第2章 外出しますか?

 午後も作業を続けたが、例によって、著しい成果は得られなかった。成果と口にしようと思ったのに、実際に出てきた言葉は製菓で、リィルに笑われた。「著しい製菓は得られなかったね」と言ってしまったのだ。


「何それ。馬鹿じゃないの?」そう言いながら、リィルは笑っている。彼女は笑うときに口もとを隠したりしない。


「うん、自分でもそう思った」僕は応じる。


「ヒーローじゃないんだからさあ」


「ヒーロー? 君は、今の言葉からヒーローを連想するの?」


「ああ、じゃあ、悪の組織のリーダー?」


「どっち?」


「そういえば、ドッチボールなんて、最近全然やってないなあ。昔はけっこう上手かったんだけど、今はどうだろう……」


「ドッチボールじゃなくて、ドッヂボールじゃなかったっけ?」


「え? ziってどっちのdi? シに濁点? チに濁点?」


「肌に斑点ができたら、病気らしいよ」


 時刻は午後四時を回っていた。時計の音が聞こえる。ただ、どこに時計が置かれているのか、僕は覚えていなかった。思い出すことができない。頭の一部に靄がかかって、その先を隠しているようだ。周囲を見渡せば良いだけなのに、それすらもしようとしなかった。なぜかは分からない。理由はないが、あえていうのなら、そうしたくなかったからだろうか。


「よし、じゃあ、ちょっと、外に出よう」


 テーブルの上の紙を片づけて、僕は立ち上がった。視線の下にいるリィルが、目を大きくして僕を見つめた。


「へえ、どうしたの? 珍しいじゃん。自分から外に出ようだなんて」


「僕は優しいから、君のために言っているんだ」


「へえ」リィルは立ち上がり、僕の腕を掴む。「よく分かっているじゃないですか。うんうん。さすが私のお嫁さん」


「お坊さんの方が、まだましかな」


「ぼうぼう」


「雀の焼き鳥って、食べたことある?」


「雀? そんなものまで食べるの? 最低。可哀想じゃん」


「どっちにしろ、ほかの生き物を食べるんだから、今さら可哀想も何もないよ」


「最悪」


「はいはい。まあ、どうでも良いから、出かけよう」


 僕はすぐに出るつもりだったが、出かける準備があると言って、リィルは二階の部屋に上がっていった。たぶん、カメラとか、財布とか、小物の類を用意するのだろう。僕はすでに靴を履き終えて、玄関で立って待っていた。こういうとき、携帯端末を弄るのが最近の流行らしいが、僕は流行に乗れないので、黙って突っ立っているだけだった。


 一日はあっという間に過ぎる、となんとなく思う。


 ただ、時間というものがどういうものか分かっていない以上、日に関する考察を述べるのは、憚れるのではないか、というような気もした。時間は本当に存在するのだろうか? よく、時間は空間と並べて論じられるが、僕の感覚としては、時間は空間と並立関係にあるのではないように思える。空間は確かに存在するが、時間が存在するとは言いがたい。その証拠に、時間はそこにあるのではない。絶えず動いているのだ。そして、動くというのは、時間の性質ではなく、物質や物体の性質だ。したがって、時間はそれ自体が存在しているのではなく、物質や物体の動く性質が表れることで認識できるようになる、一種の幻想なのではないか、と考えられる。


 地球は太陽の回りを回っているが、その動きを止めることができれば、一年という単位は成立しなくなる。これは公転を止めるということだ。一方で、今度は自転を止めてしまえば、一日という単位が成立しなくなる。ここからも、時間が物体の運動に依存していることが分かる。


 ただ、そういうことを踏まえたうえで、それでも時間は存在する、と主張する人もいるだろう。太陽の回りを回る地球の動きを止めたところで、地球で生きる我々の活動が消滅するわけではないからだ(もちろん、地球の公転や自転を止めれば、間違いなく現在の地球の環境を維持できるわけはないのだが)。そういう意味では、時間は確かに存在するのかもしれない。


 階段の上から足音が聞こえて、僕は意識の八十パーセントを現実に戻した。顔を上げてそちらを見ると、リィルが階段を下りてきていた。


「お待たせ」そう言って、リィルは小さく手を振る。


 荷物を取りに行ったのかと思っていたが、どうやらそうではないようで、彼女の服装が変わっていた。しかも、普段目にするようなものではない。所々が白いフリルで装飾された、華やかなドレスをリィルは身に着けていた。


「いや、何、それ」


 すぐ傍まで来た彼女に、僕は尋ねる。


「え? 何って、ドレスだけど」


 僕は沈黙する。返す言葉が出てこなかった。


「君さ、どこに行くつもり?」


「え? だから、出かけるんでしょう?」


「晩餐会に行くんじゃないよ」


「散歩?」


「そんな感じ」


「うん、そんなことだろうと思っていたけど」


「その格好で、大丈夫?」


「何が、大丈夫なの?」リィルは服の裾を手で掴み、持ち上げる。「もう少し派手な方がよかったかな……」


「はいはい。分かった分かりました」僕は把手に手をかけ、ドアを開く。「もう行こう。あまり遅くなると行く気が失せるから」


 リィルが靴を履くのを待って、僕と彼女は家の外に出た。今日初めての外出だった。でも、別に特別な感じはしない。初めてだとということを意識すれば、もう少し特別に感じられるかもしれない。今日初めてするくしゃみ、今日初めて行くトイレ、今日初めて被る躓き……。


 空はまだ幾分明るかった。昼間のようなぎらぎらとした明るさはないが、まだ空は赤く染まっていない。これから徐々に暗くなるだろう。このくらいの時間になって、僕の意識はようやくクリアになる。夜型の人間がいるというのは嘘ではない。


 家を出て周囲を散策する。辺りは住宅街だが、自然がまったくないわけではなかった。


「そして、空から人が降ってくる」


 唐突に、リィルが言った。


「人?」


「そう、人」彼女は頷く。「そういう話が、昔あった」


「何で見たの? 本? 映画?」


「新聞」


「新聞?」


「作り話じゃない。実話」


「なるほど。事件ってわけだ」


「たしかに事件だったけど、猟奇的な事件ではなかったよ。ミステリーとしての事件。降ってきた人は、いつの間にか消えていたの。降ってきた様子だけが捉えられていた。でも、どこにもその人の身体はなかった」


「最初から、見えているだけだったんじゃないかな」なんとなく思いついて、僕は意見を述べる。


「そうかもしれない。でも、見えたのなら、それが事実だと思うのが人間」


 坂道を下った。両脇に木々が等間隔に並んでいる。それなりに傾斜のきつい道だが、今は下りなので問題なかった。帰ってくるときは少し大変だ。エスカレーターでも設置してくれると助かるが、そんなことをしたらこの地域の微妙なニュアンスが崩れてしまうだろう。


 坂道を下るごとに、空との距離が離れていく。でも、意識しない限りそんなことは思いつかない。空はいつも自分の頭の上にあるが、いちいちそんなことを確認したりしない。


 子どもの頃は、空を見上げることが多かった。ほかの人がどうか分からないが、少なくとも僕はそうだった。一日の中でも、それなりの頻度で顔を上に向けていた。特にそこに何かあるわけでもないのに、頭上に広がる群青色の平面を眺めていた。もしかすると、そんな空虚さが好きだったのかもしれない。でも、長い間空の下にいることで、いつの間にかそれが当たり前になってしまった。


 僕は、今、どこにいるのだろう?


 何度も抱いた問いを、もう一度自分に投げかける。


 それで、何か、答えが得られるわけでもないのに。


 それで、何か、変わるわけでもないのに。


 まるで、暇を潰すように、同じ問いを、同じように、自分に投げかけている。


「リィル」隣を歩く彼女に声をかける。「君は、今どこにいるの?」


 僕の問いを受けて、人形のような少女が、人形のような挙動でこちらを振り向いた。


「どこに?」リィルは首を傾げる。髪が空気に触れて、少しだけ彼女の匂いがした。「今は、君の隣にいる」


「でも、本当はいないんじゃないかって、ときどき思う」


「へえ、どうして?」


「僕に見えているだけなんじゃないかな」


「見えているんなら、いるんだよ、きっと」リィルはまた正面を向いて、両手を後ろで組んだ。「見えているのなら、その人にとっては存在しているんだよ」


「それは、要するに、本当は存在しないかもしれないってことじゃないの?」


「どう受け取るかは君次第。私には解決できない問題だから、君の問題は君自身で解決して下さい」


「今日はやけに冷たいね」


「冷たい?」リィルは再びこちらを向き、僕を少し睨みつける。「これが優しさだって、分からない?」


「いや、分かるよ」


「じゃあ、余計なことは言わないで」リィルは言った。「女性に嫌われるよ」


「君は女性じゃないの?」


「どっちでもいいじゃん、そんなこと。そういう余計な分類をするから、大盛りのチャーシュー麺を食べられないんだよ」


 坂道を下った先にある喫茶店に、僕とリィルは入った。まだ建って間もない店だ。形状は立方体に近く、四つの壁面がすべて硝子張りになっている。屋根はそれっぽい形をしているが、やはり平面に近い造りになっている。


 ドアを開けて店内に入ると、空いていて、すぐに席に着くことができた。


「冷たい空気」リィルが呟く。「ソーラーパネルが欲しいくらい」


 店員にコーヒーを注文して、僕とリィルは向かい合って座った。注文したのは一杯だけだ。リィルは飲食をしない。


「出かけるって、これだけ?」


 正面に座るリィルが、凛々しい顔で僕に尋ねてきた。彼女は両手を組んで、その上に顎を載せている。


「うん、そうだけど」僕は答える。「まさか、遠出をするなんて思っていなかっただろう?」


「君の性質を考慮すれば、たしかに」


「うん、そうそう。よく分かっているね。感謝感激雨霰」


「私ね、火星に行きたい」ドレスを身につけているのに、何の躊躇いもなくリィルは脚を組んだ。「火星に行って、そこで武道会を開きたいんだ」


「武道会? 舞踏会じゃなくて?」


「うん、武道会」リィルは得意気に頷く。「昔ね、チャンバラごっこをして、それで、武道が好きになったの。それなりに練習したから、腕前もなかなかのものだよ」


「へえ。じゃあ、作法なんかにも詳しいわけだ」


「そうそう。まず、こう、向かい合って、礼をするでしょう」椅子から立ち上がって、リィルは本当に礼をする。「そしたら、左手をパーに、右手はグーにして、それを自分の前でぶつけて、その姿勢のまま、トリプルアクセルをするわけね。で、そのあと、腕をクロスさせて膝に持ってきて、そのまま、こう……、海外のエレベーターの扉みたいな感じで動かして……」


「いや、何の話?」


「だから、武道の話!」リィルは突然大きな声を出す。「ほんと、人の話を聞いていないなあ!」


「聞いているからこそ、問うているわけですけど」


「ほう。電子辞書で調べたんだな?」


「え、何を?」


「私の目は誤魔化せんぞ」


「コーヒーを飲むのに、胡椒は必要ないよ」


「ふふ、甘いな」


 店員がやって来て、立ち上がっているリィルをわざとらしく避けた。トレイの上に載っていたカップをソーサーごと僕の前に置いて、本日はキリマンジャロのブレンドでございます、と呟いた。ブレンドなのに、キリマンジャロのと付け加えるのは、どうしてだろうかと思ったが、僕がその疑問を口にする前に店員は立ち去ってしまった。


 リィルは、ようやく、大人しく自分の席に着く。僕はコーヒーを一口啜って、その一連の挙動を観察していた。


 完全の、完。


 感無量の、感。


 空き缶の、缶。


「さて、では」カップをソーサーに戻して、僕は口を開いた。「討論を始めようか」


「いいだろう」リィルは頷く。先ほどと同じように手を組み、彼女は僕を見た。


「まずは、言語学的なパースペクティブから見た、インタラクティブなマウスポインタについてだけど、これに関して何か意見はあるかな?」


 僕がそう尋ねると、リィルは腕を組み直して暫く黙った。まだ何も考えていなかったようだ。


「運用論的に考えれば、まるで意味がないね」人差し指をぴんと立てて、リィルは答える。「その観点から考えると、人の会話というものは、表層的な意味と、深層的な意味が、噛み合っていない、ということになるのではないかな、ワトソン君」


「なるほど」僕は頷く。「しかし、噛み合っていないというのは、少し違う気がするね。表層的な意味と、深層的な意味は、噛み合ってはいるんだ。たとえば、『今日は暇?』という疑問文は、『今日は一緒に何かできるか?』ということを尋ねている。『あなたは異星人ですか?』とか、『コーヒーの色は何色ですか?』という意味で受け取られることはない。つまり、何らかの繋がりがあることは確かなんだ。そういう意味で、表層的な意味と、深層的な意味は、必ず何らかの繋がりを持っている」


「うーん、そうかあ」急にもとの口調に戻って、リィルはうんうんと頷く。「たしかにねえ……。じゃあ、その繋がりに規則性を求めればいいのかな?」


「規則性ね……。……うん、まあ、方向性としては間違えていないだろうけど、たぶん、確固とした規則なんてものは、見つからないだろうね」


「じゃあ、どうするのが得策?」


「一対一の対応を求めるんじゃなくて、もう少し幅のある対応を求める」


「なるほど。プロトタイプってことだね」


「うん、そう。まあ、呼び方は何でもいいけど」


 注文していないケーキが運ばれてきて、僕の前に置かれた。これは何かと店員に尋ねると、サービスだと言われた。ケーキを食べる気などなかったが、店員の笑顔があまりにも眩しかったから、僕は断ることができなかった。仕方なくフォークを持って、ケーキを切って口に運ぶ。生クリームとイチゴとスポンジの味がして、ああ、今、生クリームとイチゴとスポンジを食べているな、と思った。


「じゃあ、『今日は暇?』という疑問文が示す、その深層的な意味のプロトタイプを考えるわけだけど……。どう考えるのがいいかな?」


 リィルに問われて、フォークを持った手を軽く振りながら、僕は答える。


「おそらく、一発で答えを出すのは難しいから……。……うん、そうだね、ここはやっぱり、一つ一つ例を挙げていくしかないかな」


「とりあえず例を挙げていって、あとから、どれがプロトタイプとして相応しいか、判断するということ?」


「そうそう。そして、できれば、プロトタイプと、その周辺にあるものを俯瞰的に眺めて、ある程度の共通性を見出すことができたら、満点だね」


「ほう、よかろう」リィルは頷く。「任せなさい」


「いやいや、討論なんだから、僕も参加するよ」


 ケーキは喉を通って、僕の胃の中へと入っていった。僕の喉を通ったのに、リィルの胃の中へと入ったら愉快だが、現時点での物理学の観点から考えると、そういうことは起こらないみたいだ。テレポーテーションのようなものを想定しているわけだが、まだ実際にそれができる技術は生み出されていない。技術とは、この世界に初めから存在するルールを、どのように用いるか、ということだが、そもそもの問題として、テレポーテーションを可能にするルールが、この世界に存在するかどうか分からない。存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。


「よし、じゃあ、まず、例を挙げてみよう」ケーキをすべて食べ終わってから、僕は言った。「では、ホームズ君。何か意見はあるかな?」


「ワトソンが、ホームズに、ホームズ君なんて言わないでしょう、普通」リィルは反応する。


「じゃあ、ホームズ先生、何か意見はありますかな?」


「うむ、そうだな……」リィルはまた腕を組む。「『今日は暇?』だから……」


 コーヒーを飲んで、僕はリィルの返答を待つ。僕も色々と考えていたので、彼女の考えと自分の考えを照らし合わることにした。


「まず、典型的な例として、さっき君が挙げた、『今日は一緒に何かできるか?』というのが挙げられるよね、まず」


「うんの、うん」


「次に考えられるのは……」一方の腕を持ち上げて、リィルは自分の顎に触れる。「うーん、なんだろう……。……なんか、全然思いつかないんだけど……」


「相手がいつも忙しい人間で、労るつもりで言っている、というのも考えられるよね」僕は自分の意見を述べる。「今日は暇なの? へえ、よかったじゃん、という意味で言っているってこと。一緒に何かやろうという誘いかけで言っているんじゃなくて、相手に暇だという事実を再確認させることで、現状を明らかにするというか……」


「なるほどなるほど」リィルは頷く。「そっかあ……」


「ほかには、何か思いつく?」


 僕が尋ねると、リィルは天井に目を向けた。


「うーん、何かなあ……。なんか、それ以上ないような気がするんだけど……」


 僕とリィルは黙って、暫く内省を続けた。内省は、ブレインストーミング、とも言われる。ブレインストーミングでは、複数の人間が自由に意見を出し合うのだが、個人の場合でも適用できる。自分の中に複数の自分がいるイメージだ。


 頭の上で回るプロペラが、何周するか、なんとなく数える。ものを数えると、気分が落ち着く。集中すべきことができるから、精神統一に繋がるのだろう。何もしないでただ集中しようとするよりは、別のことでも集中できるものを持ってきて集中しようとする方が効果的だ。


「うん、たしかに、これ以上はないかな」僕は言った。「つまり、最初の問いが悪かったんだ」


「そんなに簡単に諦めていいの?」


「いや、諦めるも何も、そういうものだったわけだから……」


「駄目だよ、そんなの。私のプライドが許さない」


「そういう問題じゃないよ。もう少し、客観的に見る努力をしたら?」


「見ていますよ、もちろん。ええ、ちゃんと、見ていますとも」


「見られていないよ。きちんと自己認識する癖をつけた方がいい」


「何の話をしているの? 私、そんな馬鹿なことを話していられるほど、暇じゃないんだけど」


「え? いや、それこそ何の話?」


「御伽草子なんだから!」リィルは勢い良く立ち上がる。振動でテーブルの上のカップが揺れた。「なんでそんなことも分からないの?」


 僕は口を開けたままリィルを見上げる。状況に頭がついていかなかった。


 とりあえず、僕はリィルに座るように促す。彼女が席に着くのを待ってから、僕は口を開いた。


「つまりね、これは、例文そのものがプロトタイプだったんだよ」僕は言った。「『今日は暇?』という疑問文自体が、プロトタイプだったんだ。つまり、表層的な意味と、深層的な意味の、両方を持ち合わせていない文だった。これだけでは深層的な意味を推測できない。そもそも、深層的な意味なんてないんだ。『今日は暇?』と訊かれたら、暇か、そうでないかを答えるしかない。その裏を読もうとしちゃいけないんだ」


「何それ。そんなのあり?」


「ありだと思えば、ありだ」僕は言った。「すべては捉え方による」


「ずるいじゃん、そんなの。じゃあ、今まで、何を考えてきたの? 無駄な時間を過ごしたわけ?」


「そういうのを、サンクコストっていうんだよ。仕方がないんだ。戻ってこないから、初めからなかったものとして扱うしかない」


「馬鹿なこと言わないで」そう言って、リィルは僕を睨みつける。


「馬鹿じゃない。真剣に言っているんだよ」


「それのどこが真剣だっていうの?」


 リィルの両方の目の端が、きらきらと光り出す。それは軌跡を伴って頰を伝い、やがてテーブルの上に零れた。厚みのある曲面が照明の光を反射して輝く。


「私が、この議題について考えるために使ったエネルギーが、無駄だったっていうの?

君のために巡らせた思考が、すべて意味のないものだったっていうの?」


「そんなことは言っていない」


「言ったじゃん、今!」


「まあ、言ったけど……」


「ほら!」


「うん」


「いっつもそうなんだから!」


 空間が、切り取られて、僕と彼女だけのものに、変動する。


 いつか、感じたのと、同じ痛みが、僕の胸を突く。


 そこから、体液が滲み出すように、じわじわと、気持ちの悪い感触が、内側から外側へと広がっていく。


 リィルは椅子から立ち上がると、さよならと言って、僕の前から立ち去った。


 沈没船。


 カップの持ち手に手を伸ばす。指が震えて、上手く輪っかに通せなかった。カップとソーサーが小刻みに触れて音を立てる。液体がカップの縁に何度も当たって、振動を繰り返して増幅する。


 店員がやって来て、お客様、お会計をお願いします、と言ってきた。


 気がつくと、僕はレジの前に立っていた。


 財布から、適当に、五百円玉を三つ取り出して、店員に差し出す。


 お釣りを受け取る前に店の外に出て、背後で鳴る鐘の音を聞いた。


 表層的な意味と、深層的な意味で、どちらが真の意味かと問われたら、多くの人間が深層的な意味だと答えるだろう。その方が自分の精神を保つうえで安全だからだ。もし表層的な意味がすべてだったら、世界はもの凄くシンプルだが、そこに感情や意図や気持ちが割り込む余地はなくなる。背中を叩くことが、暴力として処理される。誰かを引き留めようと腕を掴むことが、犯罪になる。


 僕は……。


 僕という存在に、深層的な意味、真の意味など、あるのだろうか?


 本当は、表層的な意味しかないのではないか?


 深層的な意味があるように、見せかけているだけではないのか?


 モールス信号を使って、誰かに呼びかける。


 トントントン ツーツーツー トントントン


 でも、それは、単なる音でしかない。


 音の連続。


 空を見上げると、すっかり暗くなっていた。


 夕焼けを、見逃した。


 脚の力が抜けて、僕はその場に座り込む。


 目の前に、地面。並ぶ小石たち。


 唐突に、顔の前に手が差し出されて、僕は上を見る。


 人形のような少女が、小首を傾げて、笑っていた。


「何、へこたれているの?」リィルがいつもの声で言った。「まだ、これからだよ。帰って仕事の続きをしないと」


 空が、一瞬だけ、赤く染まる。


 意識。


 烈々。

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