死は常に生を見つめている 2

 局所的な情報の欠落。

 いつかの記憶が、手の届かない奥深くまで沈んでしまったとき。ひとは自分を見失い、混乱することだろう。

 自分がどうしてここにいるのか。自分が誰なのか。なまじ一般常識などを覚えているがゆえに、『わからない』ことが怖い。

 その点、こうして呑気に生活をしている状況をふと見返すと、自分がとても恵まれた存在であると知れる。事故を生き延びた数少ないひとり。記憶の欠落も一から百まで失ったわけではなく、実際は六十から百という部分的なものだ。

 詩島ハルユキという名前も、いつかは経験したらしいある日の記憶もおぼろげに残っている。それらは「あれ、この光景まえに夢でみた気がする」という曖昧なカタチで現れる。勉強の知識だって、問題文を読めば浮かんでくる。

 これでも空白期間が生む齟齬そごはそれなりにあって、こうやって普通の生活を送れるようになるまで苦労を要する二年間だった。


 今でも、学園という生徒の集まる空間に放り込まれた僕は、ときどき置いてかれたような感覚に陥る。

 どこまでいっても僕は同じ場所へはいけない。

 僕の立っている場所だけが窓ガラスのこちら側。近くて最も遠い、疎外感。入院中に勉強の遅れを取り戻し、なんとかこの学園に入学して数ヶ月。ともに授業を受ける彼らと僕のこの二年間は、走り抜けるような青春と退屈なリノリウムの対比だ。しかもこれまでつちかったはずの経験は虫食いの地図である。

 ……他人に関する記憶がリセットされた僕に、また新しく関係を築こうと息巻く気概はなかった。それどころか、最低限の空気は読むけれど、どこか投げ出したような行動をとっている始末である。我ながら愚かなことで。


「今回は目をつぶるけど、次からは控えなさい。せめて連絡するように」

「すみませんでした」


 髪を結わえた長身の女性、有臣ありおみ先生はふぅと息を吐く。

 端紙リオに線香をあげた翌日の昼。せっかくの休憩時間に僕は職員室へ連行されていた。「呼ばれた理由はわかるわね」と問われ首を横には振れない。連絡もなしに欠席という非常識なことをしたのは理解している。なので素直に謝ったのだけど……担任は複雑な表情だ。


「――それで? どこに行っていたの?」

「端紙さんの家です」

「端紙って……そ、そう。あの子の……」

「手紙をもらいました。線香をあげに来ないか、と。彼女のことを覚えているわけではありませんが、手紙を送るほどですから。きっと自分には、行く義務があった」

「なら仕方ない、と言いたいところだけど、一日すべてを使う必要はないでしょう?」

「午前中だけのつもりでしたが、午後から行くのも億劫おっくうになりまして」

「そういうのは大学まで取っておいて」

「すみません」

「まあ、君のことだし、思うところがあるんだろうから? 私も強くは言わないけど」


 有臣先生は僕の事情を理解し、いろいろと配慮してくれる優しい人柄だった。記憶にいくつか問題があること、そのせいもあって家族と距離を置き一人暮らししていることなど。だからこそ、こちらの行動に関しても一定の理解が及んでしまう。

 正直、その善意につけ込んでいるようで申し訳ない気持ちはある。でも許して欲しい。僕は僕なりに、今の状況をどうにかしたいと思っているのです。


「……君はリハビリを受けながら勉強をして、苦労を重ね入学したばかりの身でしょ。気持ちはわかるけど、ゆっくりでもいいんだよ?」

「ええ、それはまぁ……。ありがとうございます」


 いわゆる気持ちの整理というものが、今の自分には必要だ。端紙リオの自宅へ赴いたのもそれに起因している。周囲は「ゆっくり向き合っていけばいい」と言うけれど、こちらとしては「あんたに何がわかる」というわかりやすい反抗心を抱いてしまう。結果、こうやっていてしまう。

 わかっている。自分でも理解している。失った記憶とどう向き合うか。それはいますぐに解決することではない。でもじっとしているとどうにかなりそうなのもまた事実で……。


「ま、わかっていればそれで。気をつけなさいよ? はい、話は終わり。午後からはきちんと受けるように。ほら行った行った」


 その言葉を最後に、僕は頭を下げ職員室をあとにする。

 と、その背中に。


「ああそうだ」

「はい?」


 呼び止められ、「まだなにか」と振り返った。

 先生は歯切れが悪く、言葉に詰まって頬を掻く。なんだろうと思いながら続く言葉を待っていると、あまり聞きたくない話題が飛んできた。


「あなた、はできた?」


 心が冷え切った。

 が何を差すのか。この学園で気づかない人はいない。


「上から報告がきたのよ。『リラ』のログイン時間が極端に低い生徒がいるってね」

「……嫌味いやみですか? 僕と好相性の生徒がいないことくらい、あちらもわかっていると思いますが」

「もちろんわかっているよ。ガールフレンドをつくれと強制するつもりもない。でもせめてログインだけはしなさい。君からすれば、使えない、胡散臭い占いアプリかもしれないけど……あれでもお偉いさん自慢の制度なんだから」

「成果はあげなくていい。でも利用はしろ、ですか」

「データが欲しいんだと」


 肩をすくめ、先生は苦笑い。「参ったもんよね大人も」とでも言いたげだった。

 あのアプリは、僕にはなんの役にも立たない。ゴミ同然のアプリだ。それを入学と同時に携帯に入れられ、ログインを求められている。

 『リラ』は最近導入された制度らしく、そのせいで入学の狭き門はいくらか緩くなっていた。二年間のブランクをもつ僕が入学できたのは、皮肉にも件の制度アプリのおかげかもしれない。

 そう考えると、「イヤです」とは言いづらい。


「はぁ……わかりました。ログインだけはしておきます」

「そう、ありがとう。用はそれだけ、また何かあったら私を頼ってね」


 先生は安心したような笑みで、ヒラヒラと手を振った。

 今度こそ職員室をあとにした僕は、懐から携帯を取り出した。

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