第3章 考察しますか?

 目の前にテーブルがあって、その上に何枚もの紙が置かれていた。中には本の形をしたものもある。そのさらに先にはテレビがあるが、今は何も映し出していないから、黒い平面がただ広がっているだけだった。


 リィルと呼ばれる人形の少女が、僕の方をずっと見ている。けれど、どういうわけか彼女は言葉を発さない。だから僕も口を利かなかった。でも、互いにコミュニケーションを拒絶しているわけでもない。むしろコミュニケーションは成立している。黙っていることが意思の疎通になることもある。


 時刻は午後十時を回っていて、外は暗かった。硝子扉が少し開いているから、外の様子が窺える。街灯の明かりが室内まで波及することはない。部屋には部屋の照明があって、それが今はこの空間を掌握している。


 僕もリィルもすでに風呂に入っていた。リィルは、飲食はしないが、入浴はする。人間に特有な行動を何もしなくても良いのなら、これ以上ないほど便利だが、彼女の身体はそこまで突拍子もないデザインが施されているわけではないらしい。あくまで人間をモデルに作られているから、人間に似ているところもある。人間よりも効率的にできる部分は工夫し、あえて人間臭さを残すべきところは残されている。ただし、人間にとって食事は非効率な行動であり、入浴はなくてはならない行動だと結論づけるのは、どうにも無理があるように思える。食事をしない人間がいることで助かるのは、本人ではなく、むしろ周囲の人間だろう(そうすると、水分を余計に使わなくて済むという意味で、入浴も同様の扱いを受けるべきということになるが、そちらの方は技術的に不可能だったのかもしれない)。


 リィルの視線は鋭くて、もしそれが物理的なものなら、僕の心臓はとっくに射抜かれているに違いない。射抜かれて、貫通している。刺さったままにはならない。彼女は、きっと、誰かとの融合は求めてない。彼女はあくまで彼女で在り続けたいのだ。独立した一つの存在でい続けたい。誰かとの融合を求める傾向にあるのは、むしろ僕の方だろう。


「さて、では、続き」


 長い沈黙に終止符を打って、僕は口を開いた。


 声に反応して、リィルが少し首を傾げる。


「どうするの?」


「うーん、どうするって言われても……」僕は腕を組む。「普通に探すしかないんだけど……」


「探すって、一つ一つ手作業で?」


「そうだよ」


「ええ……」リィルは肩の力を緩め、そのままテーブルに突っ伏す。「やだよ、そんなの。今までずっと同じことやってきたじゃん。私、もう、飽きちゃったよ。別の方法でやりたい」


「ずっとって言ったって、まだ二日しか経っていないじゃないか」僕は反論した。「飽きるのは分かるけど、仕事ってそういうものだよ。仕方がない。とにかく続けるしかないんだから、付き合ってよ」


「面倒」


「仕事なんだから、当たり前だよ」


「面倒なことに付き合わせるつもり?」


「付き合って下さいって、お願いしているんだ」


「されていないけど」


「じゃあ、するよ」僕は少し笑って尋ねる。「何回すればいい?」


「百万回」


 先ほど家に帰ってきて、一時間ほど作業をした際に、ある発見があった。それは本当に奇跡的に気がついたことで、少し手順を間違えれば見逃していたかもしれない。僕は不注意の権化のようなものなので、それに気がついたのは僕ではなく、もちろんリィルだった。つまり、彼女は自分で面倒事を増やしたことになる。黙っていれば良かったのだが、彼女は素直だから、隠すというのは良心が許さなかったのだろう。


 ある一つの本の形をした書物に、欠けている部分が見つかった。具体的には文の一部が欠落しており、論理的な意味を把握するのに支障を来している。その文だけから意味を理解しようとすれば、理解できないことはないが、文章全体の中で自らの役割を全うしようとするとき、エラーが生じるような事態になっている。


 問題の文というのは、



「〈   〉、存在するのか?」



 というものだった。読点の前に何らかの言葉が入らなくてはならないのだが、それが欠けてしまっている。


 さらに、問題はそれだけではなかった。この文は、ある一つの書物から見つかったものだが、しかし、その書物は、昨日の時点で一度目を通したものだったのだ。書物を確認したのはリィルだが、昨日の時点ではそのような欠落は見られなかったと彼女は主張している。つまり、昨日はあったものが、今日になってなくなっていたということになる。


「君が見落としただけじゃないのかな……」顔を上に向けて、僕はリィルに言った。「うん、その、なんていうのか、僕が言うのもなんだけど、君も、大分おっちょこちょいだから」


「私のせいだって言うの?」テーブルに突っ伏していた身体を勢い良く上げて、リィルは僕を睨む。「違うから。ちゃんと確認したから」


「うん、でもね、文の一部がなくなるなんてことは、普通は起こらない。そうだろう? 冷静な頭で考えてみれば、いや……、考えなくても分かることだ。それは文字として、インクでそこに印字されているんだから。消えてなくなるはずがない」


「いや、でも、実際になくなっているじゃん」リィルには自分の意見を改める気はないらしい。


「本当に、ちゃんと確認した?」


「だから、したって」リィルは声を荒らげて言った。「他人を疑うなんて、一番やっちゃいけないことだよ」


「この場においては、ちゃんと確認しないのが、一番やってはいけないことだと思う」


「だから……」


「分かった分かった。じゃあ、今は、君が言っていることが正しいとしよう」


「じゃあって何?」


「じゃあ、じゃあって、言わなかったことにしよう」


「今、言ったじゃん」


「うん、そうだね」


 はああと溜め息を吐いて、リィルはまたテーブルに突っ伏す。それなりに粘着力があるらしく、彼女はその姿勢のまま固まってしまった。


 僕はテーブルの上に手を伸ばし、問題の書物を手に取る。それは教科書サイズのソフトカバーの書物で、例によって古文書と呼べるほど古ぼけてはいない。中身も比較的綺麗なままで、書き込みなどもされておらず、非常に保存状態の良い代物だった。タイトルは酷く抽象的なもので、そこから内容を推測することはできない。そして、実際に本を開いて中身を読んでみても、内容を理解することはできなかった。何について書かれた本なのか分からない。ストーリーではないから、小説の類ではないが、書かれている内容に論理性が欠けているから、論述文でもないということになる。その場合、小説と呼んだ方がまだ近いかもしれない。少なくとも、教科書の類ではないだろう。


 問題の文は冒頭の方のページにあった。第一章の中間辺りで、段落を変えた最初の文になっている。しかも、その段落はこの一つの文だけで構成されていた。ほかの文の追従を許さない、独立した段落として機能している。段落の途中にあるのであれば、もう少し意味を推測できたかもしれないが、実際には最初にあるが故に、理解を困難にしている。新しい内容を述べるための枕詞として機能しているから、空白を埋めない限り唐突な印象を拭えない。


「まあ、いいよ。とりあえず、この空白に入るのがどんな言葉なのか、考えてみよう」依然として突っ伏したままのリィルに向かって、僕は言った。


「……考えるとか、余計に面倒臭いんだけど……」リィルは目だけで僕を見る。


「でも、考えないと始まらないよ」


「面倒」


「考えないと、始まらないんだ」


「だから、面倒」


「考えない限り、始まらないんだから!」僕は自分でも驚くほど大きな声を出し、リィルの肩を揺する。「いいから、早く起きなさい!」


 しぶしぶといった感じでリィルは身体を起こし、手で額に触れる。溜め息を吐いて首を振ると、今度はジェット噴射機でも装着したかのような速さで背筋を伸ばした。


「オーケー。準備完了」


 リィルの言葉を聞いて、僕は頷く。


 僕たちの目的は、昨日はあったのに今日になってなくなってしまった、空白に入る言葉を見つけることだ。「〈   〉、存在するのか?」の〈   〉(空白)には、確かに何らかの言葉が入っていた、もう少しいえば、そのような目立った欠落は見つからなかった、とリィルは主張している。だからそれを見つけるしかない。


「まあ、でも、当てもなく探しても見つからないから、とりあえず、その空白に入るのがどういう言葉なのか、考えてみることにしよう」


 僕がそう言うと、リィルは小さく頷く。


「じゃあ、どんな候補が考えられると思う?」


「うーん」唸りながら、リィルは本の問題のページを見る。「段落はこれしかないから……。そうだね、接続詞だと考えるのが、自然なんじゃないかな」


 リィルの意見を聞いて、僕も本を覗き込む。


 もともと何について書かれた文章なのか分からないから、問題の文の前後の段落を見ても、そこからヒントを得ることはできそうにない。そもそも内容に繋がりがないから、「〈   〉、存在するのか?」が、前の段落からどのように繋がって、そして後ろの段落にどのように繋がるのか分からない。そうすると、今リィルが言ったように、とりあえず、一番考えられそうな候補として、接続詞を考えてみることを思いつく。


「まあ、普通に考えると、『ところで』が一番しっくりくるかな」少し考えてから、僕は意見を述べた。「突拍子もない文章だから、一般的なルールが適用できるとは言いがたいけど、こういうふうに、一つだけの文で段落を構成するのは、唐突なイメージを与えるための場合が多いから……。そうすると、内容を切り替えるために、『ところで』が入ると考えるのが一番しっくりくるよね」


 僕の意見を聞いて、リィルは本に目を向けたまま頷く。


「私もそう思う」リィルは言った。「でも、それなら、『ところで』に似た意味を持つ単語なら、ほかのものでもいいってことだよね? 『床屋』とか『心太』とか……」


 僕は、顔を上げて、リィルの顔を見る。


 僕の視線に気がついて、リィルもこちらを見た。


 目が合う。


「……え?」


 僕は尋ねる。


「え? いや、だから、『床屋』とか、『心太』でも、いいよね?」


 その瞬間、僕の中で何かが切り替わるのが分かった。


 何が切り替わったのかは分からない。


 でも、今、このタイミングで、それは確かに切り替わったのだ。


 決定的な何かだった。


「なるほど」僕は頷いた。「たしかに、そう考えると、『床屋』や『心太』の可能性も、なくはないね」


「でしょう?」僕の言葉を聞いて、リィルは笑顔を浮かべる。「うーん、そうすると、余計に考えるのが難しくなるなあ……」


 はて?


 僕は、今まで、何を考えていたのだろう?


 今、何かが変わったような気がしたが……。


 何が変わったのだろう……。


 ……。


 ……分からない。


 まあ、でも。


 別に、いいか。


「君は、『床屋』と『心太』なら、どっちだと思う?」僕はリィルに尋ねる。


「いや、どっちって言われても……。……どっちの可能性もあると思うよ」


「具体的な理由がなくてもいいよ。直感的に決めていい」


「そう? それなら……」リィルはもう一度本のページに目を落とし、結論を述べる。「私は、『床屋』かな……」


「君はリィルだよ」


「え?」リィルは僕を見る。「何?」


 僕は一度咳払いをし、落ち着いた素振りを見せる。


「なるほど。じゃあ、仮に『床屋』が入るとしよう。そうすると、問題の文は、『床屋、存在するのか?』という文になるね」


 〈   〉に「床屋」を入れた場合、それが文の中でどのような役割を担うのかが示されないことになる。たとえば、「床屋は、存在するのか?」であれば、「床屋」が文の内容を導く役割を担い、尋ねる対象を示すことになるし、「床屋で、存在するのか?」であれば、「床屋」は文が表す疑問の中で、場所を示すことになり、この文には登場していない何者かが、その場所に存在しているのかを尋ねるのが、文全体としての意味になる。


 しかしながら、実際には「床屋」はそれ単体で示されているだけだ。


「これで、意味は通じるかな?」本から顔を上げて、リィルは僕を見る。


「通じなくはないけど……」僕は答えた。「なんか、いまいちな感じがするね」


「でもさ、会話では、けっこうこういう言い方をすると思うよ」


「うん、でも、これは、会話じゃないから」


「会話では、言うでしょう?」


「だから、これは会話じゃないんだって」


「でも、会話では言うでしょう!?」リィルは大きな声を出す。「私の話、聞いている?」


「聞いているよ。だから、これは会話じゃないって言っているじゃないか」僕もリィルを見る。「たぶん、この文章は小説ではないよ。何かについて論じている文章だ。でも、何について論じているのかは分からない。論理性が欠けている」


「ああ、憂鬱」


「憂鬱に感じるのは、自分の責任だよ」


「そんなこと分かっているけどさあ……」


「床屋、存在するのか……」僕は呟く。「うーん、悪くはないけど、文章の流れとして、ここで格を補わないのは、突飛な感じがするね」


「じゃあ、今度は『心太』にしてみる?」


「『心太、存在するのか?』」


 リィルは一度黙る。


「あ、でも、こっちの方が、まだましな気がするかも」


「いや、しないね、全然」僕は彼女の意見を一蹴した。


「でもさでもさ、心太って、透明で、細長くて、味がしなくて、まさに存在するかしないか分からない感じがしない? その……、汁につけてこそというか、それ単体では食事にならないというか……」


「君は食事をしないのに、どうしてそんなことが分かるの?」


「え? いや、だって、辞書にそう書いてあったから」


「ちゃんちゃらおかしいね。辞書に書いてあることをそのまま信じるのは、馬鹿がすることだよ」


「じゃあ、何? アメリカに行ったことがなかったら、アメリカに関する記事を読んでも、そもそもアメリカが存在するか分からないから、本当かどうか分からないって、そう言うわけ?」


「うん、言うね、僕は」


「馬鹿じゃないの?」


「馬鹿じゃないよ。書いてあることをそのまま信じる方が馬鹿だ」


「じゃあ、もう、この本に書いてあることすら、本当かどうか分からないじゃん」


「そんなの、当たり前じゃないか。でも、今僕たちが問題にしているのは、文の構造なんだから、そんなことはどうでもいいだろう? この文の空白が埋められればいいんだから」


「でも、文の構造は、意味とも関係しているでしょう? じゃあ、やっぱり、内容を理解しようとしない限り、正解には辿り着けないじゃん」


「正解に辿り着くことが目的ではない」


「いや、何言っているの、さっきから。頭大丈夫?」


「大丈夫ではないね。君が変なことを言うから、ついていくのでいっぱいいっぱいなんだ」


「最低。もう帰っていいよ」


「帰るって、どこに? まさか、神様の所とか言わないよね?」


「神様の所に帰るんですう」


 沈黙。


 いずれにしろ、「〈   〉、存在するのか?」の〈   〉には、「床屋」も「心太」も入らないだろう。最初にその意見を聞いたときはなるほどと思ったが、考えていく内にまったく違うように思えてきた。


 そういうわけで、僕たちは次の候補を考えることにする。


「じゃあ、サンドバックかな……」


 リィルの呟きに僕は反応する。


「『サンドバック、存在するのか?」』」


「そうそう。あ、なんか、いい感じじゃない?」


「君が言う、いい感じというのが、僕には分からないんだけど」


「でも、いい感じがどういう感じかは、分かるでしょう?」


「まあ、たしかに」


「つまり、そういうこと」リィルは人差し指を立てる。「分かることは分かるし、分からないことは分からない。すべてはそこに集約される」


「ごめん、意味が分からない」


「まあ、いいよ」リィルは寝転がった。「ああ、もう、疲れたから、やめていいかな、この作業」


「生活ができなくなるね」


「いいじゃん、もう……。どうせお城に住めるほどのお金が貰えるわけでもないんだし」


「お城に住んで、どうするの?」僕は上の空で尋ねる。


「毎日、舞踏会を開く」


「武道会じゃなかったっけ」


「ああ、いいなあ……。一度でいいから、私も王子様と身を翻してみたいなあ」


「身を翻す?」


「王様じゃ駄目なんだよね。王子様だからこそいいんだよ。王様だとビックすぎるけど、王子様だとマイルドだから、その感じが万々歳なんだ」


「君さ、今何について話しているのか、覚えている?」


「心太? あ、いや、床屋? もう、なんか、忘れちゃった……」


 そう言ったきり、リィルは口を開かなくなった。


「床屋」も「心太」も、はたまた「サンドバック」も入らないとなると、最早手の打ちようがないというのが、僕の率直な感想だった。考えられる候補はすべて考えたし、これ以上の得策を思いつける自信はない。ただ、これら三つの候補を当て嵌める前に、何か別のことを考えていたような気がする。しかし、それについては、僕はすっかり忘れてしまっていた。


 最近、こういうことがよくある。自分がそれまで何をしていたのか、思い出せないのだ。湯船に浸かっているとき、ふと天井を見上げて、それまで自分が何をしていたのか、と考えることがある。湯船に浸かる前に身体を洗ったか、思い出せなくなる。


 自分は、どこにいるのだろう?


 ……。


 誰かの声が聞こえる?


 いや、聞こえている気がするだけか?


 ……分からない。


 ふと視線を横にずらすと、いつの間にかリィルが寝息を立てていた。後ろに身体を倒したまま眠っている。伸びかけの髪が無造作に広がって、けれどそこに不潔な感じはなく、むしろ神秘的な美しさが感じられる。


 ……?


 感情の欠如?


 感覚の欠落?


 僕は、今まで、感情の一部を、感覚の一端を、失っていたのではないか?


 リィルの、髪が広がる様を見て、ふと、そう思った。


 ……そんな気がする。


 曖昧で分かりにくいが、今、ふと、そう感じたのだ。


 僕はゆっくりと手を伸ばし、リィルの腕に触れる。彼女の腕は人形のように細く、肌はポリエステルのように柔らかい。本当に生きているのか分からないくらいに、彼女は人工的なベールに包まれている。けれど、恐怖の谷を超えられなくて見るに耐えないような、そんな品のない人工的な雰囲気はない。人が自らの手を使ってものを生み出す、その瞬間の思考が、感覚が、感情が、そのまま投影されたような、そんな端正なバランスが感じられるのだ。偶然その形で生まれてきたのではなく、その形で生まれてくるのが彼女の運命であったかのように……。


 腕を辿り、彼女の指に触れる。


 彼女の指の間に自分の指を挟んで、軽く握る。


 眠っていた人形が目を開く。


 ゆっくりと。


 一度は消えてしまった魂が蘇るように。


 結ばれていた睫毛が解けて。


 輝く瞳が僕の姿を捉える。


 彼女の瞳に映った自分の姿を見て、僕は僕の存在を捉える。


「どうかした?」


 人形が口を開いて、笑った顔で僕に尋ねる。


 僕は、答えられなくて、息を呑む。まるで彼女に魂を吸い取られてしまったかのように、身体の感覚があやふやになっていく。


 自分で、握ったはずの手が、いつの間にか、彼女に握られている、と錯覚する。


 不思議な感覚。


 不気味な体感。


 不等号の結末。


「明日は、どこかへ出かけようか」精一杯の勇気を振り絞って、僕は彼女に言った。


「さっき、出かけばかりだよ」リィルは僕に告げる。「明日も出かけるの? どこへ? 君はどこに行きたいの?」


「どこへでも。君が行きたい所へ」


「随分と威勢がいいね。少しは反省したのかな?」


 呼吸をするのが辛くなって、僕は空いている方の手で自分の胸もとを抑えた。前屈みになって、顔が床に近づく。


「どうしたの? 大丈夫?」頭上から、リィルの優しい声。


「うん、平気だよ」僕はなんとか答える。「暫くすれば、すぐによくなるから……」


 視界の端からリィルの小さな顔が現れて、僕の顔を覗き込んだ。彼女の綺麗な髪は、今は一律に制御されて、それぞれが同律の挙動で動いている。重力に従って静かに左右に揺れると、やがて垂直方向に伸びたまま静止した。


「本当に、大丈夫?」リィルが尋ねる。


 僕は、答えるのが億劫で、片方の手を挙げて、彼女の問いに応じる。


「私が、怖くなった?」


 そんなことはないと、僕は首を振る。


「自分が、怖くなったの?」


 どうだろうと、僕は首を捻る。


「何が、怖いの?」


「……何も、怖くなんかないよ」


「死ぬのが、怖いの?」


「死んだらすべて終わりだ。恐怖は感じられない」


「何を、恐れているの?」


「何も……」


 リィルの顔が、寂しそうな、でも楽しそうな、微妙な笑顔に変形する。


 僕は、それを見て、余計に苦しくなる。


 でも、今彼女の傍から離れたら、もっと苦しくなるだろうと思って、彼女の手を握り続ける。


 脳を貫通するような一筋の光が見えて、僕は自分の身体を制御する術を失った。


 そのまま、リィルの方に傾きかける。


 意識を失いそうになって、体重のすべてを預けるように、彼女の方に倒れる。


 勢いのまま、後ろに倒れて、そのままリィルに覆い被さり、彼女が頭を打ったらまずいと考える。


 けれど、思考を反映できるほどの力が、自分にはないと悟り。


 涙が零れそうになると感じて、でもその感覚が現実で効力を発揮することもなく。


 僕は、彼女の方に、倒れていく。


 怪我をしなければ良い、と願った。


 痛い思いをしなければ良い、と望んだ。


 痛いのは、嫌だ。


 苦しいのは、嫌だ。


 でも、僕の身体は、何もできないまま、倒れていく。


 あと、一歩。


 予測。


 

 衝撃は、想像していた以上に軽かった。


 絶大なバランス。


 この世界のありとあらゆる運動を司るほどの、均衡。


 人形の彼女に搭載されたスタビライザーが、僕の身体を支えてくれていた。


「……大丈夫?」


 頭の上から声が聞こえる。


 遅れて、髪の感触。


 琴線のように細く美しい髪が、僕の頰に垂れてくる。


「無理に耐えようとしなくて、いいよ」


 リィルの声。


 目を閉じたまま、僕は微かに首を上下に動かす。


「ずっと傍にいるから、安心してお休み」


 眠たくはなかったが、彼女にそう言われた途端、ずっと眠かったような気がした。


 彼女の両腕が僕の背後に回される。


 永久のシザーズ。


 永劫のイレイサー。


 人と物を並立関係で配置する精神。


 僕と彼女を並立関係で配置する邪神。


 神は、存在するのか?


 髪は、存在するのか?


 紙は、存在するのか?


 神、存在か?


 髪、存在か?


 紙、存在か?


 神、存在?


 髪、存在?


 紙、存在?


 、?


 、?


 、?


〈 〉


〈 〉


〈 〉

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