Dream Per Second

羽上帆樽

第1章 調査しますか?

 感覚が鈍くなる。


 目を開く。


 浮かび上がる顔。


「大丈夫?」


 人形のような少女が、僕のことを覗き込んでいる。


「どうしたの?」


 もう一度、声が聞こえてくる。


 僕は身体を持ち上げ、手を額に当てて首を捻る。


 関節が稼働する音が聞こえる。


「うん、どうやら、眠っていたようだ」僕は小さな声で呟く。


「どうして、眠っていたの?」


「え? どうしてって……」僕は考える素振りをする。「きっと、眠たかったからじゃないかな」


「まだ、朝だよ」


「いや、今起きたんだ。だからこれまでは夜だったはずだ」


「うん、いつも通りで、よかったよ」


「何?」


 テーブルの上には大量の紙が載っている。窓から風が吹き込んできたら、飛ばされてしまいそうだ、と僕は考える。


「早く、仕事をしないと」人形のような少女が話す。「また、遊ぶ時間がなくなっちゃうよ」


「うん……」僕は立ち上がり、依然として額に手を当てたまま、なんとなく答える。「時間は存在しないから、平気だよ」


「今は冗談を言う場面じゃない」


「では、何をする場面?」


「だから、仕事」


 隣接するキッチンに入って、僕は冷蔵庫の前で静止する。


 それから、さて、それでは、そろそろ、いつもの調子に戻ろう、と思った。


 先述した通り、僕はどうやら眠っていたようだ。いつから眠っていたのかと訊かれれば、昨晩からと答えるのが適切だろうが、正直なところ、僕には自分がいつから意識を失っていたのか分からなかった。それはいつだってそうだ。眠る瞬間は知覚できない。たぶん、死ぬときも同じだろう。自分の死は自分では認識できないからこそ、死はいつも魅力的に映る。


 冷蔵庫の扉を開けて牛乳を取り出し、コップに注いで一口飲んだ。完全には飲み干さずにリビングに戻り、少女の傍までやって来る。


「どう? そろそろ、頭、回ってきた?」


 小首を傾げて、少女が僕に尋ねてきた。


「うん、大分」僕は答える。「でも、これからまた回らなくなるかもしれないから、そのときは、よろしく」


 僕がそう言うと、少女は左手の人差し指と親指を繋げて、オーケーサインを作った。


 少女は、いつも僕の傍にいる者で、名前をリィルという。いつも傍にいるということは、親しい間柄にあるということだが、親しい間柄というのがどこまでを指すのかについて、僕はあまり議論したくなかった。とにかく、彼女は僕の傍にいるのだ。その関係に如何なるネーミングを施すかは、受け取る側に任せれば良いだろう。


 そう……。


 低速だがようやく回り始めた頭で、僕は自分が今何をしなくてはならないのかを思い出す。


 僕たちは、現在、古文書の解析を行っているところだった。テーブルの上に並べられた資料は、すべてその対象だ。古文書というと、古びた資料の数々、といった感じがするが、手もとにある書物は、それほど年季が入ったものではなかった。けれど、扱いは一応古文書ということになっている。


 それらを解析することに、具体的な目標はなかった。ただ、そこに登場する文字、あるいは、もう少し規模を大きくして文章を眺め、珍しいものに出会ったら、それを記録するというだけだ。なんだかよく分からない作業だが、僕も、初めて仕事の内容を聞いたときは、同様の感想を抱いたから、その感覚は間違っていない。


 僕の本業は翻訳家だが、それだけでは食い繋いでいくのが難しいので、ときどき、こんなふうにアルバイトをすることにしている。それで、今回手もとに飛び込んできたのが、この仕事だったというわけだ。


「で、昨日は、どこまで進めたんだっけ……」


 僕が手もとにある紙を一枚手に取って確認すると、テーブルの上にだらっと身を預けていたリィルが、素早く身を起こして、首を捻った。


「さあ、もう、分かんない」


「分からない? 記録、していなかったっけ?」


「したけど、分からん」


 僕はリィルから顔を逸らし、一言呟く。


「あそう。じゃあ、最初からやろう」


 この仕事にゴールはない。最初から最後まで通して進めて、すべて完走したら終わり、というものではない。ただ、謎をいくつか見つけて、それを解決すれば良い。完全にこなすことではなく、何らかの成果が一つでも得られることが重要なのだ。少なくとも、依頼主はそう考えているようで、僕も適当な人間だから、助かるといえば助かった。


 古文書は、ルーペを使って見ていく。大きい文字を見るときはそんなことをする必要はないが、少なくとも、リィルはいつもルーペを用いている。たぶん、そうした方がやっている感があるからだろう。訊かなくても僕には分かった。彼女は、実際にやることではなく、やっている感があることを重視する。結婚しているという事実があることが大事なのではない。結婚している感があることの方が大事なのだろう。


「で、何か、新しい発見はあった?」


 自分のルーペを使って古文書を繙きながら、僕はリィルに尋ねる。


「いやあ、何も?」


 リィルは澄ました顔で答えた。


「何か、見つけられるといいね、仕事としては」


「うん、そうね」


「いや、そうね、じゃなくてね」


「まさか、私に期待しているわけじゃないよね?」


「しているよ、大いに」


「他人に頼る前に、まずは自分からやりなさいって、教わらなかった?」


「誰に? 仏様?」


「サンタクロースがいるなんて信じていたら、駄目だからね」リィルはつんとした態度をとる。「近頃の若者は、味噌汁に赤出汁を使うことすら許してくれないんだから。田舎で修行してきた身としては、これ以上ないくらい疑問でしかないって言うか、なんというか……」


「口の前に、手を動かすんだ、リィル」


「名前、呼んでくれるなんて、珍しいじゃん」彼女は僕を見る。「あ、さては何かいいことがあったな?」


 リィルがこちらに寄って、体重を思い切り預けてきたので、僕はそれを軽く押し退けた。でも、彼女は飛び交う蝿のように簡単には退散してくれない。ときどき強烈に粘着質になって、ネオジウム磁石のように磁力を生じさせる。


「離れてくれないかな」僕は言った。


「ううん、やだ」リィルは応じない。「だって、面倒だし、そういうの」


「いや、君の方が、面倒」


「なんだって!?」


 そう言って、リィルは僕の腕をひったくる。


「分かった分かった。はいはい。うん、そうだね、そうそう……」


「何が分かったって言うの!?」


「もう、そういうの、お腹いっぱいだから」先ほどよりも幾分勢いをつけて、僕はリィルを押し退ける。「そういうのがやりたいなら、外でやりなさい」


「はああ、退屈だなあ」僕から離れて、リィルはそのまま床に寝転がる。「仕事ってつまらないんだなあ……」


「うん、だって、仕事だから」


「仕事って、なんだろう」


「押すと動くってこと」


 リィルを無視して、僕は自分の作業を進める。


 古文書というのは、ここでは本の形をしているものだけを示さない。紙一枚でも古文書だ。書という字が使われているからといって、本だとは限らない。証明書とか、報告書にも書という字は使われているが、それらは本の形をしていない。


 手もとの紙から目を横に向けて、僕はリィルを見る。


 彼女の何が人形のように感じさせるのだろう、と内省してみたが、内省するまでもなく、まず外見が人形っぽいのだということに僕は気がついた。そう、一言で言えば、彼女は人形のように綺麗なのだ。これを公の場で口にしたら、口説き文句として捉えられるだろうが、僕は口説き文句を口にしなければ、皮肉も口にしない。綺麗というのは率直な感想だ。たとえば、青空を見たら誰だって綺麗だと思うだろう。その感覚と同じだ。空が綺麗だと口にすることが、神様への口説きだと理解する者はいない。


 リィルは、綺麗だ。


 整っている。


 バランスがとれている。


 均衡している……。


 どんな表現を使っても上手く形容できないことは明らかだが、でも、とにかく、リィルは綺麗だと、僕はそう感じるのだ。その綺麗さが人形じみたニュアンスを生じさせている。彼女を見ると人形みたいだと感じるのは、やはり外見に起因する面が大きいだろう。


「起き上がって、仕事をして下さい」


 僕はリィルに告げる。


「ええ……」


 目を閉じて、リィルは寝転がり続ける。


「いいから、起きて」


 片方の手は紙を持ったまま、もう片方の手で彼女の腕を掴んで、僕はそれを何度か上下に動かす。


「うーん、なんだか、そのリズム、いいかも」


「早く、起き上がって」


「あと、五秒だけ……」


「早く」


「はあい……」


 リィルは起きがって、自分の持ち場に戻る。僕の隣に座って、ゆっくりと紙に手を伸ばす。


 挙動も、人形味を感じさせる要因になっていると、僕は先ほどの考察の続きをする。形だけでは駄目なのだ。その形を伴った彼女が、機構を駆動させて動かなくてはならない。でも、人形は動かない。人形には駆動するための機構がない。それは、すなわち機能の欠落といえる。


 そうすると……。


 ……機能を付加されることが、却って彼女に人形味を与えている?


 ……なるほど、面白い考察だと、僕は自分を褒め称える。


 手もとには紙があって、目は文字を追っているのに、頭では別のことを考えている。不思議ではあるが、もう慣れた感覚だった。その感覚はずっと昔から僕の中にある。いや、あった。それとも、あっていた……?


 ……まだ、頭が回っていないのかもしれない?


 ……。


 ……?


 ……ここはどこだろう?


 ……いや、今はそちらの方向に進むべきではない。


 隣に視線を向けると、リィルがルーペを使って文字を追っていた。まるで探偵になったみたいだ。彼女が探偵だとすると、僕は助手か。彼女の助手というのはなんだか違和感があったが、まあ悪くはないと思った。女性の探偵というのもなかなか格好良い。そして、男性の助手という組み合わせ。世間ではジェンダーがどうのこうのと騒がれているから、この関係なら世に示す価値があるかもしれない。


「同じ文字をずっと見ていると、だんだんそれが何か分からなくなってくることって、ある?」


 唐突にリィルに問われて、僕は彼女の方を向いた。リィルも僕のことを見ていて、そんなはずはないのに、なんだか久し振りに目が合った気がした。


「ある」僕は端的に答える。


「なんか、困る」リィルは言った。「意味って、不思議」


「不思議?」


「いつもそこにあるのに、ふとした瞬間になくなる」


「たしかに、そうだね」僕は素直に頷いた。「僕と君の関係もそうだと思うよ。今は二人の間に確固とした意味があるけど、それがいつまでもあり続ける保証なんてないからね。その意味が消えたら、どうして、今まで、こんなに長い間ずっと一緒にいたんだろうって思うんじゃないかな」


「何それ。別れる予定があるってこと?」


「今のところはない」


「何、今のところって」


 再び手もとから顔を上げてリィルを見ると、彼女は僅かに目を細くして僕を睨んでいた。

「怒った?」


「いや」僕が尋ねると、リィルはそっぽを向く。それなりの確率でお目にかかれる反応だ。

「でも、図星だろう?」


「図星なのが、嫌だ」


「事実を目にするのが嫌い?」


「ブラックホール」


 僕は仕事を再開する。



〈   〉、存在するのか?



 手もとの紙面には、「鯉幟 砕けて早々 取り替える」との一文があった。これを読んでも僕は何も感じなかったが、何も感じない自分に多少驚いた。大抵の場合、こういうものを見ると、僕の顔は知らず知らずの内に綻んでしまう。しかし今はそれがなかった。


 なぜだろう?


 答えを導き出すことはできるが、それには意味がない、と自己解決。


 判断を保留する。


 鯉幟という言葉は知っているが、僕はそれを見たことはなかった。たしか、特定の季節に玄関先に吊るされる、魚のモニュメントだったはずだ。それを吊るすことにどういう意味があるのかは分からないが、形を示すということは、おそらく何かの儀式のつもりなのだろう。どうして鯉が選ばれたのかも分からない。もしかすると、意味はないのかもしれない。そう、コーヒーにカフェインが含まれていることに、特別な意味などないように。


 鯉幟がどんな素材で作られたものなのか分からないので、残念ながら、僕にはそれが砕ける性質を持っているのかどうか、判断はできなかった。ただ、棒のようなものに吊るすのだから、あまり重量はないだろう。そうすると、紙か、あるいは布の類で作られていると考えられる。しかし、そうなると、紙や布は砕けないから、この文の解釈に支障を来すことになる。


 「取り替える」の前に「早々」とあるが、これが「砕けて」にかかっているのか、それとも「取り替える」にかかっているのかも明らかではない。結論からいえば、どちらかに絞ることはできない。どちらか一方にかかるのかもしれないし、どちらにもかかるのかもしれない。そもそも、これは単なる文ではなく、詩の類だから、文法的な側面にだけフォーカスするのも良くないだろう。韻を踏むために「早々」をこの位置に置きたかったのかもしれないし、はたまた、韻を踏むためだけに「早々」を使ったのかもしれない。


「何、見ているの?」


 僕が手もとの紙を凝視していると、リィルが隣から覗き込んできた。


「これ」僕は見ていた箇所を指で示す。「この詩が気になるなと思って」


 リィルは紙に顔を近づける。


「これ、詩じゃないよ。たぶん歌だと思う」


「歌?」僕はリィルを見る。彼女もこちらを見た。


「そう、歌」


「詩と歌って、何が違うの?」


 僕が尋ねると、リィルは一瞬目を大きく開いて、天井の方に視線を向けた。


「何が違うって、そりゃあ……」


 暫くの間、彼女はそのポーズのまま固まってしまう。僕も一緒に固まったから、傍から見れば、ビデオの一時停止のように映るだろうと思った。


「うん、まあ、ちょっと違うんだよ、ちょっと」


 最終的に、リィルはそう結論づけた。


「ちょっとって、どのくらい?」僕は尋ねる。


「だから、ちょっとはちょっとだって」


 僕は手もとの紙に目を戻し、もう一度詩を眺める。


 この詩に限った話ではなく、この資料の文章には所々かおかしいところがあった。具体的にどうおかしいのかと問われても、答えるのに少し戸惑ってしまうが、とにかく、文章を読んで受ける印象が妙なのだ。内容が区切れているわけでもないところに読点が打たれていたり、語尾に統一感がなかったりするのが原因かもしれない。と、ふとそう思ったのだが、そうした特徴が各所に表れているわけでもないから、文章全体を読んで受ける妙な印象が、それらの要素に起因していると結論づけるのは、幾分尚早なように思えた。


「はああ」


 隣からリィルの声が聞こえる。


 僕は一瞬だけ彼女を見て、すぐにまた視線を戻す。


「これ、いつまで続けるつもり?」


 彼女の質問を受けて少し考えたが、途中で頭を回すのを中断して、口を動かすだけのエネルギーを使って僕は答えた。


「さあ……。何か面白い発見があるまでだと思うけど……」


「面白い発見って、何?」床に倒していた身体を上げて、リィルはこちらを見る。「最近、何か面白い発見ってあった?」


「あった」


「どんな?」


「なんか、布団の中で焼き蕎麦を作るやつ」


「え?」


「狂言だよ。気にしないでほしい」


「あああ……。飛行機に乗って、どこか遠くへ行きたいなあ」


 リィルの言葉を聞いて、僕は思わず笑ってしまった。


「どこか遠くって、どこへ?」


「うーん、どこかなあ……」リィルは首を傾げる。彼女の身振りは大抵大胆だ。「たぶん、南の島とか、海の果てとか、そういう所を想定しているんだと思う」


「海の果てなんてないよ」


「なんで分かるわけ? ちゃんと見てきてから言っているの、そういうこと」


「いや、見ていないけど」


「じゃあ、分からないじゃん」


「うん」首を動かすだけのエネルギーを使って、僕は頷く。「そうだね」


「あああ……。こうしている間にも時間は過ぎて、私、確実におばあさんになっているんだろうなあ……」


「いいじゃないか。おばさんになるよりはましだよ」


「ましじゃないし」


「し?」


「ましじゃないから」


「から?」


「ましじゃないです」


「はい」僕は頷く。「そうですね」


 彼女が言った通り、この作業がいつ終わりを迎えるかは、今のところ分からない。ただ、何らかの成果が得られないと仕事にならないから、何かを見つけなくてはならない。これは宝探しとは違って、見つけるべき対象が分かっているわけではないから、少々険しい道のりになる。


「まあ、あれだよ、あれ」片方の手を振って僕は呟いた。「うん、そう、あれ……」


「何、あれって……。記憶喪失?」


「記憶喪失って、何だっけ?」


「あれって何?」


「うん、だから……」僕はリィルを見る。「とりあえず、手を動かしなさい、ということだよ」


「動かすだけならできるよ」そう言って、リィルは蜘蛛のように指を動かす。「ほーら、ほら。よく動くでしょう?」


「うん」


「感動した?」


「したね、割と」


 やがてリィルも作業を再開して、僕たちは三時間近く作業を続けた。そして、もちろん、何の成果も得られなかった。それは予想していたことだ。何の成果も得られないと分かっているのに、三時間も作業を続けられるのは、そちらの方向に進むこと自体は間違えていないという感覚があるからだ。我々は意味もないのに行動したりしない。


 キッチンに行って、カップに牛乳を注ぐ。三時間前に使って、そのままカップを放置していたが、洗うのが面倒だったので、僕はそのまま追加の牛乳を注いだ。


「やっぱり、何もなかった……」


 リビングに戻ると、リィルがまた寝転がっていた。彼女はよく寝たり起きたりを繰り返す。反復運動が利用できる場面は限られているから、彼女のその性質を活かせる機会が来るのを願うのは、馬鹿かもしれない。


「ま、午後も頑張ろう」彼女の隣に座って僕は言った。「頑張るって、変な言葉だね」


「うーん。一生、このまま寝転がっていたい」


「ふうん」


「気のない返事」


「僕には、いつも気なんてないから」


「あそう」


「気のない返事」


「でしょう?」


 料理をする気になれなかったので、適当に食パンを一枚だけ食べて、僕は昼食を終えた。ちなみに、リィルは食事をしない。しなくても良い身体なのだ。しなくても良い身体というのは、まったく説明になっていないが、しないという性質を帯びていると解釈すれば、理解は難しくない。何しろ、同様の手口が数学でも使われているのだ。マイナスの数字がどんなものか分からなくても、とにかく、マイナスという性質を帯びているのだと理解するようにと、教育の場では教えられる。


 午前中に解析を済ませた資料は纏めておいて、僕たちは次の資料に当たった。一枚の紙のものがまだ沢山あるので、それらから処理していくことにする。本の形をしているものは大変なので、後回しにすることにした。


 文字レベルで見るのか、文レベルで見るのか、はたまた文章全体としての内容レベルで見るかによって、発見の種類が異なるが、とりあえず、僕は文レベルでの発見を期待していた。明確な理由はないが、そのレベルが真ん中に位置していて、中庸的な立場をとれると考えたからだ。


 リィルに尋ねてみると、彼女は文字レベルで資料を見ているとのことだった。


「だって、その方が、面白そうじゃん」リィルは答える。


「まあ、君にとってはね」僕は応じた。「で、どういうところが面白そうだと感じるの?」


「なんか、記号って、見ているだけで面白い」リィルは説明した。「どうしてこういう形をしているのかって考えるのが、面白いんだよ。なんかさ、どこか遠くの、……たとえば、ピラミッドの壁面に書かれている文字とか、見ているだけで不思議な気持ちにならない? あとさ、形としても格好良いし。だからそういうのがいいなあって思って……」


「でも、それがこの場でも通じるとは、限らないよ」


「いいじゃん、別に、そんなの。こっちが楽しくないなら、やる意味なんてないし」


「何をやるにしても、楽しもうと思えば楽しめると思うけどね」


「そういう人は、それでいいんじゃない?」リィルは笑いながら話す。「私は、自分が興味がある方に向かって、進んでいきます」


「なるほど。頑張って」


「言われなくても、頑張る所存です」


 沈黙して、僕もリィルも作業に戻る。


 ふと顔を上げて窓の外を見ると、空が暗くなってきていた。まだ日が暮れるような時間ではないから、雨が降るのかもしれない。ただ、今日は洗濯物は干していなかったから、降られてもどうということはなかった。僕は日差しが嫌いなので、むしろ少しくらい雨に降ってもらって、この明るすぎる空間にベールをかけてほしいと願った。


 紙は、何でできているのだろう、と考える。


 もちろん、頭は目の前の作業に集中している。一つのことを考えながら、もう一つのことを考えているのだ。


 昔は、紙は木からできていると言われていた。けれど、今はどうなのか分からない。


 コーヒーは、本当にコーヒー豆からできているのだろうか。コーヒー豆を構成する物質を、人工的に同様の比率で混ぜ合わせれば、コーヒーと同じ味がするものが出来上がるのではないか。


 そう……。


 そんなふうに、自分の身体を作る物質も、気がつかない内に、昔と今とでは変わっているかもしれない。あまり想像したことはないが、変わっていても気がつかないはずだ。少なくとも、細胞は一定の期間で入れ替わっているから、そういう意味では自分は常に新しい自分へと生まれ変わっているといえる。


 生まれ変わっている……。


 僕にしては、なかなかポジティブな表現だな、と思った。いつもなら、新しい自分が生まれるのではなく、古い自分が消えていく方にフォーカスするはずだ。


 そういう意味でも、自分は生まれ変わったのか?


 また、この、感覚、だ。


 僕は、ときどき、自分が、自分でなくなる感覚に、陥る。


 僕の、隣に、座っている彼女は、どうだろうか?


 自分が、誰か、常に、把握しているだろうか?


「何、ぼやっとしているの?」


 隣から腕が伸びてきて、僕の肩を軽く揺すった。目を向けると、リィルが何気ない笑顔で僕を見ていた。


「うん、ちょっと、考え事」僕は上の空で答える。「すぐに治まるから、心配しなくていいよ」


「また、それ?」


「君には、それが何か理解できないだろう?」


「同一のグループに分類されていないだけかもしれないよ」


 リィルの言葉を聞いて、僕はなるほどと思った。


「そうかもしれない」


 いつの間にか他方に支配されていた頭を再稼働させて、僕は作業を進める。


 次の一枚を手に取って、僕は口を開いた。


「僕と、君は、対等な関係だよね?」


 僕の言葉を聞いて、リィルが顔を上げる。


「急に、どうしたの?」


「いや、なんとなく」僕は応える。「そうなんじゃないかな、と思って」


「そうだと思うけど」


「なるほど」僕は頷き、少し口もとを持ち上げた。「先ほどの例は、全然いい例ではなかった」

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