第四話 空気感

 昼食の度に例の学生食堂の一番奥の窓ガラス前の席に行くようになって数日経った。そこに行けばキムラかインディーがいたし、彼らの仲間と思しき人たちが大勢いた。少ない時で五人程度、多い時は三十人位。私一人の時もあったしコズエが一緒の時もあった。

「一応、水曜日の五時から定例会ってのがあるんでキヨミちゃんとコズエちゃんも宜しくお願いします」

 キムラはその定例会とかいうものが催される会場の場所を口頭で私に伝えたけれど、私はその場所がよく分からない。「どこですかそれ」と呟くと、横に座っていた男が話しかけてきた。

「僕、分かるんで一緒にいきましょうよ。」

 一目見て、犬のような顔をした男の子だな、と思う。

 私は心の中で彼を『レトリーバー』と名付けた。

 私がお願いしますと答えると「じゃあ四時半にここらへんに居るんで」と話が決まる。コズエの方を向くとスマホを弄っていて、ぶっきらぼうに「私も行く」と言った。

 

 約束の時間になって食堂に向かうと、途中コズエからスマホにメールが来て「ゴメン、今日無理になった」とだけ書いてある。私は「まじか」と声に出してしまった。レトリーバーと二人はちょっと気まずいな、などと考えを逡巡させていたところにレトリーバーは現れた。彼は挨拶もそこそこに「こっちです」と私の前を歩いていく。

 食堂を出て左に折れてしばらく細い道を進む。その先にサークルがあつまる会館があり、その一室で定例会をやるのだと言う。道の脇には綺麗に刈り込まれた芝生があって、私はレトリーバーとの気まずい道中も一瞬忘れて、西に沈もうとしている太陽の光を全身で受けとめている芝生の輝きに目を奪われる。

 彼はツルツルとした質感のB6サイズのチラシを私に手渡してきた。

「これ俺の友達のやってるパーティーのフライヤーなんですけど、良かったら来てくださいよ」

 私は「はあ」とだけ曖昧な返事をしながら手渡されたチラシに目をやる。手作り感溢れるチラシだ。大きくDJブラックバスと書いてあって、その下にそれよりもわずかに小さな字でDJブラックサバスと書いてある。

「行けたら行きます」

 私はそのチラシをポケットに入れる。多分そのままゴミ箱行きだろう。

 レトリーバーは私とほぼ同じ身長だった。パーマのかかった短い髪をマットな緑色に染色していて、一重瞼の面長な顔にさっきもらったチラシのようにツルツルとした皮膚をしている。食堂にいた時に他の人と馴染めてない雰囲気から彼も多分新入生だろうと推測していた。

「あの、新入生なんですか?」

「僕、一時めちゃくちゃガクトにハマっちゃってて」

 レトリーバーは私の問いには答えず、満面の笑みで意気揚々と語り始めた。

「ガクトって元はマリスミゼルってバンドにいたんですけど三歳からピアノやってて十一歳で一回やめちゃうんですけど。十四歳からまた始めたんですよ。それでテコンドーの黒帯も持っててめちゃ強いんですよね、で、ボディビルとかもやってて、超ムキムキなんですけど、横腹をぼこぼこ殴らせるんですよぼこぼこって、それテレビで見て僕びっくりしちゃって。すげーなこの人って思って僕も弟に殴らせてみたんですけど、そしたら折れちゃって。肋骨が。で病院行ったら折れてないって言われて」

 私は返答の言葉が思いつかず無言だった。その間八秒。

「キムラさんのファンみたいな感じなんですか?」

 レトリーバーは私の無言の応答を一切気にしていないようで、変わらず微笑を絶やさない。なんか憎めない人だな、と思う。

「いえ、キムラさんに誘われたんです。異様に誘われて、強引にサークル勧誘されたんですよ。あのサークルってそういう感じでみんな勧誘された人達なんですか?」

「えーそうなんですか。うーん、あんまり勧誘とかしてない気がするけどなあ。僕は少なくとも勧誘とかじゃないです。僕の場合はキムラさんを高校の時にたまたま見て、すげえファンになってって感じです。そういう人が殆どだと思いますよ。あのサークル」

「へー。キムラさんが歌う、みたいな感じなんですか? どんな感じの音楽かもまだよくわかってなくて」

「あ、あれですあれです」

 私の質問には答えずに目線の先にある建物を指差す。年季が入っている建物だ。変色した白い壁にこれまた変色した赤い屋根。二階立てで、周囲に夥しい数の自転車がじっと鎮座している。まるで自転車に支えられて立ち続けている建造物のようだ。入り口には小さな階段があって、数人の人が出入りしていた。レトリーバーはその階段を上って大きな木のドアに体重をかけて開けると、私に先に入るよう促した。玄関を抜けて中に入ると高い天井がまず目に付く。

「ええと、こっちです。あ、こっちか」

 玄関を入ってすぐ右に折れその先にあった階段を上る。二階に上がると右に向き、先に続く長い廊下をまっすぐ進んだ。中学校の校舎のような作りだ。歩くたびに廊下のきしむ音が聞こえる。いくつも教室があって、小さな窓がある。レトリーバーと私は一番奥の部屋の後ろ側のドアから入った。

 教室の中には既に二十人位が座っていて、私たちは一番後ろの席に静かに着席する。なにやら各々に騒いでいて私達に気を払う者は誰もいなかった。椅子があるのはもちろん、学校と同じように机も黒板もあり、ここは昔、校舎として使っていて古くなったからサークルなどに明け渡した建物なんだろうな、と私は推測した。前の方にインディーとキムラがいる。黒板には『定例会』とだけ大きく書かれている。

「時間だから始めます」

 キムラがそう声を張り上げて椅子から立ち上がると教室でいうと教壇がある位置に立って私たちの方を向いた。例のサングラスはかけてなくて、黒いシャツに黒いコットンっぽいパンツを履いて相変わらず汚いブーツを履いている。

「ええとまず六月の新歓ライブなんですけど、出たい人の確認取ります。手をあげてもらえます? 今日来てない人は一応出たいって方にカウントしときます」

 キムラがそう言うとほとんど全員が手を上げた。私は新歓ライブなら歓迎される方だからと手を上げずにいたが、右横に座っているレトリーバーをふと見ると手を上げていた。

「え、新入生じゃないんですか?」

 と私が囁くと「え、新入生ですよ」と驚いた顔で私を見る。驚いた顔も犬顔だった。

「全員って感じですね」

 キムラは私達に背を向けると黒板に備え付けられているチョークをいくつか物色した。長めの白のチョークを持つと、黒板に書いてあった『定例会』という文字の右横にこれまた大きな文字で『空気感』と書いた。

「空気感! 空気感。空気感。エアー感。……空気感! 音楽って空気感じゃないんですか。音程とか! 音色とか! ノリが良いとか悪いとか!、そんなものは落語の蕎麦と一緒だろ! ちがうかよ!」

 キムラはまるで別人格になったかのように左手にチョークを持ったままその手を振り上げ、険しい表情で声を張り上げた。ちがうかよの部分はことさら大きな声で私はビクッとしてしまう。何人かが「そうだそうだ!」と相槌を入れた。

「空気なかったら人は生きていけない。じゃあ空気感って、それがないと生きていけない感って事じゃないのか! それがないと生きていけない! 空気は当たり前なんかじゃない! 違いますかあ!」 

 違いますかあ、はほとんど叫び声に近かった誰かが「そうだ!」と合いの手を入れる。私はよく理解できずに、正確に言うと理解しようという気が全く起こらずに、無心でキムラを眺めていた。周囲をこっそり見回してみると、真剣にキムラの話を聞いている人は誰もいなくて皆笑って見ている。まるでコントを見ている感じだった。「そうだそうだ!」と合いの手を入れる人の顔は例外なく破顔微笑している。

「だから結局、」

 キムラは皆に気をとめる事なく険しい表情のままそう言って、振り上げていた手を下ろすと「俺たちが表現したい事って」と黒板に向き、チョークで『空気感』の文字を弱々しく丸で囲んだ後「結局、それだって思うんですよね」と呟いた。

 その姿はなぜかちょっと悲しげで今度は誰も合いの手を入れなかったし、誰も笑っていなかった。


 その後、アンプをどうするかとか発電機を誰が調達できるかとか誰が車を出せるかなどの話題に移り、その時はインディーも教壇に立って何やらメモを取っていた。

 ガヤガヤとした雰囲気の中で私は前から疑問だったことをレトリーバーに聞いてみようと思い立つ。

「ここの人たちって全員がキムラさんのバンドメンバーじゃないよね?」

「いや、全員キムラさんのバンドメンバーだよ。俺もそうだし、っていうかそのつもりだし」

 レトリーバーはどうしてそんな事を聞くのだ、という顔をして答える。

「え? 人多すぎない? 今日来てない人もいるんでしょ? こんなに沢山いたら普通はバンドとか無理じゃない?」

「いやあ、でも、そういう感じだし……」

 とレトリーバーは小さく笑った。仕方ないので私も笑った。

 その時、私の左側に座っていた男が私に話しかけてきた。何度か食堂で見かけた男だ。小太りでメガネをかけている。

 私は随分前からその男を心の中で『ヤンヤン』と名付けていた。

「今年入った人ですよね。どんな楽器やってるんですか?」

 ヤンヤンはずり落ちるメガネを指で直しつつ私に笑顔を向ける。

「あ、私、一応ベースは持ってるんですけど、全然弾けないです。これから練習したいなって思ってて」

「僕もベースなんですよ。今度教えますよ。このバンドの他にもモンパチのコピーバンドもやってて結構ベース暦も長くてかなり高いベース買っちゃったんですけど、この前のライブの時に転んでネック折っちゃって、でネックだけじゃなくて肋骨も折っちゃって、でも病院行ったら折れてないって言われちゃって」

 ヤンヤンが早口でまくしたてると、レトリーバーが話に割り込んできた。

「え! 僕も肋骨折ったんですよ!」 

 人懐っこい笑顔でそう言うレトリーバーにヤンヤンは「まじで」と私を間に挟んで二人の会話が始まる。

「僕もベースなんですけど、今度おしえてください。モンパチ僕も好きで」 

「新歓ライブでモンパチコピーやるんで来てよ。今度のライブ新しいベース使おうと思ってて、この前のライブでネック折れちゃったから。肋骨は折れても治るから良いけどネックは治らないよねえ、肋骨折れてなかったけど」

「僕も肋骨弟に殴らせたら折れちゃって、で病院行ったら折れてないって言われて」

 二人の間に挟まれて無言の私はモンパチってのはなんだろう? と思っていた。チャットモンチーでは無さそうだ。


「じゃあそういう事でお願いします!」

 インディーのその言葉で、その日の定例会はお開きになった。


 帰り道、もう陽は落ちていたけれどキャンパス内の至る所に明かりが灯ってる。サークルメンバー全員で食堂の辺りまで雑談しながら歩いてそこで解散となった。

 この後、キムラ達は近所の食堂に行くらしい。レトリーバーやヤンヤンは参加すると言ったが、私はそれを断って帰宅する事にした。

 ぼんやりとした光の中で、芝生たちはここに来る途中に見たそれよりもっと青くて、生命力に溢れて見えた。

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