死は常に生を見つめている 4

 午後の授業を終えた。

 ひとの知識欲はすさまじいと聞くけれど、なぜ世界史も英語も古文もこう退屈なのだろう。時間の流れがいつもの二倍、いや四倍ほど遅く感じられる。名前を呼ばれたときは苦虫をかみ潰すような顔をしてしまうところだった。


 かばんに面倒な課題の諸々を詰めていると、視界のすみで手を振ったソウタに気づく。サッカー部の練習へ向かう彼へ軽く手をあげ、「また明日」と告げた。

 視線を手元に戻し、帰り支度の続きを――


「詩島ハルユキ」


 再開しようとした僕に、声がかかった。

 見れば、机二個分の距離を保ち、腕組みで唇をとがらせながら観察する女子がいた。他クラスの生徒だ。

 視線が足元から頭のてっぺんまでをなぞる。

 なんだろうか。僕と接点などあっただろうか。でなければ何用だろう。脳内を検索にかけていると、彼女と目が合った。

 そいつはショートカットの髪を揺らして首をひねり、あごに手を当ててつぶやいた。


「んー、冴えない!」

「……」


 電流がはしった。

 直感が関わりたくないと告げる。

 手早くノートや教科書をカバンにつめ、僕は席を立つ。ロックオンされたのを振り切る気持ちで足を動かし、教室を出た。

 触らぬ神に祟りなし。

 この女からは天災のような予感がする。よって今は逃げる。ごめん見知らぬひと。謝罪は後日、君の情報をあつめてからでも。


「詩島ハルユキってあんたでしょ?」

「……」


 しかし失礼な生徒もいたものである。いきなり現れて第一声が「冴えない」とは。

 廊下を歩きながら、放課後の緩やかな空気を味わう。ふぅ、と心を落ち着けるべく息を吐いた。

 男女の二人組が多いことを除けば、この学園もふつうの校風だ。歩きながら寄り道について話す男子グループも、教室で『リラ』について談笑する女子グループも多い。住めば都、ここは平和そのものである。


「ねぇ。ちょっと。ねぇってば」

「……」


 開け放たれた教室の戸。そのまえを横切るたびに、自分がふつうの学生生活を謳歌している気がして安堵できる。『リラ』には思うところがあるけど、ここへ入学させてくれたお偉いさんには感謝しなければ。

 昇降口の下駄箱で靴をはきかえる。

 この瞬間だ。この、苦しい一日を終えて生徒玄関の戸をくぐった瞬間が、なんとも味わい深い。春の微風が撫でてくれるだけで心が洗われるようだ。清々しい。


「あんた帰り道どっち? あ、そっち?」

「……」


 春はまあまあ好きだ。

 春夏秋冬のなかでは二番目に過ごしやすい。夏と冬は単純に気温が猛威を振るうのでアウト。比べて春と秋はちょうどいい気温で最高。

 もちろん、春は寒さがまだ残っていたり、花粉症に悩まされる季節だったりするのだけど、それは対策可能だ。どうとでもなる。ああでも、やっぱり秋には敵わない。なぜなら春の陽気は眠っていた虫を呼び起こすから。


「もう新しい環境には慣れた? 私はまだちょっとノれてないカンジでさー」

「……」


 駅までの帰路。

 右にカラオケ店の入り口、左に街路樹。通行人が過ぎていくなかで僕は立ち止まり、春がつれてきたひっつき虫に目を向けた。


「どったの」

「いや……」


 立ち止まった僕に気づき、数歩さきで彼女が振り返る。

 怪訝けげんな表情で小首を傾げている。

 どう言ったものか、と言葉を探す。この場合どうすればいい? 無視したのにすごい付いてくる。そのメンタルの強さに感服しそうだ。僕が彼女の立場だったら耐えられなくて金輪際一切関わらないのに、これが天と地に生きる人間の差なのだろうか。

 などと対応に困っていると、目の前の彼女は唐突に携帯を取り出し、画面をタプタプし始めた。わけもわからず見つめていると。

 ……僕の携帯が震え、通知を知らせる。


 通りかかる通行人が目を向けてくるなか、無言のふたりが携帯を覗きこんだ。


 『ID交換の申請が届いております』。

 ほとんど利用していないはずの『リラ』が、ご丁寧に案内のメッセージを発している。犬と猫を混ぜたよくわからないマスコットキャラクターが、ハートの吹きだしを付け足して。いつもなら微妙にカワイイ程度なのに、今は不気味にみえる。


「……」


 画面と数歩さきの彼女を見比べる。二度見、三度見。四度見するころには、彼女は携帯をしまい、じっとこちらを見つめていた。

 真っ直ぐな曇りない瞳が僕を捉えていた。

 

 沈黙が流れる。


 相性診断アプリ『リラ』のメイン機能――承認済み相性診断。

 互いにIDを交換し、許可しあった二人の相性を診断し、数値として導き出すモード。その許可を求められている。

 この機能を利用するためには、互いにIDを教え合う必要がある。相性掲示板でみつけた顔のみえない相手にメッセージを送るのとはわけがちがう。アプリ外で実際に会い、口頭で教えてもらわなければならないのだ。でなければID検索で見つけることが不可能。


 ちなみに、僕はIDを教えていない。


「……」

「…………はやく」


 真顔で急かす彼女の言葉の意味を、悟ってしまった。

 通学路で固まる僕らふたりのあいだを、春には似つかわしくない冷たい風が吹き抜けた。

 カラオケ店から流れ出てくるヒップホップも、向こうの横断歩道で流れる電子音も、横を通り過ぎるサラリーマンの足音も、何もかもすべてが遠い環境音になった。

 立ち尽くす僕の視界が歪み、目眩に襲われる。

 それに耐えると、今度は特定されてしまったことに対する恐怖が足元からせり上がってきた。


「僕、ちょっ……と、忘れ物しちゃったかな」

「は? なにそれはやく言ってよ。じゃ戻りましょ」


 戦慄。

 平然と「いっしょに戻ろう」と歩き始めたことに恐怖を覚えつつ、彼女を尻目に足へ体重を乗せ、地面を踏みしめる。ざわりと鳥肌が立った感覚を最後に、僕は息を吸い――反対方向へスタートダッシュを決めた。


「ちょっ――」


 驚く声を置き去りに。カバンの紐を握りしめ、街路をひた走る。幸いこの時間帯は人通りもそこそこで、避けるのは簡単だ。帰宅部でよかった。

 怠惰な自分をこのときばかりは褒め称えた。

 先ほど横を通り過ぎたサラリーマンも追い越したころ、前方の赤信号が飛び込んでくる。変わったばかりなのか、歩行者向けにカウントダウンされるメモリはまだ多い。仕方なく右折した。

 街路よりひと回り狭い歩道を、息を切らして進む。頭のなかでは、帰路からはずれ遠回りで駅に向かおうという算段を立てていた。しかしその前にあの女生徒をかなければならない。


 普段つかわない道へと曲がり、曲がり、曲がり。

 脳内地図を組み立てる。

 彼女が追いかけてきた場合を想定してルートを選ぶ。


 追っ手の視界から逃れるよう意識するうち、僕はいつのまにか川沿いまで来てしまっていたらしい。はっと我に返り、動悸を落ち着けようと試みた。


 開けた道から見えるガードレール。その下に流れる小川はのどかな音を発する。街中の散歩コースなのか、老人が歩いているのが目に入る。うるさい心臓とは裏腹、そこは落ち着きのある通りだった。大通りと比較して閑静な道を、僕は端に寄った。

 首を巡らせると、向こう側には見覚えのある橋が。息を整えながら、足先はそちらへと向かった。


「はっ、はぁ……」


 背後を何度か振り返り、彼女がいないことを確認。早まった鼓動を抑えつつ、携帯を取り出す。

 ――『ID交換の申請が届いております』という通知が八件に増えている。


「こわ……」


 通知から目をそらし、電話番号を打つ。

 咄嗟に浮かんだのは部活中のソウタの番号でも、親の番号でもなく、有臣先生の番号。まさか、まえに呼び出されたときの傷跡がここにきて救いになるとは。

 ちょうど目についた休憩所のベンチに腰をおろす。僕のコールに、有臣先生はすぐに出てくれた。


「ん? 詩島くんじゃない、どうしたの?」

「あ、あの。ちょっと困ったことがあったんですけど――」


 今置かれている状況を説明する。かくかくしかじか、どうしましょうかこれ。警察ですか、と。

 果たして大人が下した判断とは。


「っていうかその子、クミカちゃんじゃない?」

「……クミカチャン?」

「そ」


 電話の向こう側で、あっけらかんとして話す先生。こちらの切羽詰まった状況などどこ吹く風、それどころかお茶をすする音も聞こえる。こちとらストーカー被害に遭っているというのに。それでもいいのか担任、と突っ込みたい気持ちを抑えつけ、努めて冷静に耳を傾けた。

 そうだ、落ち着け詩島ハルユキ。取り乱しては判断力も鈍る。まずは状況把握が先決だ。


「あー、そういえば伝え忘れていたわね」

「伝え忘れて、ってなんですか?」

「うーん、まあそこまで重要なことでもないし、そのうち分かることだし、別にいいかとも思ったんだけど、」

「いえ、重要とかそうでないとかいいんで、まずあのストーカーが何なのかを……」


 と、そのときだ。


「ちょっ、と……! はぁ……よかった見つけ、た……」


 電話口ではない別の場所から、記憶に新しい声が飛び込んできたのは。

 粘着質な通知を送ってきた彼女は、数分まえの僕よろしくふらふらとその場にへたり込む。

 それを視界に映した僕の脳は、思考が停止した。


「はぁ、はぁっ、はぁっ、は――うっ、げほっげほっ、おぇっ」


 ……もう何が何だかわからなかった。というより、理解するのが怖かった。

 しぶとくついてきた姿に放心してしまう僕の耳元で。彼女の漏らす死にそうな声を背景に、有臣先生の言葉がささやく。

 久しぶりの運動に体力を使い果たしていた僕は、


「その子――私が選んだあなたの恋人候補」


 携帯を握る腕を、ゆっくり脱力させた。

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