傾いた景色は別物だ 15
頭が真っ白だった。
目の前に平然といる存在が、追いかけていた幽霊より奇怪に思えた。
軽率だった。目先の現象に集中していた。気づけばそこは罠の内、最も出会いたくない蛇が舌なめずりするように僕を観察する。獲物を見つけた、と喜ぶ瞳から目を逸らしたい。でもそらせない。隙を見せれば最後、首根っこを掴まれ路地の奥へ引きずり込まれる予感があった。
「昨日の今日でまた会えるなんて、やっぱりアレかしら、私たちは選ばれしもの、ってことなのかな?」
神経を逆撫でする。
危機感が鋭敏化して、無意識に
「ね、これからちょっと時間ある?」
「え、あ、いや……」
乾くノドで必死に言葉を絞り出す。いや、どう断ろうか。何を言えばいい? 誘う声が思考をかき乱して上手く喋れない。
「大丈夫、ちゃんと君でも入れるお店選んであげるから。ね? ほら――」
夜闇。
薄暗い路地に浮かぶスナックの看板が、ネオンの光を周囲にまき散らしている。
気づけば僕ら以外の通行人はいない。
ここには獲物である自分と、狩りをする気満々の蛇だけだった。
走ったせいで上がった息は別のものへとすり替わり、呼吸のテンポを乱す。
顔に当たる雫が、霧にも満たない雨の降り出しだと気づいた。
追い打ちをかけるように、するりと腕が僕の脇腹をくぐる。びくりと身体を震わせるが、振りほどくという選択肢に忠実になれない。
まさに蛇に睨まれた蛙だ。
――はやく。
「は、……ハ――」
はやく答えろ。
なんだっていい。ウソだと見抜かれる言葉だっていい。なんなら単にごめんなさいだけでもいい。
振り返って走れ。何もしなければ捕まる。引き返せなくなる。
走ればきっと振り切れるはずだ。
傘を差すほどもない霧雨の中。瞬くピンクのうるさいネオン。
「ほーら、行きましょう?」
甘ったるい。
神経毒を連想させる言葉。
甘ったるい。
「ハ、ぁ、はぁ……っ、僕、は、」
やめろ、くるな。振りほどけ、走れ。腕を引っ張るな、この先へは行けない。抵抗しろ、さもなくば朝はこない。だからやめろって言ってるだろ。あの話はもういい。おまえには耳を傾けたくない。これ以上は限界だ。何なんだおまえは、『リラ』のセキュリティはどうした。どうしてこんなユーザーがまだここに居る。そも、なぜこの女は僕の名前を知っていたんだ。マッチングしてすらいないのに、どうして彼女はこちらの名前を知った上で接触してきた? そうだ、初めからすべてが不自然だった。その不自然さゆえに僕は釣り餌として引っかかった。愚かにも独りで探ろうとした。見染目に一言告げれば何か違ったかもしれない。深淵を覗こうとして引き込まれることも、こうして絡め取られることも……!
焼ける思考。
おかしくなるしこう。
視界を照らすネオンがまた点滅した。
横に視線をズラせば、そこには蛇のひと睨み。
もう、正常な判断なんて、僕には――
『走れますか?』
瞬間。
この女でも僕のものでもない、第三者の声が静かに響いた。
落ち着きはらった声。甘ったるい毒を一滴残らず押し流す音に、思わず震えがとまる。頬を
返事をしようとして、立て続けに声は語りかけてくる。
『走れそうですね。この通話は遠隔マナーモードです、彼女には聞こえていません。ゆっくりで大丈夫。一度だけ深呼吸して』
遠隔マナーモード。携帯の音声が所有者だけに聞こえる機能のことだ。乱入者のだれかは、僕の携帯から一方的に話している。それを何とか理解して、言われるがままに深呼吸した。
「こっちよ、良いお店があるの。きっとあなたも気に入るわ」
蛇が僕の腕を引っ張った。拘束された僕も歩いてついていってしまう。
視界の一メートルほど先にあるネオンの看板がさらに近づいた。左前方でしゃがみ込み、たばこをふかす男性がじろりと僕を見た。
いけない、はやく振りほど――
『まだ我慢してください。振りほどくのは十五秒後に合図をしたら』
声……。彼女の言うとおりだ。冷静になれ、と自分を抑える。
今はとにかくここから離れたい。進むべき方向も曖昧になった僕は、素直に聞くことにした。
『合図とともに、右斜め前方の角を曲がってください。しばらく走ることになりますが、ご安心を。ちゃんと駅前まで送り届けます』
ゆっくりと、女と僕がネオンの看板を通りすぎる。辺りを照らす唯一の明かりが、後方に移動する。
「私嬉しいわ。また君と会えるなんて思ってもみなかったもの。お酒……は無理よね、ジュースで乾杯しましょうか」
『合図まで十秒。通話はそのまま。携帯でムダな操作をする必要はありません』
歩みを進める。
ヒールの音が暗闇に向かう。されるがままに付いていく。
雨は未だ本格化することはなく、ゆっくりと頭を冷やしていく。
「昨日の続きね、まだまだ素晴らしいお話がいっぱいあるのよ。心を開いてくれた君はトクベツ。手取り足取り教えてあげる」
『合図まで五秒。準備はよろしいですか? 視界が暗転します、進行方向を確認して。振りほどいたらすぐに走って。では約五分の逃避行、よろしくお願いします。詩島ハルユキさん』
声が沈黙する。時間にして一秒にも満たない。それでも、緊張を高めるには十分だった。語りかける彼女が、息を吸う気配を感じた。
チリ、と脳内に電気が走る。
足と腕に血の
二。
一。
――変化は、驚くほど予告どおり。ドクン、ドクンと運動に備える心臓が跳ね上がる。
ゼロ。
自分の中で数えていた数字と、彼女が無言で数えていた数字が重なった。
『今』
バツンッ!!
突如、何かの事切れた音が耳をつんざく。ネオンの光が途絶え、路地を真っ暗闇が支配した。
「きゃあっ!?」
「ッ!」
ここだ、ここしかない!
妙に落ち着く声のお陰か、身体は驚くほど冷静に、そして一切妥協を許さない
拘束された腕を引き抜く。
体重を前のめりにして屈み、地面を右手の指で押さえ、左手でカバンの紐を握りしめた。
ああもう、何がどうなっているのだろう。一転二転する現実に心の中で愚痴を吐き捨てながら、僕はギリ、と食いしばる。
クラウチングスタートにも満たない不十分な推進力で地面を蹴る。僕は肌触りのイヤな風を受け、夜の路地を疾駆した。
「くっ!」
通路左の壁際でたばこを吸っていた男性が、走り出した僕に手を伸ばした。
咄嗟に身体をそらして回避する。その勢いのまま右足を軸に方向転換、定めていた曲がり角に到達する。
背後で男性の怒号。
それを置き去りにして、ただ前だけを見て走った。
「はっ、はっ、はぁっ――!」
帰宅部になんて仕打ちだ、明日は間違いなく筋肉痛だよ!
必死なこちらなどお構いなしに、助けてくれた主が声を発する。
『ここからは私がナビをします。旧繁華街、荒咲駅東口方面大通りまで右折二回、左折三回。次の十字路は直進です。速度をあげて』
「なんで!」
お前だれなんだ、という疑問を投げる暇もない。
ただワケのわからない注文に抗議するつもりで訊き返した。
『左側から別の追手が来ます。はやく抜けないと挟みうちにされますよ』
「くそっ、帰宅部なんだぞ僕は!」
脳がろくな働きをしてくれない。指示どおり速度をあげて走り抜けると、十字路左からゴミ箱を押しのける音が迫っていた。進行方向はさきほどよりも若干明かりが増えたが、いまだにやつらの領域なのは変わらない。
走り続ける。全身を酷使する。
心なしか雨脚が強まった気がする。走っている分顔にあたる雫が多いのか、それとも単純に本格化してきたのか。
これ以上考える余裕はない。今はこの状況が異世界に思えて頭が働かない。
「なんでこんな、ことにっ! はぁっ、ぁ」
『言っておきますが、今のあなたは追い込み漁の魚と相違ありません。ユーザー名に私の名前を使ったのは悪手ですね。立派にあちらの標的です』
私の名前を使った……?
待て、ということはこの声は、
『ルート変更します。次の角は左折してください』
「はぁ!?」
『いいから』
どうなってるんだ、どこを走っているんだ。僕は、何から逃げているんだ?
そんな疑問が頭を占める。けれど追求は後だ。でないとすべてダメになる。背中に迫る恐怖が、「とにかく走れ」という直感を生み出す。
肺が痛い。
ノドは乾くし、足はもつれそうになるし、とんだ災難だ。きっとズボンも服も薄汚れたオイルで真っ黒だろう。さっきだって、ドラム缶のような何かを突き飛ばした拍子に液体がかかった。
でも文句は言っていられない。
走った。
とにかく走った。
声に従って、何度も遠回りをして外を目指した。少しだけ人通りが出てきても安心はできず、ナビは行けと指示をする。もはや誰が味方で誰が敵なのか不明。耳に響く彼女だけが混乱する自分を導いてくれる絶対存在だ。
もしも彼女さえ僕を罠へと誘い込む声だったなら、その瞬間、詩島ハルユキは終わる。踏み込んではならない法の境を越えてしまう。
だがそのときはそのときどうにかするしかない。
ただただ無力な僕は、彼女の声に従うことしかできなかった。
時間の感覚は狂った。
一分だったかもしれないし、三十分だったかもしれない。
ルートを変更すると口にした彼女の言うとおり、右折二回、左折三回どころか右折五回、左折六回くらい曲がった気がする。時おり挟んでくれる「十秒休んで」という指示がなければ、肺がつぶれていたかもしれない。
シャッター街に近い路地の様相は瞬く間にかわった。
身体が悲鳴をあげてきたころになって、ようやく提灯や屋台の立ち並ぶ、なじみ深い――といっても通っているわけではないが――居酒屋中心の一帯へと帰ってきた。空を仰いで息をしていた僕は、声に許可をもらって徒歩へ切り替えた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、――!」
過呼吸になりそうな息を整える。
全身の気怠さがドッと押し寄せ、そこら辺の墨で寝転がりたいほど疲れていた。ドクンドクンと脈打つ鼓動に混ざり、ナビが口をひらいた。
『お疲れさまでした。ここまで来れば大丈夫です。この道を直進すれば国道に出ます』
最後に「よくできました」と賛辞を付け足して話す彼女。
しかしこちらに反応する気力は微塵もなく、汗だくになりながら歩いていた。
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