこちらを向いていない。開かれた視線は日記帳でも僕でもなく、まっすぐ前方、つまり何もない壁に当たっていた。けれど見ている先はどこか遠くのように思える。
険しさが混ざり、どこにいるとも知れない敵を睨んでいるのだと、遅れて理解した。
「よかった。私の願いは変わってない。成功したんですね」
「願い?」
成功とはなんのことだろうか、という疑問はあったが、それよりも彼女の願いに対する興味が勝って、訊き返す。
「ええ、願いです」
端紙リオは、抑揚の少ない声音で喉を震わせる。
次いで溢された雫のごとく一言は、いつか夢でみたオレンジの世界を想起させた。
あすふぁるとにできた、ぎんいろのかがみ。
かなたにふりそそぐあめ。
やんだやんだと、そよぐかぜ――。
ここが外で、夕方の時間帯だったなら、これはあの日の再現となっていたであろう。
「私は
僕を見た。
まっすぐに見つめた。
そらせなくて、視線がぶつかった。吸い込まれそうな瞳が詩島ハルユキを捉えていた。
「だから――」
言葉が続く。残酷で健気で、願いだけを求めた言葉が紡がれる。
「だから私は、
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