死は常に生を見つめている 8
五月十八日。
水曜日の教室に、秒針と机を叩くシャーペンの音が鳴り響く。
断続的に紙のこする気配。周りの生徒は自分のテリトリー内で用紙と向き合い、一心不乱に手を動かす。前方に座る教師は目を閉じたまま、制限時間が過ぎるのを待っていた。
窓際。今日はいつもより冷たい風が、文字を追う僕の頬を撫でる。
小テストなる気の乗らない習慣が、今日も生徒のモチベーションを奪っていく。自分の学力、学習状況の把握が目的だと大人は言うが。果たしてこの行為は、実を結んでいるのだろうか。
僕を含め、大勢の生徒は暗記で乗り切っている。あらかじめ定めた範囲のみに絞って覚え、過程をすっ飛ばした回答をコピー機のように脳へ叩き込んでいる。
そんな『学習状況の把握』が重要とは思えない。
なにより、学習状況を点数で格付けしてしまうのが気に入らない。無慈悲に赤い文字で採点なんてするから、生徒はまず乗り切ることに
結論。僕はこの時間がムダだと思う。
……まぁ実を言うと、適当な言い訳を並べ立てただけで、律儀に受けてしまうのだけど。
ああ、わかるなぁ、端紙リオの言っていたこと。勉強なんてなくなってしまえばいいのに。
などと頭の片隅で愚痴りながら、次の問題に移った。
――そのときだった。
ガラリと、教室前方の戸が開く。
静かな時間に突然おとずれた大きな音に、用紙とにらめっこしていた生徒も顔を上げた。
教壇の隅で、イスに座り時間を待っていた数学教師も驚きの顔をしていた。
入り口で静かに教室内を見渡すスーツ姿の女性。よくよく見れば、彼女は髪を束ねた、見慣れた先生だった。
「ど、どうしました? 有臣先生」
声に目線だけ向けて、すぐに生徒たちへ戻す我らが担任。表情は見たこともないほど引き締まっていて、真剣味を帯びている。佇まいが別人すぎて、数学教師が名前を呼ぶまで気づかなかった生徒もいたほどだ。
普段は柔和な親しみ深さをもつ彼女からは想像もできない。それだけに、静かだった教室がさらに張り詰めた空気になる。
平和そのものだったクラスを、今までにないほどの緊張感が支配していた。
ゆっくりと見渡していた有臣先生の視線は、ひとりひとりの生徒の顔をなぞっていき……僕で止まった。
イヤな予感がしたのも束の間。開かれた口が放つ声は、静かな空気を無慈悲に揺らす。
「詩島ハルユキくん」
名前を呼ばれる瞬間、胃がきゅっと痛くなる。
「来なさい」
怒っている雰囲気はない。
されど、有臣先生らしからぬ空気は生徒の興味を煽るには十分すぎる。
胃が痛み出すのをやせ我慢で抑えつけて、僕はイスを引いた。
教室を出る僕の姿を、周囲の生徒は無言で見つめていた。嵐をまえに身構えていたようなクラスメイトの気配が、呼び出された僕への好奇心に変わる。あの霧島ソウタの視線さえも、同類のものにみえた。
教室うしろの戸から廊下に出て、そっと閉める。クラスメイトのみんなは、すでにテストへと意識を戻していた。
これは、戻ってきたときがキツそうだ。
◇◇◇
「……」
「……」
無言でまえを歩く有臣先生。
どこも授業中で、会話をするのは
怪訝に背中を見つめてから、僕は考え込む。
最近なにかやってしまったのだろうか。無断欠席した件は先週に怒られ済みだし、週末は御門先生と話した程度の出来事しかない。脳内を検索にかけても、これといった原因は思い浮かばなかった。
先生についていく。
授業中の教室が並ぶ廊下を過ぎ、階段を上って三階へ。学園内でも客足の少ないエリアまでやってくると、授業の音も遠く聞こえなくなった。
タイミングをみて、僕は口をひらいた。
「なにか、大事なことですか?」
「――はい。詩島さんにはこれから、とある方とお話していただきます」
……そのあまりにへりくだった口調に、唖然とする。
やんわりと説教をしていた担任はどこへやら、
が、それを突っ込む勇気もなく、今は飲み込む。
「とある方、というのは?」
「それはあなた自身の目でお確かめを。私は私的理由で状況を伝えることを禁じられております。立場上失礼いたしますが、ご了承ください」
「……」
有臣先生は、今どんな表情をしているのだろう。
いや、見なくてもわかる。きっとここにいる担任は、もう担任の枠に居ない。教師と生徒という構図のさらに上、一個人に対する一個人という、大人同士の関係性を重視している。
あくまで対等。
上下もない距離感。
歩きながら、僕は気を引き締めた。
さっきまで教室にいた時間がウソのように、胃はきりきりと痛む。カツ、カツと鳴る担任の革靴が、さらにその痛みを加速した。
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