傾いた景色は別物だ 5
帰宅した僕を出迎えるのは、いつだって無人の部屋だ。
あたりはすっかり夜の闇につつまれている。玄関だけの照明を頼りに窓際まで行き、カーテンを引く。
部屋全体を明るくすると、一日で溜まった疲れがドッと押し寄せてきた。ただでさえつらい授業の日々に『リラ』関連のことを考えていれば、必然、心身がすり減る。その上あの端紙リオが重要人物だというのだから堪らない。
通学カバンを下ろし、煩わしい制服の上着もハンガーにかける。
その折、ふとデスクの日記に目がいった。
「……端紙、か」
端紙の親から託された日記を読むのは、ここ最近の日課となっていた。
ご飯を炊いている間、洗濯の途中。あるいは電車の時間までの時間つぶし。ふとした瞬間、僕はそのページをひらいている。書き込まれた三分の二程度の日々を追っている。
僕は何とはなしにページをめくった。
そこには相変わらずの愚痴。そして――『今日は詩島ハルユキに会った』という一文。
幽霊となって騒動を起こす彼女は、いったい何を思っているのだろう。何を感じ、どんな風に世界を視ているのだろう。
記憶に彼女がいない僕が考えたところで、答えなど出はしない。しかし想像はやめられない。
意図。目的。
死んだ端紙リオが望んでいるものとは?
報復のように負の感情を抱いているのか、はたまた……。
「あ。飯、買いにいかないと」
ホットドッグでは埋め切れない空腹を思い出し、僕は思考を中断した。
頭の片隅に彼女の影を飼いながら、僕はまた外へと繰り出す。
夜の街。
最寄りのコンビニに向かう足はゆっくりめ。外の空気を吸っていると
そんなことを思いつつ、僕は街灯を渡り歩く。向こうにポツリと通りの黎明が浮かび上がった。車のヘッドライトが横切っている。
――「もう、逃げたくはないのよ」
ふと再生されたのは、喫茶店で耳にした友人の一言。
見染目クミカが苦しめられているのは、あの日、『リラ』でつながってしまった相手が原因なのだと予想がつく。
黒いプロフィール画面。騒動の
きっと、僕なんかには想像もつかない不気味な恐怖があるんだ。
胸中で漠然とした感想を述べる。だって僕のところには来ていないのだからわからない。本当の意味では当事者ではないのだから、その辺はご容赦願いたい。
ともかく、見染目クミカの決意は固い。死んでいるはずの影をみて、恐怖し、それでもと立ち上がる。「逃げたくない」と、過去と向き合うその真摯さに僕は心打たれたのだ。
……いや、心打たれたは言い過ぎか。ただ、ちょっと羨ましいとは思ったけど。
そんなにも本気で向かい合えるほどの理由が、強さが、彼女にはある。熱意と言い換えてもいい。
彼女が見据えているのは成長。死んでいる相手とどんな経緯があったのかは存じないけれど、それを真正面から克服したいという気概が感じられる。
対する僕はどうだ。
端紙リオを追いたい。だから協力を惜しまない。なんて豪語したが、その実、自分の動機はひどく曖昧で、見染目の強さには負ける。
記憶が失われているからかもしれない。本能に似た何かが追い求めていても、その熱意が自分のものであるという自覚が持てない。
……ああでも。たしかに僕にもあった。
彼女を知りたいと思いはじめた瞬間。あのとき抱いた譲れない感情は、今もなお胸の奥で疼いている。
――星の薄い空を仰ぐ。
思い返したのは、僕がこの学園に入学が決まる、ほんの一ヶ月ほどまえのことだった。
◇◇◇
若干おぼつかない足取りで、スリッパに足を通す。
松葉杖なしでも歩けるようにはなっていたけれど、母親に「大丈夫」と言うには頼りなさがあった。
僕はほんとうに運がよかったと思う。
五体満足でここに生きている。それだけで十分すぎる。あの大事故に巻き込まれておきながら骨折と記憶の欠落だけで済んだのだから、母親の僕と再会したときの安堵たるや。
抱きついて泣くのも無理はない。あまりに号泣していたせいで、僕は母を他人のように感じても取り繕うクセがついてしまったのだが。
母の心配性はしばらく続いたが、普段の生活を難なくこなせる程度まで回復すると、仕事にもどるようになっていた。
さしあたって、僕の日課には『リハビリ代わりに公衆電話まで歩く』という項目が追加されたのである。
その日も、僕はふたつ並ぶ緑の箱へとたどり着く。そして片方に百円玉を投入し、昼時間の母と会話した。
会話といっても、内容は半ば近況報告のようなものだ。
今日も足は大丈夫。もちろん腕もね。
病院食は味がうすいんだ、焼き肉をがっつり食べたい。
看護師の人たちは良くしてくれる、心配ご無用。
母は僕の記憶が欠けていることを医師から伝えられていた。でも、たまに僕が僕らしくないことを口にすると変な空気が漂う。だから、この十分にも満たない時間は話す内容に気をつけるようになっていた。
今思い返すと、それも筒抜けだったんだとわかる。だてに詩島ハルユキの母ではない。一人暮らしを提案してくれたのが何よりの証拠だ。
記憶を失っても、たまに他人のように感じてしまっても、親には敵わない。
親との会話を終えて、自由な時間を得る。
昼食はすでに済ませていたし、病室の文庫本も読み終えてしまった。筋トレなんてもってのほか。際限のない試験勉強も、その日はする気がおきなかった。
つまりは、手持ち無沙汰だった。
公衆電話のまえで振り返れば、どこかゆったりとした雰囲気の待合いスペース。
受付けも今は忙しさがない。長イスでテレビを眺めるおじさん、絵本を凝視する子供とその母親。手すりにしがみつき、ゆっくりと歩いていくお婆さん。
このまま病室に帰るのもつまらない。そう考えて、僕は散歩がてら歩き出した。
向かったさきは……たしか売店だったと思う。
病院内では売店と呼ばれているけれど、実体はコンビニだ。菓子も肉まんも買えない僕は、そこで雑誌でも買おうと企んでいた。
でも、結局売店には行かなかった。
なぜかって。それは……。
「あれ、先輩じゃないすか?」
センパイが僕のことであると認識するのに、数秒かかった。
リノリウムの廊下。
歩くのが遅いので、邪魔にならないよう窓際を歩いていた僕を、彼女は引き留めた。
「えっと、君は……」
ポニーテールで髪を結わえた女の子だった。
制服で、どこかあどけなさを残した顔立ち。小柄ゆえに見あげるかたちで話す。
「えっヤダあなた忘れちゃったの!? 橘っすよ、久しぶりっすねぇ!」
橘。
タチバナ。
脳内を検索にかける。が、すんなりとは出てこない。どこか見覚えはあったし、耳にキンキンくる声は初めましてではなかった。
観念して、記憶の欠落について伝える。
タチバナと名乗る彼女は驚いてデカイ声をあげたけど、すこししてすぐに納得してくれた。
……どこか、悲壮感を漂わせて。
「そっか。そう、っすよね……あれだけの事故に巻き込まれて無事、なんてこと、ないですもんね」
言葉がでなかった。
ごめんなさい、と素直に頭を下げられても、どう返したらいいのかわからなかった。ただ目をぱちくりさせて立ち尽くしていた。
そんな僕を、けれどタチバナは気を取り直して誘った。
「よかったら、お話しませんか? 記憶がアレなら、訊きたいこととかあるでしょうし!」
指差す先を目で追うと、そこには敷地内の庭に備え付けられた、茶色のベンチがあった。
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