死は常に生を見つめている 7

「ただいま」


 春の風が流れる外から扉をくぐると、室内の籠もった空気を意識した。

 染みついたクセなのか、誰もいないとわかっていても「ただいま」と発してしまう。そして今日も「なにやってるんだ僕は」と独りごちる。ここまでがワンセット。

 二年前まで暮らしていた家は、こんなに寂しくはなかった。残された記憶のなかで、僕という人間は貴重なに包まれながらも、その幸福を理解していなかった。

 きっと今の自分があの家に帰っても、同じ感覚は得られないだろう。つぎはぎの記憶はかつての日々を再現できない。

 感じるべき喪失感もない。

 それを心のなかで数秒だけ嘆き、僕は僕を誤魔化した。


 昼飯がはいったコンビニの袋をがさりと玄関に置き、マンション特有のせまい玄関で靴を脱ぐ。

 短い廊下を進めば、心落ち着く自室が出迎えてくれる。


 時刻は午後一時過ぎ。遅めの昼だ。

 オレンジサイダーと割り箸を袋からとりだし、テーブルに置く。底にあった白米パックとパウチのハンバーグを台所へと持って行く。

 ハンバーグは湧かした湯に放り込んでタイマーセット。白米のパックはレンジへ。冷蔵庫からは余りの野菜サラダを取り出して小皿に出した。


 待っている数分間をつかって、ベランダ側の窓をあける。


 途端、詰まったような室内に新鮮な空気が流れ込む。四階からの景色を眺め、短く息をこぼした。

 白いレースのカーテンが揺れる。

 と、そこで僕は固まった。


「――。」


 見張った目を、閉じる。

 一瞬だけみえたそれは、幻覚だとわかっている。きっとまえの僕のものであろう。だが残念なことに、一枚の写真のような記憶は、とてもはかない。

 目を閉じて微風だけを感じていると、重なった光景は夢よりもあっけなく消えてしまう。残像のごとく浮かんで消えしまう。

 ……そう、それでいい。どれだけ手を伸ばしても届かないものであることは明らかだから。知りたいという欲求だって、裏切られておしまいだ。生きているだけでも万々歳、もう高望みはしないのだと心に決めたのだ。これ以上はバチが当たりそうだ。


 ピピピ、というタイマーの音に現実へ引き戻され、僕は記憶の引き出しを引っ張ることを諦めた。



◇◇◇



 とはいえ、失われた記憶に対して、僕は怖がっているだけなのかもしれない。

 昼飯を食べ終え、ぼんやりとそんなことを考える。

 知りたいという欲求に、ときどき恐怖が顔を出す。自身の知識に関することであれば、その恐怖は自然とも言えよう。なにが言いたいのかというと、僕は怖がっているくせに知りたいとも思っているのだ。

 それは『どうしても』というほどではないけれど。それでも、手を伸ばしてみたい気持ちはあるのだ。


 カーテンの揺れが妙に胸をざわつかせたせいか、昼食を食べ終えた僕は窓際まどぎわに座っていた。

 フローリングの上であぐらをかいて、ベランダの向こうから青空に見下ろされる土曜日。手にもつ小さい本は、端紙リオの日記だ。

 不思議なことで、あの日はまったく頭に入ってこなかった内容も、今はすんなりと頭に入ってくる。丁寧で味を感じさせる文字が彼女の世界に引き込んでくれる。端紙の親の顔色をうかがわなくていい分、心の蓋があいたような感覚だった。

 ぺらり、とまた一ページをめくった。



 十月七日

 勉強がきらい。

 昨日部活をやめたお陰か、肩の荷が下りた気がする。あとはあの忌々しくも退屈な勉強さえなくなってくれればいいのに。

 帰りに本屋へ寄った。目的の本はなかったけど、面白そうなマンガを衝動買いした。結局私好みではなく、押し入れ行き。お金の無駄づかい? いいや。それでも、部活のない放課後はなんだか楽しかった。

 今日は詩島ハルユキに会わなかった。


 十月九日

 部活の後輩から猛烈なアプローチを受けた。戻ってきてくださいの一点張り。友人は健気けなげだと言うけれど、私には感動的な空気で飾った誘い文句に聞こえてしまう。きっと彼女らは道連れにしたいのだ。つい先日まであの環境にいたからよくわかる。

 つい強めに断ってしまった。反省。

 ……でもまぁいいや。

 今日は詩島ハルユキに会わなかった。


 十月十日

 朝から雨だった。雨はきらいじゃない。退屈極まりない授業もどこか非日常感があって楽しめた。物理以外は。

 知人がお昼ご飯を忘れたというので分けてあげた。そのせいで午後はお腹が減りっぱなしでキツくなる。こっそり休み時間にコンビニダッシュ。余計な散財をしてしまった気がする。節約しなくては。

 今日は詩島ハルユキに会った。



「……」


 ときには毎日。

 ときには数日飛ばしで。

 端紙リオという少女の二年前がつづられている。部活をやめて肩の荷が下りる――彼女にも彼女なりの苦労があったようだが、おおまかな内容はなんてことないものがほとんどだ。友人もいたようだし、孤立していたような様子もない。そのことに安心感を覚えながらページをめくった。

 しかし、ある程度読み進めたところで、手が止まる。


 詩島ハルユキに会った。

 詩島ハルユキに会わなかった。

 詩島ハルユキに会った。

 詩島ハルユキに会った。

 詩島ハルユキに会わなかった。

 どのページにも必ず現れるそいつの名前は、イヤでも目に付く。


 僕の残された記憶には、端紙リオは存在しない。なぜか、その部分だけきれいに抜き取られたように失われている。同じ事故で亡くなったせいか? なんてことも考えたけど、まぁあり得ない。おそらく偶然が邪魔をして、僕は端紙リオを忘れていた。

 だからこそ、この日記から知ろうと思ったのだが。


「わからん……」


 大の字で横になる。

 端紙リオ。成績は上々、性格良し。礼儀もしっかりしている落ち着いた生徒だと聞いた。それは良い。彼女の人柄はよくわかった。むしろ日記を読んで「こいつ聞いてたより不真面目なんだな」ということもわかった。

 わからないのは、僕――詩島ハルユキの立ち位置だ。


 端紙リオにとって僕はどんな存在なのか。

 もっとも知りたがっているそれだけが、この日記を通しても見えてこなかった。むしろ謎が深まったといっても過言ではない。


 日記に記した日は、毎日僕と会ったか否かを付け足している。

 しかし、内容は『詩島ハルユキに会った』『詩島ハルユキに会わなかった』という淡々としたもの。欠かさず記しているあたり何かしらつながりはあったようだけど、距離感も関係もハッキリしない。

 友人、恋人あたりが妥当か? いや、恋人はさすがにないだろう。たぶん。

 ……こればっかりは考えても答えは出そうにない。


 日記に挟まれた封筒。

 入っていた白い便せんを手に取り、ベランダ向こうの空にかざす。

 文章はない。ただ、『037』と書かれた数字だけがポツンと存在感を放っていた。


「はぁ……」


 ため息が吐きだされた。

 便せんをかざしていた腕からチカラを抜く。フローリングの硬さに耐えながらも、僕は昼寝の誘惑に取り憑かれていった。


 僕と端紙リオ。


 記憶が失われたことに諦めのような感情を抱いている自分。なくなったなら仕方ない。そう受け入れてしまえば、寂しいと思うことはなかった。気持ちの整理をつけつつある証拠だ。




 しかし、このときの僕は知るよしもなかった。


 休み明けから、平凡な生活が一変すること。

 そして。

 整理しつつあった感情が、再び乱されることを。

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