Marker's Guilt - 後篇

 数年前に突然、東京都庁新庁舎にでかでかとマーキングをほどこし、それからも街をたくさんに彩り続け、無数のフォロワーを生み出した『レインボー事件』の主犯。

 そのカムバックは、とてつもない驚きと、熱狂を以て迎えられた。



 なによりセンセーショナルだったのは、そのマーキングの内容だった。『Anti-BLUE』。ブルー、つまりあたしに対するバッシング、あるいは挑発。ここまで生々しいメッセージは今までなかった。

 らしくない。

 あたしが最初に抱いたのはそういう印象だった。『レインボー』はたしかに今までもメッセージ性の強いマーキングをたくさん世に残してきた。それを集めた写真集も作られているほどで、当然あたしも持っていて、何度も読み返した。

 だけど、これはなんだろう。

 個人を名指しで攻撃するような、このメッセージ。すごくらしくない。あたしは傷つくよりも、びっくりしていた。



 ネットの意見は賛否両論だ。

 あたしと同じように「らしくない」という人もいれば、伝説のマーカーがまた現れたことに歓喜するもの、ふたりの直接対決が見られるとはやしたてるもの……

 ともあれ、大きくバズったのは間違いない。



「なんであんなことを……」



 あたしはいま、その現場となった場所に来ている。でかでかとあのメッセージが描かれていた、高架下の巨大なコンクリート色の中。

 すでにマーキングの除去は始まっているらしく、現場は柵で区画され、遠隔操作のロボットたちが洗浄剤をつかってマーキングを落としていく。

 もんもんとした気持ちであたしはそれをじっと眺めていた。だけど、あたしもマーカーの端くれ、パーソナルカラーを持つものとして、やることはひとつだ。

 マーキングを残す。それだけ。



 あたしが選んだ場所は、大きな駅の裏手、緑色の柵と、背を向けたビルの間に挟まれた、線路沿いの小さな道だ。時刻は午前1時半、終電が終わり、人の目がなくなった瞬間を狙ってそこを見つけた。

 腰にポーチを巻き付け、スプレー缶をいくつかセットする。正直、あたしはそれほどマーキングをしたい気分じゃなかった。だけど、なんとなく描かなくてはいけない気分だったのだ。自分のエモを発散しなければいけない気分だった。



 白と黒を取り出す。

 本来これらは、コンクリートの上でも色がしっかり映えるように、いわば『地』として使う色だ。基本的にはこの上に別の色を重ねていく。『レインボー』は逆だった。赤や青、カラフルな地の上にモノクロを塗りつぶす。それがいろんな人にウケた。

 白を壁に吹き付け、黒で文字を縁取っていく。今日書く文字は決まっていた。



 I’m BLUE.



 だけど、これを青いスプレーで描いたら意味がない。モノクロでしっかりと文字にアタリをつけたら、青の反対色の黄色をうすく、その上にまぶしていく。ちょっと赤みが足りないと感じれば、赤も足していく。こうすれば、黒い文字は相対的に青っぽく見えてくる。



「よし……」



 文字のデザイン、形、バランス。すべて完璧にできたはずなのに、あたしはますますブルーな気分になっていく。

 明日の朝、始発の電車に乗って仕事や学校に向かう人たちがきっとこのマーキングを目にするだろう。それでまたネットに晒される。

 あたしは、『レインボー』からの挑発に乗るつもりはさらさらなかった。あの人は我々マーカーにとっては文字通り、雲の上の存在、張り合うなんてとんでもない。

 あたしたちはみんな、あの人に憧れていたのだ。コンクリートばっかりの、つまんない東京を一瞬で巨大なキャンバスに変えた『レインボー』のことを、嫌いな人間なんて誰もいない。



 そうだ。あたしははっきり確信した。

『レインボー』にはずっと、雲の上の存在でいてほしかった。

 あたしのことを、わざわざ見てほしくなかった。名指しで認識してほしくなかったのだ。雲の上にいたまま、あたしたちには見向きもせずに歩いて行ってほしかったのだ。






「こらっ。大月さん」



 スプレー缶を片付けて、すっかりブルーな気持ちになったあたしが大きな交差点に出ると、そんな声に呼び止められた。



「先生……」

「こんな時間に、学生が外を出歩いてはいけません。居住エリアに戻りなさいっ」



 尾崎先生はにこにこ不敵に笑っていた。真っ黒で地味なウィンドブレーカーに身を包んでいて、ジョギングでもしているようなふうだった。だけどひとつ違うのは、先生は背中に小さなリュックを背負っていることだった。

 彼女は小さな体であたしのそばまで寄ってきた。



「ここで何しているの?」

「先生こそ」

「ふふん。聞きたい?」

「いや、別に。帰ります。すみません」

「近くまで送っていくよ。女の子がひとりだと、危ないよ」



 あたしが歩き出すと、先生も一緒に歩き出した。

 街灯もほとんどない薄暗い道を、先生とふたりで並んで歩くのは、すごく不思議な感じがした。居心地が悪く、自分のペースで歩いていけない。先生は背が低いから歩くのもゆっくりで、あたしは先生に合わせて歩いていかないといけなかった。



「最近の子は、不良だね」



 隣をイライラと通り過ぎるタクシーを見ながら、先生はつぶやいた。



「こんな時間に出歩くなんて。この辺りは再開発の途中で、治安も悪い。危ないよ」

「別に、慣れてますから」

「慣れてるって? 頻繁に出歩いていると。言質とったよ、選考ポイントに響くかな」

「冗談。先生、勘弁してくださいよ」



 先生のリュックからは、からからと、何かが揺れる音がした。

 先生からは、つんとするアルコールの揮発臭がする。



「ねえ。本当は何してたの?」



 立ち止まって先生はあたしに尋ねた。

 あたしは答えなかった。



「先生こそ。ほんとうは何してるんですか?」



 すると、先生はあっさり答えた。



「察しはついているんでしょ、『ブルー』さん」

「アハハ」

「笑ってる場合じゃないよ。あなたのやっていることは犯罪行為よ」

「先生こそ、そんなに大きなリュックに、たくさんスプレー缶なんか、詰め込んじゃって。それに、すごい塗料の匂い……。いったい何してたの?」

「ふふ。内緒だよ」



 先生は曲がり角のところで立ち止まると、あたしの背中を押した。



「それじゃあね、大月さん。おやすみなさい」



 それだけ言うと、ものすごい身軽さで夜の闇の中に消えてしまった。

 あたしは居住エリアの、背の高い建物の中をぬうように進んでいった。






 翌日。ネットの海では、昨日……いや、正確には今日の深夜、あたしが残したマーキングがあっという間に発見されて、騒ぎになっていた。

 驚いたことはもうひとつ。

 そこから少し離れた場所に、『レインボー』のマーキングも共に残っていたことだ。



 D R E A M



 モノクロでそう書かれていたらしい。

 しかし、朝早くに消去されてしまっていて、今では画像が残るのみだ。それは、あたしのマーキングも一緒だった。やはり線路沿いだと、見つかるのも早かったらしい。



「先生の夢ってなに?」



 休み時間。あたしは化学準備室で、尾崎先生に尋ねた。先生はどこから取ってきたのか、カップにいれたコーヒーをずぞと啜っているところだった。



「なあに、急に」

「聞いてみただけだよ。先生は将来、なにになりたいの?」

「う~ん。別に、今の暮らしが続けられたら満足かな。大きな病気もなく、クビになることもなく……。大月さんは?」

「あたしもね、夢とか、よくわかんないけど」



 先生のことをじっと見つめながら、あたしは言った。



「いま、普通に生きてても、そこそこ楽しいよ」

「そうなの?」

「うん」

「カリスマ・マーカーの『ブルー』さんのことだから、もっとこう、鬱屈とした気持ちでいるのかと思ってた。だからあんな風に、後ろ向きなエネルギーのマーキングばっかり残しているのかと」

「いいがかりだよ、先生、それは、あたしのマーキングを見る人がそういう気持ちだから、そういう風に見えるだけ」



 その時、少しだけ先生はムッとしたように見えた。

 しかし、すぐににっこりと笑顔を見せた。



「いうねえ」

「いまは、街の再開発の途中だから、こんな風に暗い雰囲気だけど……、いつか、もっと明るくて、カラフルな街になったらいいなって、おもう。マーキングなんか、必要ないくらい」

「いいね。素敵な夢だと思うよ」

「ほんとう?」

「それじゃあ、そんな大月さんにぴったりの仕事を見つけないとね」



 尾崎先生は笑った。

 あたしは、先生の身体から漂う、コーヒーの苦み、汗の香り、塗料の揮発臭、いろいろなにおいに、いろんな先生の感情がにじみ出ているような気がして、すこし複雑な気分になった。



 先生はどうしてマーキングをはじめたのだろう。



 いつか、その答えを聴かせてもらいたいと思った。

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Marker's Guilt 王生らてぃ @lathi_ikurumi

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