君は牙剥くハルジオン

九日晴一

プロローグ

 何気ない日常。

 味気ない毎日。

 人々は変わってほしいとも、このまま安寧を享受していたいとも思うことだろう。相反した感情のなか、都合の良い明日を願って生きている。そうでもしなければ、心が壊れてしまうから。擦り切れてしまうから。ある種、それは保身につながる画期的な志向なのかもしれない。

 とはいえ、ときには前向きな変化も必要だ。例えば引っ越しだったり、転職だったり。例えば結婚だったり、離婚だったり。自分の周囲に満足感が得られない、もしくは、このままではいけないと危機感を覚えた結果、ひとは強くなる。平凡で色味のない人生にそこそこ満足していた者も、能動的に『今までの常識』に異を唱える。変化に身を投じようとする。きっとひとは、とどまることができない生き物だ。

 いつかは旅立つときがくる。いつかは扉の向こうに踏み出して、泥にまみれなければならないときがくる。

 持っていくモノ。

 捨てていくモノ。

 残されたモノを武器にして。あるいは捨てた経験を強さに変えて。どんなに幸福でも、不幸に見舞われれば戦うだろう。どんなに不幸でも、幸福をつかむために戦うだろう。幸福とも不幸とも言い難い曖昧な状況だって、ひとはどちらかに転ぶ一歩を踏み出すはずだ。


 しかしその積極性は、報われないこともある。


 正しく道を選べば、それは努力だと評価される。でも方法を間違えれば、犯罪であると排斥されてしまう。そんな世界。


 ――ならば。


 ひとりの少女が選びとったこの道は、どちらなのだろう。

 努力という名の美徳だろうか?

 犯罪という名のあやまちだろうか?

 多くの人々が恐怖と喜び、その他さまざまな阿鼻叫喚に包まれた、この数日間。その裏にある覚悟と意志は、いったいどれだけ深く、濃く、強いのだろう。





 最初に異変が訪れたのは、とある学園にある学食内。

 携帯の画面をタップし、当人にしか見えないホログラムの情報を凝視する生徒。ある者は食券を買うための列に並びながら。またある者はお昼のラーメンをすすりながら。入学と同時に試験的に導入されたアプリを、占い感覚で眺める昼食の時間。もはや日常風景となった光景に、まだ異変を感じ取るものはいなかった。


 しかし――十二時十五分。


 異性との出会いを後押しする市公認の相性診断マッチングアプリに、ノイズが走った。

 表示されていたユーザー情報に混ざって、いつかの迷惑メールを思わせる勢いで何件もの相手が押し寄せる。

 無機質に流れる『新たなお相手が発見されました』という通知メッセージに、百人以上の生徒が同時に襲われた。

 重なる無機質な女性の音声。携帯を操る当人にしか聞こえないとはいえ、けたたましいほどの通知が立て続けに鳴れば、誰だって驚くものだ。事実、生徒のなかにはビクリと肩を揺らす姿も見受けられた。

 無理もない。マッチング通知の音声は、三日に二通ほど届くのが常。一度に何通も届くのは異常である。

 加えて、相手が相手だ。


 プロフィール画像は真っ黒。

 年齢や性別といった必ず表示されるはずのらんも無記入。

 ユーザーに与えられるはずの識別番号は文字化け、受け取った側から確認できる情報はなにひとつない、不気味な『新たなお相手』。

 人々は気味の悪い動作をなにかのバグかと思ったことだろう。市が運営しているとはいえ、やはりメンテナンスが必要なこともあるのだな、と。

 けれど、唯一確認できるユーザー名を見て、驚きは混乱と恐怖にかわった。


 顔を青ざめさせるもの。

 反射的にアプリを閉じるもの。

 ちいさく悲鳴をもらすもの。


 いるはずのない存在。

 自分や親族しか知らないはずの、亡くなった名前からの接触。

 恐怖をもたらすには十分な要素たり得る。事件のはじまりは、なんてことない昼の時間におとずれたのだ。

 

 

 五月十日。

 ――彼女は牙をいた。


 変化を求めるものは、なにも生きている人間だけではないのだと、静かに呟いて。


 市公認のアプリで発生した、致命的なエラー。

 それは、『死者とマッチングしてしまう』というものだった。

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