第五話 お腹の中の一番奥深く

 それから四度の定例会があり、私はその全てに参加した。ヤンヤンとレトリーバーも毎回参加していて、コズエは二度参加した。

 過去四度の定例会の話題は殆ど六月の新歓ライブに関するものだった。新歓ライブというのは重要イベントらしく、大学内に無数にある音楽系サークルはどこも力を入れているようだった。

 今日行われた五度目の定例会で新歓ライブのビラが皆に配られた。三つのサークルと合同で行うらしい。一バンドにつき持ち時間は用意の時間も含めて二十分。十四時開始で午後八時に終了。トータル五時間で十五のバンドが出演する。

 日程は来週の土曜日で、キムラ達の出番はラストの七時半頃だった。機材の搬入に関して何度も確認してその日の定例会は終了となった。


 定例会後にキムラ達メンバーとやって来た大学近くの定食屋で、私とコズエはさっき配られたばかりのビラを広げていた。この定食屋は『タカラ飯店』という学生御用達の古くからある店で安くてボリュームがあるのが売りだった。既に何度か私はここに連れてきてもらった事があって、その度に奢ってもらっていた。誰が払っているのかよくわからなかったが、新入生は払わなくていいというルールらしかった。

 タカラ飯店の奥には座敷席があり、靴を脱いで上がる。座敷席は十名程が大きなテーブルを囲むように座る。座敷席は合計四席あった。その日、私はコズエとレトリーバーと並んで座り、テーブルの向いにはキムラとインディーが座した。ヤンヤンも参加していたが席が離れていた。

 定例会後のここでの食事は毎回恒例になっていて、毎度十名程度参加したが今日は二十人位の参加人数となり座敷席を二つ占領した。

「キムラさんトリってことですか? 紅白歌合戦なら一番格上の人がラストなんですよね」

 コズエはビラを見つめながらそうキムラに話しかけると『唐揚げ定食』と名付けられた異様な量の唐揚げの十分の九ほどを小声で「こんなにいらない」と言って私の皿に移動する。私は思わず笑ってしまってそれを受け入れたけれど、自分のエビフライ定食だけで相当な量だったし、とても食べられそうにないので横にいたレトリーバーの皿にそのまま移した。レトリーバーは「うわやべえ量。でも食います」と笑った。

「格とかじゃなくて単に撤収に時間かかるからなんだけどね」

 前よりさらに伸びた前髪を気にしながらキムラはコズエに答える。

 コズエはすでに何度か定例会に来ているけれど、このサークルに入っているのか入っていないのか未だによくわからない。ただコズエが来る時は定例会後のタカラ飯店参加率が格段に上がる。今日のコズエは薄い青色のワンピースを来ていて入学時は黒かった髪もかなり明るい色に変わっていた。

「この『音楽サークル・代表木村』ってバンド名なんですか? なんか会社の名前みたいで変」

 コズエのその意見に私も同意して頷く。他のサークルはバンドごとに色々と個性的な名前がついていた。その殆どがコピーバンドだったが、バンド名はコピー元にちなんだ名前が多い。例えばKANA-BOONのコピーバンドにはBAKANA-BONBONという名前が付いていた。

「このモンゴル八十万はいい。八十万はいいよ。お金だったら結構な大金だし、モンゴル八百の百倍だもんな」

 インディーはビラを眺めながら誰に言うでもなくそう呟いて、「このバンドあいつのバンドだよ」と、隣テーブルの一番端であぐらをかいていたヤンヤンを指差した。そうかモンパチってそういう事か、と私は理解した。でもよく考えると八十万は八百の百倍じゃなくて千倍だ。

 私はエビフライ定食をあらかた完食し、向いに座っていたキムラをこっそりと観察していた。キムラはインディーと「それは俺が持っていく」とか「あれはあるだけ持ってきて」とか話をしている。

 コズエは完全に食べることをやめてしばらくスマホを弄っていたが、飽きたのかそれをテーブルに置いてまたビラを眺め出した。

「曲名も書いてないですけど、やばくないですか? もう来週ですよね。っていうか練習とかってやってるんですか?」

「練習? 練習してるよ。例えば今こうしてコズエちゃんと話をしてる」

「うーん。よくわかんないけど、でも私観に行きますよ。めっちゃ盛り上げます」

 コズエがキラリとした笑顔でそう言うと、キムラはちょっと驚いたようにインディーと顔を見合わせた。

「ん? コズエちゃんもライブ出るんだよ。キヨミちゃんも」

「え?」

「え?」

 私とコズエはほぼ同時にそう発した。

「いや無理ですよ! 一度も練習してないし、というかベース自体弾いた事ないです。買った時に三十分位弄ってから一度も触ってないし」

 私は珍しく大きな声を出してそう言うと、コズエの方を見た。コズエは目を丸くして片手で口のあたりを抑え、もう片方の手の平をキムラに向けていた。

「いや無理無理、私そもそも楽器持ってないし」コズエは弱々しく言う。

「楽器は俺達でいくつか考えてるから大丈夫」

 インディーが満面の笑顔でコズエにそう声をかけて、キムラもこれまた笑顔で何度も頷いた。

「そういうわけだから。頼むね」

 コズエはしばらく憮然とした表情で黙っていたが、何度か思い出したように「いやいや無理無理無理」と繰り返した。

「新しい楽器何使うんですか?」

 レトリーバーが話に割って入って、好奇心に満ちた犬っぽい笑顔でインディーに尋ねる。彼はコズエから流れてきた唐揚げを既に完食していた。

「まだ決まってないんだよねえ」インディーは楽しそうだ。

 私はこのままじゃマズい、と焦った。なんとか出演はやめたい。

「私、無理です。今から練習とか無理ですし、今回は本当に観るだけで」と両手を合わせた。本気で泣きそうな顔だったと思う。

「俺たちはそういうのじゃないから。楽譜もないし」

「あの、楽譜もないって事とか、とにかく色々ちょっとわかんないんですけど」

 なんとか出演を辞める口実を頭で考えながら言葉を繋げる。こんな初心者が学生の新歓ライブとはいえ人前で演奏するなんて回復不能のトラウマを抱えるに決まってる。出るとしても、もっと練習して上達してからだ。

 キムラが真っ直ぐに私を見つめ、口を開いた。

「メロディーもないしコードとかもないしテンポもないし。歌詞とかもないし。だから初心者だとか上級者とか、根本的に無関係。だから『下手だから』、とかそんな事は言わないでほしい。本当に無関係だから。そんなの」

 その時の彼にはもう笑顔はなくて、私はキムラと目が合うと大抵は照れてしまって顔を背けるのだけれど、この時はなぜかその照れがなかった。

「関係ない。無関係。ただ音を出す。それだけ」

 私は何か言わなきゃって焦ったけど、小さく「なんじゃそりゃ」と言ったきり言葉が出てこなかった。

「ステージの上はキヨミちゃん一人じゃないよ。俺もいるし、コズエちゃんもいるし、ここにいる全員がいる。みんなで『せーの』で音を出す。全力で音を出す。全力で。決められた時間、与えられた時間、全力で、できるだけ、できるだけ大きな音を出す。みんな一緒に」

 キムラと目が合ったままだった。彼の目はいつになく真剣だったけど、その目がなんとなく悲しそうで、私は、私のお腹の中の一番奥深くで彼の悲しみが巣食っていくのを感じていた。

 隣のテーブルで誰かが面白い事を言ったらしく、大きな笑い声が聞こえてきた。店の奥の方では店員さんの「いらっしゃいませえ」という元気の良い声がした。

「……わかりました。やります」

 そう答えた私を見てコズエは「えーまじでー」と天を仰いだ。 


 帰りはまたキムラの車で家まで送ってもらった。インディーとコズエも一緒だった。インディーが助手席に座って、私とコズエが後ろの席に座った。

 車の中ではコズエとインディーが盛り上がって大笑いしていて、それについてキムラが何か言ったらしく爆笑はさらに大きくなっていたけれど、私は車の中で流れていたよく知らない曲に意識が集中していて彼らの爆笑の内容が頭に入らなかった。


 ——とんかち叩いて働いたあとの楽しみはポッケに隠れている君とデート


 そんな歌い出しで始まる曲だった。


 コズエは私と一緒に私の実家の前で降り、キムラとインディーに礼を言って二人を見送った。

「コズエちゃんも出ようよ。新歓ライブ。よくわかんないけど、なんか面白そうじゃん」

「うーん。なんか黒歴史になりそうな気しかしない」

 コズエは笑って、私も笑った。

 コズエと手を振って別れて玄関のドアから自分の部屋に直行し、洋服ダンスの奥で眠ったままだったベースを引っ張り出した。ピカピカとした、白くて、丸みを帯びたよくわからないメーカーのベースだ。高校生の時に勢いで買って以来殆ど弾いた事はない。

「チューニングってどうやるんだっけ」

 私はそう独り言を言ってから、ベッドの横にその白いピカピカのベースを立てかけたけど、滑って床にバタンと倒れてしまって「うわ」って言葉が小さく口からこぼれ落ちた。

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