傾いた景色は別物だ 11

 あすふぁるとにできた、ぎんいろのかがみ。

 かなたにふりそそぐあめ。

 やんだやんだと、そよぐかぜ。


 すこしのさきを、彼女があるく。


 ぼくはなにをおもったのか、たちどまってこえをかけた。

 とうめいにすぎて、こえはきこえない。

 いろがおおすぎて、こえがきこえない。

 こたえる彼女すら、こえにおとがない。


 どんなかおをしていた?

 どんなことばをえらんでいた?

 彼女とぼくは、いったいなにをやくそくした?


 いいえ。

 そもそも。

 それはやくそくとよんでいいのだろうか。


 あすふぁるとにできた、ぎんいろのかがみ。

 かなたにふりそそぐあめ。

 やんだやんだと、そよぐかぜ。


 すこしのさきに、彼女がとまる。




 湖面を揺らす、厚底の靴。

 振り向き、毅然とした瞳が僕を映す。


 小さい口元がひらかれ、約束にすら及ばない誓いが放たれる。


 ……そうだった。

 その一言は、間違いなく衝撃をもたらした。

 

 胸を刺す刃よりも痛くて、砂漠で手に入れた果実よりも甘美。

 当時の僕にとってその誓いは、




『わたしははるをてにいれる』



 じりじりとオレンジに染まる視界。

 飛び立ったカラスの羽ばたきも、揺れる水たまりも、頬をかすめるそよ風も。彼女はすべてを置き去りにして。

 ただただ、誰にも告げずにいた決意を僕へ明かしたのだった。


 彼女の靴底から、波紋がひろがる。

 夕陽が反射し、ちかりちかりと邪魔をする。



 あすふぁるとにできた、ぎんいろのかがみ。

 かなたにふりそそぐあめ。

 やんだやんだと、そよぐかぜ。


 すこしのさきで、彼女がわらう――



 端紙リオは、ハルを手に入れる。







「――っ!」


 布団を蹴る勢いで跳ね起きる。

 鳴りっぱなしの目覚ましを止め、顔を手でおさえた。まぶたの裏にうっすらと張り付いた情景に困惑する。真夏のような背中の汗を意識した。

 靴に踏まれた鏡が頭を離れない。不規則に反射する光が今も眩しい。

 ついさっき目にしたばかりのように足跡を残している。


「……」


 指の隙間から、掛け布団の縫い目を凝視する。

 いつだ。

 いつの出来事だ。

 失われたはずの記憶。端紙リオとの思い出なんて、ひとつも残っていなかった。思い出そうにも思い出せなかった。でもコレは違う。

 なんだ、コレは。

 なぜ今まで忘れていられた。なぜ今思い出した。


「……っ、なる、ほど。これは、酷い」


 考えても答えは出ない。

 すでに情景は遠い思い出と相成った。焦がれた声音も、心を串刺しに射止める視線も、色を淡くした。

 釈然としない現在に戻る。戻ってしまう。


 いつかの詩島ハルユキは、心に決めたのだろう。この光景だけは記憶に刻んでおこうと。それくらいの執着を、僕の脳内は示した。夢の中とはいえ――否、夢の中だからこそ、強く反応していた。

 実際の経験にも勝る鮮明さに鳥肌がとまらなかったくらいだ。相当な代物だったに違いない。


 頭を振って思考を中断する。

 朝っぱらから物思いに耽るのは気が引けた。ベッド脇のカレンダーに目を向ける。


 五月二十五日。水曜日。

 そういえば今日、学園にちょっと憂鬱なことがあった気がする。


「ああ、そうだった」


 昨日は見染目を適当に放り出してきてしまったんだった。

 その上、昨夜の僕はろくに連絡も返さず帰宅し就寝。色々と精神的に疲れていたからかもしれない。明日の僕に任せようなんて愚かな決断に走った記憶がある。

 携帯をひらくと、見染目からのメッセージが二十二件も溜まっていた。

 いつかの逃避行を思い出すな。初めて出会ったときも『リラ』でお友達申請を連投してた気がする。

 メッセージをひらくと、頭の痛くなるような罵詈雑言の数々。

 けれど、どうしてだろうか。これだけ躊躇がないと逆に安心する。


「ま、まぁ、それでも酷いけど……」


 さて、今日だって平日だ。

 さっさと起きて準備しなければ。気は乗らないが登校日である。


 昨日の出来事について考えるのは頭が覚醒してからと決め、僕はベッドをい出た。



◇◇◇



 今日はあいにくのくもり空。

 若干の頭痛は気圧のせいだった。


 予定通りの時刻で自宅を出た僕は、いつもと同じ駅から乗り、いつもと同じ駅で降り、いつもと同じ登校をなぞった。

 学園に着くころには朝のホームルームまで十分を切っていて、それも僕の日常だった。

 わざわざ挨拶を交わすほどの友人は少ないので、靴を履き替えてから教室まで余計な神経を使う必要はない。

 平穏な日常となんら変わらぬ風景の中を、その一員として過ごす。

 『リラシステム』の不具合だとか、死者とのマッチングだとか。そういったしがらみを遠ざけた平和に身を投じる朝だ。自分の教室に足を踏み入れると、さっそく平和の象徴とも言うべき友人が声をかけてきた。


「お、今日もギリの登校だな」


 僕は机の横にカバンをかけながら応じた。


「おはようソウタ。そっちは相変わらず早いね」

「おまえが遅いんだけどな。みんなチャイムまえには来てるぞ。それでフレンドと会話ばっかしてる」


 朝という憂鬱の始まりの時間を、生徒は情報交換で紛らわす。

 今日も今日とてその流れは健在のようで、クラス内では未だに会話に花を咲かせている者が多い。ホームルームまえとはいえ残り十分ほど。交友を重視する皆は担任が入ってくるまで続けることだろう。


「しっかしさぁ、最近いろいろ大変だよなぁ」

「大変、っていうのは?」


 携帯を取り出しながら訊く。

 ソウタはなんだかいつもより興奮気味である。


「まえに話した、例の騒ぎ。ほら、『リラ』で素性不明のユーザーと当たっちまうってヤツ」

「ああ、アレね」

「それがさ、その素性不明のユーザーってのがどうも胡散臭いんだ。なんでも死んだ人間の名前らしい」

「え、あ、ああ……それは、すごいね」


 そうか。

 ついに広まったか。この学園がいくら平穏な場所であるとて、限度はある。噂好きな生徒――もちろんソウタも含めて――にとって、『リラ』の事件は格好の餌だ。


「俺も実際にどんなのかは知らねえけど、テニス部の女子も経験したって話だ」


 それから、ソウタは僕に『リラ』の事件について熱く語った。

 内容は今現在僕が巻き込まれているもので、かつ表層だけの情報だった。どこまでいっても『アプリ内のできごと』。ソウタ含め、大多数の人間は自身の脳に関する事件とは思わないだろう。

 ……じわじわと、昨日までの感覚が戻ってくる。

 思考が冷えていく。考えなければならないことが鮮明になり、落ち込みがちな気分が「それどころではない」と切り替わる。


 ああ。

 目が覚めたようだ。


 軽口を交わしながら、僕は自然と携帯を操作した。


「お前もお前だぜまったく。有臣センセに呼び出しくらってから付き合いわりぃぞ。手伝いってのはわかるけどよ、せめて今日くらい昼飯一緒にとろうぜ」

「――、そうだね。ごめん。昼食はぜんぜん構わないよ」


 ニカッと笑うソウタ。僕は曖昧に微笑み返した。

 手元の携帯……打ち込んだメッセージは一分と経たず返信が返ってきていた。『情報アリ、頭脳を貸して』という呼びかけに対し、探偵気取りの見染目クミカの返答は、


『風邪。むり』


 という簡素なものだった。

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