1章

死は常に生を見つめている 1

「あの子は君のこと、好きだったみたいだから」


 今更そんな言葉を聞かされて、どう反応すればいいのだろうか。

 僕は渡された日記帳を読み進めるフリをして、返す言葉を濁した。

 事情が事情だ。礼儀よりも申し訳なさが先立ち、対面の女性をみれずにいた。代わりに頭にはいってこない文章を目で追い、むりやり意識を没入させる。

 日付と出来事の繰り返しに、様々な感情が乗せられている。しかしそのどれもがどこか遠い世界の話に思えて、集中できない。興味を抱いて手に取ったわけではなく、読みたくもない、読む義務だってない文章の塊。でも体裁を保つために真剣に目を通す。まるで図書館の本を読んでいるかのような疎外感。これを書いた彼女を想うこともできないのは、中々に辛いものがあった。あるいは以前の僕であれば、まだマシだったのかもしれないけれど。


 時間が長く感じられる。


 広さが殺風景なリビング。秒針の音が重苦しい空気をつくる。女性は無言で日記を読む僕を見つめていたが、やがて「お茶をれてくるわね」と席を立った。お構いなく、と口にする隙もなく取り残され、ほっと息を吐く。

 申し訳なさに混ざり、緊張に似た感情が僕を萎縮いしゅくさせる。

 彼女が席を外しているあいだ、視線を周囲に巡らせ、自然と一点で止めた。

 となりの座敷部屋に鎮座する仏壇。そこに、レンズへ慣れない笑みを浮かべる少女の写真があった。


 ――端紙はしがみリオ。

 二年前まで同級生だった、ひとりの女の子だ。読ませていただいている日記の持ち主であり、今お茶を淹れてくれている女性の娘。達筆な文字の向こうに日々の鬱憤を隠して、上手くいかない日々に愚痴をこぼして、秘めた嬉しさをしたためて。最後は積み重ねてきた日記を置き去りにして世を去った、悲しき結末の犠牲者。

 彼女とは何を話したのだろうか?

 どんな距離感で、何を感じていたのだろうか?

 そも、話すほどの仲だったのだろうか?

 訊けない疑問が頭に渦巻くけれど、それを目眩めまいを抑えるように遠ざけ、思考を切り替えていく。そう、僕にはどうしようもないことなのだから。


 二年まえと言うと、そこまで長くきこえない響きだ。けれど実際は、あのころの記憶も『懐かしい』と感じるようになる。

 列車の脱線による大事故が、ちょうど二年ほどまえの出来事だ。

 原因だとか、死傷者数だとか、巻き込まれた同校の生徒の数だとか。そういう散々聞かされた惨状とともに、僕と端紙リオが同じ車両に乗っていた事実も知らされていた。

 彼女の葬式には参加できなかった。ここにも来るつもりはなかった。でも、二年が経ちなんとか普通の生活――無論、今までどおりとはいかないが――に戻れた僕の元へ届いたのが、一通の手紙。彼女の母親が寄越よこした、『線香をあげてほしい』という旨の内容だった。


 改めて手渡された日記をめくり、パラパラと流し見ていく。

 途切れる直前の日付は五月十日。

 二年前の今日、端紙リオは最後の一日を記していた。文章は前日よりも普遍的。ありきたり。これといったできごともない、ただ疲れたという一日の感想と明日への憂鬱。そんな最後の一ページを読んで、ひとの人生はこんなにも儚く、唐突に終わりを迎えるのだと、他人事のように感じた。「まさかあんな事故で亡くなってしまうなんて――」などと口に出してしまうのも躊躇ためらってしまう。

 忘れてはいけない。僕はあの事故を生き延びて、彼女はあの事故で命を落としたのだ。些細な一言や同情が、娘を失ったご家族に不快感を与えてしまうことだってある。悲嘆に暮れる母親にしてみれば、何の気なしに放った言葉が利己的に聞こえることだってある。

 とくに今の僕は、慎重に言葉を選ぶ必要があった。それだけに、口数は少なかった。


「その日記、あなたにさしあげますよ」


 急須きゅうすと茶菓子を持ってきたお母さんが、湯飲みを差し出しながらそう口にした。


「いいんですか?」

「ええ。私はあらかた読み終えたし、こうして来てくれたあなたにならあげてもいいと思ったの」

「でも、僕にはそんな資格が、」


 ない。

 もらっていい相手ではない。この日記は母親であるあなたが持っているべきだ。と遠慮しようとして、遮られる。


詩島しじまハルユキくんだったわね?」

「え? あ、はい。そうですが……」

「あなたの名前、その日記に出てきたなかでは家族に次いで多いの。きっと生前のあの子にとって、君はとても大きい存在だったんだと思う。親としては娘の恋路こいじとか訊きにくいじゃない? だから君があの子とどんな仲だったのかは知らない。でも日記に頻繁に登場させるくらいなんだもの。この日記は、あなたに持っていてほしい」


 まっすぐで、優しさのこもった視線を向けられて、思わず黙りこくってしまう。懐かしむ雰囲気にどこか悲壮めいた気配もあった。

 なおさら、僕には受け取る資格はない。

 本当に。


 だって僕の記憶に、端紙リオはいないのだから。


 しかし、対面のお母さんはそんな事情など知るよしもない。受け取って当然だとでも思っているのか、わずかに目を細めた。


「――それにね」

「……?」


 貸してみて、と口にせず手を差し出したので、日記を返す。お母さんは日記を裏表紙側からめくって、数ページ目でひらいた。

 しおり代わりに挟まれていたソレは、純白の封筒。開けられた形跡もない、簡素な星形のシールで閉じられた、一通の手紙だった。



 『詩島ハルユキ へ』。



 ……なるほど、確かに。

 この日記を僕に手渡すべきだと考える理由も頷ける。


 気が進まない。けれどどうしようもない。僕がこの女性ひとの立場でも、同じことを願ってしまうのがわかる。

 だから。

 受け取る資格を持たない僕は、この日記を受け取ることを決めた。

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