Marker’s Guide-後篇
「で、顔は見たの?」
「うん」
「どんな感じだった?」
「どんな……うーん、目が細くて、すごく……きれいな子だったよ。たぶん女の子」
「へぇー」
マーカーに対する三人称は、基本的に「彼」を用いるのがふつうだ。
深夜4時。わたしはさっそくカメラを抱えてカエデのマンションに向かった。彼女はまだ起きていて、わたしの写真を見ると目の色を変えた。『ブルー』の新作をいち早くキャッチしたのは、かなり大きな収穫といえる。
ところが、それが台無しにされたのもまた一瞬の出来事だった。ほんの数分の間に、あの銀色のクマのステッカーによって作品は上書きされてしまったのだ。その比較写真もしっかりとわたしは抑えている。
「これはバズる。確実に。お手柄だよ瑠奈、ボーナスはずむから」
「うん……」
「やっぱり気になる? あの、クマちゃんのことが」
「沿岸の干拓区画にも、あのステッカーはたくさんあった。いったい、どういう目的で街に出てきて、わざわざマーキングを台無しにするようなことを……」
「珍しいよね。瑠奈が、そこまでこだわるの」
カエデの言葉に、我に帰るようにわたしはうなずいた。
マーキングが好きで、漫然と写真を撮ってきた。それに伴っていろんな知識やマナーも知った。カエデと出会って、わたしの写真には価値があることを知った。
描かれては消され、また新たに生まれてくるマーキング。二度と同じものは見られない。それを記録するわたしの行為は、歴史的な価値がある、と。
だけど、ひとつひとつのマーキングを、そこまで注視したことはなかった。何が描いてあるか分からないマーキングばかりだし、その意味やメッセージを読み取ったこともない。それは、また別の人が勝手にやってくれるものだと思っていた。
そんなわたしでも、この銀色のクマのステッカーには、なにかを感じた。とことんまで追いかけてやろうという気になっていた。いったいなぜだ?
「好きなようにやんなよ」
カエデはパソコンの画面から目を離さずに言った。
「でも……」
「わたし、別に瑠奈の雇用主でもなんでもないからさ。瑠奈の撮りたいものを撮ってくればいいじゃない。必要なものがあれば言ってよ、あんたのおかげでまあまあ稼がせてもらってるからさ」
「ありがとう。カエデ」
それからカエデにデータを渡して、カメラの中を整理していると、もう日が昇っていた。わたしはスクーターに乗っていったん家に戻り、仮眠をとってから、昼過ぎにゆっくりと家を出た。
◯
学校にはほとんど行っていない。
スコア稼ぎのための勉強なんかにほとんど意味はない。それよりもっと大事なことがある。
街のあちこちで、工事の音がやかましく響く。ビルが次々に並び、あたり一面白いバリケードで覆われて、まるで白い鉢植えから灰色の植物が天に向かって伸びていくようだ。とうぜん昼間にはマーキングなんてものを見ることはほとんどできない。すぐに見つかるし、すぐに消されてしまう。
そんな中でも、わずかに見つけることができた。
大通りの信号機の支柱、その裏側。あの銀色のクマのステッカーが貼られていた。まだ、角が削れていない。貼られてまだ間もないのだ。
そして、それは予想どおり、点々と続いている。こうして同じマーキングを、電信柱に、道路標識に、点々と付けていくのはマーカーの常套手段の一つだ。
わたしは銀のクマの姿を追って、スクーターをゆっくり走らせた。それは、予想通りに干拓区画へと向かっていた。
周囲には津波の被害が色濃く残っている。大方の瓦礫は、片付ける場所もないのでそのまま放置されている。そして大型車両の駐車場や、資材の置き場としてそのまま使われている。その中を、かつては幹線道路だった太い片側三車線の道路が続いていく。
しばらく走っていくと、警備ゲートに突き当たった。
『ここから先は関係者以外立ち入り禁止です。ここから先は関係者以外立ち入り禁止です』
それだけを繰り返す警備音声と、虎縞のゲートバー。
そこにも、警備音声を嘲笑うかのように、銀色のステッカーが貼られていた。
そんなことをすれば監視カメラにもバッチリ映ってしまうに違いないのに、いったいどうやったのだろう?
わたしには警備を突破できないので素直に引き返そうとスクーターをUターンさせると、視界の端に黒い人影が立っていたので、わたしは慌ててブレーキをかけた。それは道路の真ん中、かつては中央分離帯だった場所に、ひっそりと佇んでいた。
背格好、服装、そしてフードの内側にわずかに見える薄い唇。間違いない……
そいつは腕で、ゲートとは反対側を指し示した。こっちに来い、ということらしい。いう通りにスクーターをゆっくり走らせると、そいつは人間離れした俊敏な動きで車道を走ってついてくる。まるでアニメのキャラクターだ。
ゲートから十分に離れ、監視カメラが設置されていないところまできたところで、わたしはスクーターを停め、歩いてそいつのところへ近づいた。彼女はフードを軽く上げた。やはり女の子だ。目が細くて、木くずと香辛料が混じりあったような不思議な匂いがする。
「アナタ、なぜ、ここ来る?」
たどたどしい日本語だった。たぶん外国の人なのだ。
「なぜ? アナタ、ワタシ、追いかける?」
「これ」
スクーターに貼られた銀色のクマのステッカーを指でつついて示すと、彼女はふん、と短いため息をついた。
くるりとわたしに背を向けると、ついて来い、と言わんばかりの態度で、ずんずんと道を進んでいく。わたしは仕方なくスクーターを押してそれについて行った。
20分ほど無言で歩いて辿り着いたのは、まだ形をある程度残しているビルの廃墟だった。4階建てくらいで、外装はすっかり剥げ切っている。他にもこの辺りには、薄汚れたビルや建物が多く並んでいて、少しばかり迷路のようになっていた。
これは津波でやられたというよりも、浸水や地震の影響で使えなくなったものを放置されているのだろうな、と思った。
彼女はその中に入って行った。わたしはスクーターをビルの前に停め、それに続いた。正直心細かったが、ここまで来て引き返せない。
「これ」
わたしは念のため、カメラを鞄ごと彼女に差し出した。すると彼女は、フードを脱いで、ゆるやかに首を振った。
「いらない。持ってていい」
「いいの?」
なんだか拍子抜けだ。
こういうところでは、カメラは真っ先に狙われるからだ。ところがむしろ、少女は差し出されたカメラを丁寧にわたしの方へと押しやった。
雑居ビルの中は、半壊したパーテーション、コンクリートと壁紙の混じりあった壁、割れた窓、置き去りにされた事務机やそこに乗ったままの書類たちで、まるで震災がつい昨日起こったことのように、生々しく残されていた。
フードの少女は非常階段を登って2階に上がっていく。わたしはそれについていくときに、階段の手すりに貼り付けられた銀色のクマのステッカーを見た。
やがて2階に辿り着いたとき、わたしは言葉を失った。
「すごい……!」
パーテーションがぶち抜かれ、一面が開けたそのビルには、廊下、オフィスルーム、窓。そして天井や床に至るまで……。
一面がマーキングのカオスで覆われていた。
「写真。して欲しい」
少女は20年以上前のモデルの携帯端末を手にしてわたしに言った。端末の画面には、わたしが撮影し、カエデがネットに流したマーキングの画像が、たくさん映し出されていた。
「これは?」
「ワタシたち、不法滞在。街まで出られない。みんな、写真、嫌がる。でも、描いたら、見てほしい。みんなに。だから、この場所、用意した」
つまりここは、街にマーキングできない、かといって素性を明かすわけにもいかない、そんな不法滞在者たちが作った、唯一のオープン・ギャラリーということだ。
「ワタシ、シォン。ここに暮らしてる。ワタシ、大きいから、みんな、
「よろこんで」
わたしは壁の隅から隅まで、撮影して回った。
毛筆で描かれたお経のような漢文。
カラフルすぎる、100枚のマイケル・ジャクソンの顔。
デフォルメされたハングル文字。
スプレー缶のイラスト。
天井一面には、円形の海と空、その中心に向かって手を伸ばす人々と、それを見守る三面の神。
はたまた窓際の壁には、サイケな模様の異国の文字。
棒人間と家のイラスト。
『ピーナッツ』の登場人物。
窓の外を見下ろすように、『AKIRA』の金田の立ち絵。
壁紙に描かれた写真。
それらの上に、クレヨンで描かれた文字や数字、聖書の一文。これは子どもたちが描いたのだろうか。
何枚も何枚もシャッターを切り、わたしは夢中になってその場所を何周もぐるぐると回った。シォンはそんなわたしについて、これはなんだ、あれはなんだと丁寧に話をしてくれた。興奮しているのか、時々、何をいっているのかわからない時もあったが、わたしはそれを何度も聞いていた。
最後にシォンは、最上階の屋上にわたしを案内してくれた。その途中の階段にも、派手なマーキングが描かれていた。たぶんあれは『孔子』の一節だな。
屋上は壊れた手すりや給水設備がそのまま残っていて、その床面には、鉛筆で描かれたかのような、細かいデッサンのようなマーキングが広がっている。
「これ、ワタシの故郷。生まれたところ」
「シォンが描いたの?」
シォンは恥ずかしそうに頷きながら、フードを手でなぞるように触っていた。
「小さい頃に、ここ、暮らしてた。こんなふうに、高いところ。でも、ここ、もうない。壊された。ワタシ、逃げてきた」
「そうなんだ」
わたしはタラップを登り、故郷の風景の上に立つシォンの姿をみた。
この街は黒ずんで、重い雨の中に沈んでいるようだ。よく見ると、街の風景の中には通行人や、洗濯物、自動車、動物なんかが、所々で遠近感を無視してしっかりと書き込まれている。線の細さと多さとは裏腹の、大胆なキュビズムだ。彼女は、そこにぽっかりと浮かんでいる影のよう。
わたしは給水設備の上から、シォンにフードをかぶるように言った。シォンは、カメラを向けるわたしの意図を察したのか、いう通りにフードを深くかぶり、俯き、カメラに顔が映り込まないようにした。
わたしは何度もシャッターを切った。
シォンはあちこちに立ち位置を変え、時には寝そべったりもした。その度にまた何度もシャッターを切る。
不思議な時間だった。
シォンはマーキングの只中にいる、絵画の一部のようだった。
たくさん撮った写真をシォンと一緒に眺めているうちに、だんだん街が暗くなってきた。わたしはそろそろ帰るとシォンに告げた。
「約束。必ず、その写真、みんなに見せること」
「うん。約束だよ」
最後にシォンは、懐から小さな紙の束を取り出した。あのホログラム加工された、銀色のクマのステッカーだ。それを取り出して、カメラのボディの側面にぺたりと貼り付けた。
「約束の印」
「そういえば、これ、どうしてあちこちに貼っていたの?」
「街の、落書き、みんなが見る。アナタ、写真、撮る。みんな、このステッカー、気がつく。街じゅうに貼っておく。気がついた人だけ、ここに来る。アナタ、たくさん写真、撮る。絶対気づく。ワタシ、予想通り」
「スクーターに貼られていた時は、びっくりしたよ」
「それ、ワタシじゃないね。ワタシの仲間」
「そうなの?」
「これ、みんなが持ってる。好きなところに貼る。だから、アナタが気がついた。天の導きね」
シォンは急にもっともらしいことを言った。
彼女と出会ったのはなにかの巡り合わせ、偶然としか言えない。わたしは少しおそろしいような、嬉しいような気持ちになった。
「じゃあね、シォン。また会えるといいね」
「
「瑠奈」
「瑠奈。また会える、嬉しいね」
軽く手を振ってわたしはスクーターを走らせた。もう夜がやってこようとしていた。まだ街が騒がしい、眩い夜が。
◯
戻ってカエデにコトの顛末を話すと、彼女はあっけらかんとそれを受け取った。
「いいんじゃん?」
「意外。もっと反対されると思ってた」
「うちらがやってるのって、別に犯罪でも、慈善事業でもないしさ。それに、このマーキングはどれも魅力的だし。すごいよ、こんなの街中では絶対作れない。重厚で、複雑で」
「一応、全方位カメラでデータを撮ってきたんだけど」
「それサイコーじゃん。早速処理して、ネットに配布しよう」
わたしたちは夜を徹してその作業に没頭した。ゆうに千枚を超えていた写真たちを選別して、どれをネットに流すか、そうしないかを相談した。そうしてもう日が昇るという時に、カエデがぽつりと呟いた。
「ちなみにさ。カメラマンとして、お気に入りの一枚はどれ?」
「もちろん……」
これだ。
シォンが片足を一歩踏み出そうと持ち上げている。その足元には、シォンの故郷の街並みが広がっている。
黒くて、陰鬱で、重たくて。
でも、生命力の蠢く街。
均一化され、幾何学的で、美しく、モノトーンな東京とは違う風景がそこにはあった。それを、地面や重力を無視して歩くかの如きシォンの姿に、わたしは魅力を感じていた。
ほどなくしてネットに流出させた画像たちは、残念ながら、街のマーカーたちの作品とは違って大きくバズる事はなかったが、それでも熱狂的なファンを獲得することには成功したらしい。360度パノラマ画像データも大好評だが、若い世代には不評だったようだ。
色が多すぎて疲れるとか、規則性がない、美しさがない、それが彼らの言い分だ。わかってないなあ、とわたしは思った。カエデはそういう人たちを焚きつけて、ネットを炎上させ、利益を生むのが上手かった。わたしにも、少なくない額のボーナスを渡してくれた。
◯
さて、それから二週間ほど経った日のこと。
ふとあの雑居ビルのあった場所に行くと、そこは丸ごと白いカンバスのバリケードで覆い尽くされていた。建物は見る影もなく、シォンの姿もない。
ここを駐車場として整備するらしい。
あのギャラリーは失われてしまったのだ。
たまらない喪失感の中でも、街中でふと、あの銀色のクマのステッカーを見つけると、わたしはまた少し嬉しくなる。
シォンに、再び会い見える日は、遠くないのかもしれない。あなたたちの残した精一杯の作品たちは、わたしがしっかり記録している。次の作品は、いつどこに現れるのか?
それは、このステッカーの先だ。
行き先は、この銀色のクマが知っている。
Marker’s Guide 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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