第4章 遊泳しますか?
電車を乗り継いで、僕とリィルはアクアリウムに出かけた。アクアリウムは水族館と訳されるが、アクアリウムと口にするのと、水族館と口にするのでは、話者の気持ちが少々異なる。というわけで、僕たちは水族館に出かけたのではない。僕と、リィルは、アクアリウムに出かけたのだ。
電車に乗る機会が最近は多いから、乗っても大した感動はなかった。歴史を感じさせる重厚な造りでもないし、至るところに人工的な雰囲気があって、はっきりいって僕の趣味には合わなかった。座席もボックス席ではなく横並びのものだし、それでリィルと隣り合って座れたのは嬉しかったが、旅をしている感覚が薄く、物足りない感じがした。
電車を下りて徒歩三分の距離に、目的地のアクアリウムはあった。携帯端末で開いた地図に「徒歩三分」と書いてあったから、到着するまでの時間を計測してみたら、本当に三分で着いたから驚きだ。誤差は僅か二秒。こうした表記は感覚的なものだと思っていたが、案外正確なことを知って、僕は感心した。少なくとも、あの人工的な電車よりは素晴らしいと思った。
今日は休日で、アクアリウムも閉館日だったが、特別に開けてもらった。簡単にいえば、コネを使ったのだ。一応、僕とリィルは仕事をするためにここに来ている。仕事というのは、あの例の古文書の解析作業にほかならない。空白に当て嵌まる言葉を探すために、わざわざここまで足を運んだのだ。
アクアリウムは宇宙船のような構造になっていた。つまり、縦に長いのではなく、横に長い。縦に長いのはスペースシャトルだ。宇宙船イコールスペースシャトルではない。
SFチックな扉の先にゲートがあって、普通はチケットを購入してそこを通らなくてはならないが、僕たちは特別に無料で通してもらえることになっていた。無料という言葉に僕はあまり反応しないが、リィルはそれなりに反応する。じゃがいもにヨウ素液を垂らしたくらいの感度だから、それなりにという形容では間に合わないかもしれない。昨日の晩も、コネを回してもらった企業から無料だという知らせが来たとき、彼女は「無料だってよ! 無料!」と言って小躍りをしていた。
「だってさあ、無料なんだよ、無料」そして、館内に入って、待ち合わせ相手を待っているときも、リィルは同じことを言っていた。「無料って、分かる? 料金を払わなくていいってことだよ。つまり、こちらの懐から金銭を支払わなくていいってこと。ね? 凄いでしょう? 生きているって感じでしょう?」
「僕は、きちんとお金を払った方が、生きているって感じがするけど」
「それは君が真面目すぎるからだって。世の中そんなに甘くないよ」
「世の中そんなに甘くない、の意味が分からないけど」僕は笑いながら話す。「世の中って食べられるものなの?」
「お魚さん、見たいなあ」
「すぐに見られるよ」
僕がそう言うのを待っていたかのように、ゲートの向こうから人がやって来て、手を上げて軽く挨拶をした。僕とリィルもそれに応じる。相手は背の高い男性で、何かスポーツをやっているように重量のある歩き方だった。服装も半袖に半ズボンと随分とラフだ。僕とリィルは割とフォーマルな格好をしていたので、場の空気がわちゃわちゃしないかと心配になったが、相手は気さくな人柄で、気を遣うことなく会話することができた。
「館内には、ほかに客はおりませんので、どうぞ自由に歩き回って下さい」男性は上品な口調で言った。彼はこのアクアリウムの館長を務めているそうだ。「従業員は何人かいますが、お気になさらず。どいつも、趣味で働いているようなものですからね。何か訊きたいことがあったら、彼らに尋ねるといいでしょう」
「あの」リィルが一歩前に出て、男性に質問する。「今日は、無料で見学させて頂けるということでいいんですよね?」
僕はリィルの頭を叩いてやろうかと思ったが、男性は笑顔で彼女の質問に答えてくれた。
「ええ、もちろんです。お陰様で、赤字経営でもないですし、どうぞ、心ゆくまで、水生生物と戯れ合って下さい」
「あの、僕たちは……」一応確認しておこうと思って、僕は口を開く。
「ああ、ええ、そうでしたね。あなた方は、何か探し物があってここへ来たとか……。たしか、文献関連の仕事でしたね?」
「ええ、そうです。なので、ここの本来の趣旨とは違うことをしてしまうと思いますが……」
「問題ありません。頭を使うには良い環境だと思って、好きなように行動して下さい」
それだけ言うと、事務作業があると言って、男性はその場から立ち去った。僕とリィルは彼から特別なパスを受け取って、館内へ入れることになった。閉館までは自由に出入りして良いらしい。ただ、今日はそもそも開館日ではないから、初めから閉館の概念はない。
「お魚さん、じゅるり」
ゲートを通って先に進んだタイミングで、リィルが呟いた。
「え?」
「いや、何でもない」リィルは横目で僕を見る。「あ、私さ、イルカが見たいんだけど、いるかな?」
「それ、駄洒落?」
「駄洒落を言うやつは、誰じゃ」
「ご機嫌だね。その調子で仕事も頑張ってくれると、助かるんだけど」
「助かるのは君であって、私ではないのだよ、ワトソン君」
「うん、そうだね」僕は適当に頷く。「とりあえず、まずは仕事からだ。せっかくいい環境を与えてもらったんだから、有効活用しないとね」
「え? それって、まさか、お魚さんたちを見るのは、後回しってこと?」
「当たり前じゃないか。まずは探し物をしないと。このアクアリウムだって、一つの候補地なんだから」
「いやいや、お魚さんと戯れる方が先でしょう。私はそうしたいです」
「駄目だよ、そんなの」僕は一度立ち止まって、リィルを説得する。「いいから、君は僕のあとをついてくるんだ。迷子になられたら困るから。こんなに広い場所で、当てもなく歩き回るなんて嫌だからね」
「イルカが先がいい」
「だから……」
「君だって、イルカが見たいでしょう?」
危ないところを突かれたが、僕は平静を装って話し続けた。
「いいから、まずは、探し物からだ」
僕とリィルは館内を先へと進んでいく。館内はずっと暗くて、それまで明るい場所にいた僕は、慣れるのに暫く時間がかかりそうだった。一方で、リィルは、暗闇の中でも、明るい場所と同じように周囲の状況を把握することができる。彼女にとっては、暗い場所も、明るい場所も、同じように「見える」のだ。
道を真っ直ぐ進むと、広間のような場所に到着した。手前から左右にスロープが続いていて、その先の平面のフロアで水槽を鑑賞できるようになっている。巨大な水槽が広間の全体を覆っていて、湾曲した硝子が幻想的な空間を作り上げていた。僕は、いつも、水族館に来ると不思議な感覚に陥る。それが、普段は目にしない巨大な水槽や、多量の水に誘発されるものではないことに今気がついた。僕が水族館に来て不思議な感覚を抱くのは、水槽の硝子が曲がっているからだ。ほかにも、天井や床、壁面が暗色に染まっていることも要因だろう。要するに、日頃まったく目にしないものを目にするからではなく、日頃目にしているもので、少し違っているものを目にすると、不思議だと感じるのだ。
「いや、凄いなあ、ほんとに」スロープの手前で立ち止まって、リィルが感想を述べた。
「凄いって、チープな感想だけど、本当に凄いときは、その言葉しか出てこないものだよね」僕は応じる。
「やっぱり、綺麗だなあ」
「綺麗って、チープな感想だけど、本当に綺麗なときは、その言葉しか出てこないものだよね」
リィルはこちらを向き、僕を睨む。
「分かったから、目の前の光景に集中しようよ」
「しているよ」僕は反論する。「というか、鑑賞よりも探し物が先だって、言わなかったっけ?」
「私、もう、この光景に見入っちゃったから、無理」
「無理って、何が?」
「探し物をするのが」
「駄目だよ、そんなの。君だって一応社員なんだから」
「社員って、どこの? うちって企業か何かなの?」
「名目上は」
「どうでもいいよ、そんなの」リィルはスロープの手摺りに両腕を載せ、そこに体重を預ける。「私、もう、ずっとここにいたい……」
「いやいや、いいから」リィルの肩に触れ、僕は軽く揺する。「早く行こうよ」
「何? 一人だとそんなに寂しいわけ?」リィルはにやにや笑っている。
「そうそう。だから一緒にいこう」
「嫌だ」リィルはまた正面に向き直った。「それなら、君がここに残ればいいじゃん」
「だからさ、まずは仕事が先だって。宿題を終わらせてから遊びに行きなさいって、先生に教えてもらっただろう? それと同じ。まずはやるべきことをやらないと、やりたいことはできない」
「それは、君が勝手にそう思っているだけでしょう?」
「そうかもしれないけど……」なんだか可笑しくなってきて、僕は思わず笑ってしまった。
「あ、ほら、笑った。やっぱり、本心では私に自由行動をさせたくて仕方がないんだな?」
「そういうわけじゃないよ。ただね、君とこういうやり取りをしている瞬間が、一番面白いなと思ってね」
「じゃあ、いいじゃん、それで」
「今の、感動するところなんだけど」
何度か交渉を続けたが、リィルは意地でもそこから動かないみたいだったので、仕方なく、僕は一人でアクアリウムの中を歩き回ることにした。別に、一人だと寂しいのわけではない。いや、たしかにリィルと一緒にいる方が楽しくはあるが、そのギャップが原因で寂しいと感じることはない。たぶん、ずっと一緒にいてくれると分かっているからだろう。このタイミングを逃しても、同じような機会がまた訪れるとどこかで期待しているのだ。
広間を抜けて暫く歩くと、今度は小さな水槽がいくつも並んだエリアに到着した。それらには魚類ではなく、軟体動物の類が多数収容されていた。中にはタツノオトシゴなんかもいて、でも、僕にはタツノオトシゴの分類はよく分からなかった。
そうした生き物に興味がないわけではないが、今は探し物をしなくてはならないから、一度空間を認識する目を閉じて、僕は物事を客観的に捉えるように努めた。こうすることで、目の前に存在する事物を抽象的に捉えることができるようになる。タツノオトシゴが入った水槽は、単なるボックスとして認識されるようになる。
僕たちが探しているのは、「〈 〉、存在するのか?」の〈 〉に入る言葉だ。リィルの話によれば、以前はその空白は何らかの言葉で埋まっていた。けれど、それが昨日の時点で欠落してしまっていて、前後の段落との関係が分からなくなってしまった。ただ、僕たちが目的にしているのは、その空白に入る言葉を明らかにして、前後関係から内容を読み取ること、ひいては文章全体の内容を理解することではない。単純に空白が埋まれば良いのだ。この依頼を受けたとき、僕たちは古文書から何か面白い発見をするようにと頼まれた。それまで成り立っていた文の一部が欠落し、そして、その空白にどのような言葉が入るのかを突き止めることができれば、そのストーリーを一つの成果として扱うことができるだろう。
空間の中心に立って、僕は周囲を見渡す。
周囲にあるのは、箱、箱、そして箱。
箱の中には、どれも水が入っていて、そして、幾分の有機物が含まれている。
有機物とは、生物の身体を構成する物質という意味だ。したがって、有機物をきちんと定義できなければ、無機物を定義することはできない。
しかし、実際には、その定義がしっかりしていなくても、それが問題として扱われることはない。
なぜだろう?
人間の頭の中では、定義など大して重要ではないからか?
分類をするとき、人間は頭をはたらかせる。頭をはたらかせるとは、すなわち思考するということであり、思考とは感覚と対になるものだと「考えられる」。
思考をもとにした分類と、感覚をもとにした分類とでは、結果が異なることがある。
人間に限らず、おそらくすべての動物は、それが生き物であるか、そうでないかを、感覚的に判断している。
そこに明確な定義はない。
でも、我々が、思考をもとに、生き物であるか否かの判断をしようとすると、途端にできなくなってしまう。
コンピューターも、生き物であると認めざるをえなくなる。
風も、生き物であると認めざるをえなくなる。
自分の指も、生き物であると認めざるをえなくなる。
思考か?
それとも感覚か?
どちらの言うことを聞けば良いのだろう?
どちらの言うことを聞けば、我々は神様に近づくことができるのか?
唐突に、人形の少女の姿が頭に浮かぶ。
僕は……。
僕は、彼女を生き物として捉えているだろうか?
回答、イエス。
僕は彼女を生き物として捉えている。
では、僕は、僕を生き物として捉えているだろうか?
回答、〈 〉。
……?
欠けてしまった部分を埋めるためには、この道筋に沿って考えれば良いのか?
「あ、いた」
背後から声をかけられて、僕の意識の大部分は現実に戻された。やはり、人と人とのコミュニケーションは音声による面が大きい。
振り返ると、予想していた通り、そこにリィルが立っていた。
「やっぱり、私も一緒に探し物しようかなあ、と思って」リィルが言った。
「へえ、どうして?」今まで考えていたことを脳内キャビネットに仕舞って、僕は彼女と会話をする。
「なんだか、そうしたくなったから」リィルは端的に答えた。「君を、放っておけなくて」
「不思議な心理だね。是非、分析してみたいところだ」
「できるというのなら、してもいいよ。ま、君には無理だろうけど」
「今日はお喋りだね。いや、お喋りというか、いつもと趣向が違うというか……。頻度に違いはないけど、セットされているテープの中身が違うというか……」
「君も、いつもと趣向が違うよ」リィルは手で僕を示す。「何か、考え事をしていたよね?」
リィルにじっと見つめられて、僕も彼女の目を見つめ返した。彼女にそれを指摘されるのは概ね予想していたが、こんなに早い段階だとは思っていなかったから、多少驚いたのだ。
「へえ、よく分かったね」僕は平静を装って話す。意識的に自分を取り繕うとするのは、今日で二回目だった。
「聞かせてよ」リィルは素早く傍に寄って、僕の手を握る。「私に、教えて」
水槽がいくつも並べられた部屋の中で、僕は自分が今考えたことをリィルに聞かせた。思考を言語化すると情報の一部は必ず欠落する。それは、より細かく述べようとするほど顕著になる。考えを述べる際には、自分が考えた曖昧な事柄を、曖昧な形のまま相手に差し出すのがベストだ。言葉が持つ意味には一定の範囲がある。リンゴはいつどんなときも赤くて丸い果実を指すのではない。
「ふうん」
僕が一通り述べ終えると、リィルは気のない返事をした。しかし、それはいつものことだから、僕は特に気にならなかった。
「今の話を聞いて、君が何を考えたのかは、今は聞かないでおくことにするよ。ある程度醸成されて、ほどよい加減になったら、聞かせてもらうことにしよう」
僕がそう言うと、リィルは小さく頷いた。
なんとなく辿るべき道のりが見えてきたから、僕たちは一度探し物を中断した。行動の面では何の進捗もないに等しいが、思考の面では答えに一歩近づいたのだから、まったく進捗がないわけではない。表に出るものと、内に秘められているものは、多くの場合一致しない。しかし、現代の社会は、それが一致しているという前提のもとに運営されている。
アクアリウムを次々と進んでいって、最後にイルカが収容された巨大な水槽の前に来た。イルカは全部で二匹いて、それぞれがすれ違うように泳いでいる。生き物の中にも繰り返しは見られる。無限は人間が生み出したものではないのだろう。初めからこの世界に存在するのだ。
「うわあ、おっきいなあ……」
巨大な水槽を見上げた格好で、リィルが感想を述べた。
「うん、大きいね」僕は適当に応じる。
「これも、同じ哺乳類なんだもんなあ……。神様は、本当にアイデアの達人だよね」
「分類学的に、君は哺乳類なの?」面白い発想だと思って、僕は彼女に尋ねた。
「君さ、さっき、自分で、そういう考え方を否定していなかったっけ?」リィルは目だけで僕を見る。
「別に、否定したわけではないよ。それが不思議だって思っただけだ」
「でも、肯定的ではないわけでしょう?」
「うん、まあね」
「じゃあ、訊くのは無粋ってものじゃない?」
「冗談のつもりだよ。軽く受け流してくれればいい」
「そう言われると、君の言葉のほとんどが冗談に聞こえてくる」
僕は少し笑って頷いた。
「強ち間違えていないと思うよ。僕には意味のある言葉を口にする能力がないから、冗談で誤魔化しているんだろうね」
イルカを収容した水槽の前にベンチがあったから、僕とリィルはそこに並んで座った。目の前を泳ぐ二匹のイルカも、互いに何らかの関係を結んだ仲なのかもしれない。もしそうでないのなら、狭い空間の中に無理矢理入れられているわけだから、耐えられないに違いない。少なくとも、僕なら苦痛で仕方がない。今僕の隣にいるのが、リィルではなく、トーマス・エジソンだったらと思うと、身の毛がよだつと形容せざるをえない。
「あの空白は、埋まらないと思う」前方に目を向けたまま、リィルが唐突に口を開いた。
僕はゆっくりと顔を横に向けて、ぼんやりと照らされたリィルの横顔を見る。
「どうして?」
「自分一人では、埋まらないってことだよ」リィルは前を向いたまま話した。「君が私に対して答えを示すことができたのと同じように、私が君に対して答えを示すことはできる。だから、二人いれば相互に答えを示すことができる」
正面の水槽に視線を戻して、僕は頷く。
「なるほど。そこにも、一人では生きられないという、絶対的な命題が登場するわけだ」
「どうして一人では生きられないのか、という方向で考える必要はないんじゃないかな」リィルは呟くように話す。「二人なら生きていけるんだから、それでいいと結論づけるのでは駄目かな?」
「駄目ではないけど、それは諦めに近い」
「近いだけで、諦めではないよ。その前に一生懸命考えたんだから。それじゃあ、結果がすべてだって言っているようなものだよ」
リィルの言葉を聞いて、僕は沈黙する。
リィルは基本的に優しいから、僕が諦めたとしても、きっと許してくれるだろう。そして、僕が諦めたと認識しないように、諦めではないとも言ってくれるに違いない。けれど、問題はそこではない。結局のところ、僕は自分で納得できる答えを得たいのだ。言い換えれば、一人で生きる道を探しているともいえる。他者から認められたいのではない。自分で自分を認めたいのだ。
けれど、それが夢物語に近いことも、どこかで理解していた。この世界に単一で成立するものはない。それは生き物に限った話ではなく、ありとあらゆるものに共通していえることだ。
捉え方の問題だと片づけることもできる。けれど、やはりそれもどこか諦めに近いように思える。
いや……。
僕は、本当は、もう、とっくの昔に、諦めているのだ。
諦めた自分を認めたくないから、そう言い聞かせているだけで。
諦めた自分を、諦めて、認めることができない。
「なるほど」僕は頷いた。「僕に足りないのは諦めか」
「だから、それは諦めじゃないよ」リィルは僕を見て話す。
「うん、でも、今、諦めようと思う」僕は言った。「諦めて、次の問題に移ろう」
「私と、君とで、一つとして捉えるのはどうかな? 似ているし、無理ではないんじゃない?」
「でも、そういう決断をしたという傷は、残り続けるよ」
リィルは何も言わずに、僕を見つめ続ける。
それから、彼女は黙って僕の手を握り、それを自分の胸もとへと持っていく。
僕が、彼女のそれに触れるのは、久し振りだった。
彼女は、本当は、生きてなどいないのだ。
彼女は人間ではない。
ウッドクロックという人工生命体として、人間の、ように、動いているだけだ。
衣服の下。
皮膚のさらに深層。
時計が針を刻む振動が微かに伝わってくる。
人工的な機構がエネルギーを生み出す様子が認識される。
動いているだけだと捉えられるのは、彼女がウッドクロックだからではない。
彼女が、他者だからだ。
思考では、その判断が正しいと言っている。彼女は動いているだけで、生きているのかは分からない。
でも、僕の感覚は、そうではないと告げている。彼女は確かに生きていて、そして、本当に生きているのかが分からないのは、彼女の方ではなく、僕の方なのだと。
僕は、もう、すでに、諦めていた。
思考では、すでに、諦めていたのだ。
動いているだけなのか、それとも生きているのか分からない彼女を、受け入れている。
それを諦めと呼ばずに、何と呼ぶのだろう。
……?
僕は、今、何を考えているのか?
思考?
感覚?
果たして、思考と感覚は分けられるものなのか?
「そろそろ行こう」僕の手を握ったまま、リィルがベンチから立ち上がった。それに伴って、僕も自然と立ち上がる。「家に帰って、晩御飯の支度をしないと」
僕はリィルを見る。
「今日は、君の当番だったっけ?」
「違うけど、今日は私が作る」
アクアリウムのゲートに戻ってくると、最初に案内をしてくれた男性が待っていた。彼は片方の手にラップトップを載せて、もう片方の手でキーを打っていた。彼にとって、事務作業は部屋で行うものではないらしい。
「探していたものは、見つかりましたか?」
ラップトップの画面から顔を上げると、男性は面白そうに僕たちに尋ねてきた。
「いいえ」彼の傍に近づいて、僕は答えた。「しかし、本命ではありませんが、別のものを見つけることができました」
「そうですか。それはよかった。空気に覆われている世界から抜け出して、水の恩恵を受けられたからかもしれませんね」
「また、機会があれば訪れてもいいですか?」
僕がそう尋ねると、男性は静かに首を横に振った。
「いいえ」彼は笑顔のまま答える。「そのパスは、本日限り有効です。退館するのなら、返して頂きましょう」
僕は、一度リィルに確認してから、二人分のパスを彼に返した。
「ありがとうございます」パスを受け取って、男性は頭を下げる。
「もう、今日の仕事は終わりですか?」なんとなく気になって、僕は彼に尋ねた。
「ええ」男性は頷く。「休日出勤で、いまいち気が乗らなかったのですが、なかなかいい仕事ができました」
男性に見送られながら、僕とリィルはアクアリウムの外に出る。
扉が完全に閉まる前に、男性が、最後に一言、僕たちに告げた。
「そういえば、申し上げていませんでしたね」彼は丁寧に礼をして言った。「わたくし、トーマス・エジソンと申します」
小気味の良い音を立ててアクアリウムの扉が閉まり、僕たちの身体は再び外気に包まれた。
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