Marker's Guilt

王生らてぃ

Marker's Guilt - 前篇

 人通りのそれなりにある場所、人のいない時間、監視カメラの向き。これが大切だ。

 あたしたちのやることなすことは、場所と時間がとにかく肝要になる。人通りの少ない場所でやっても、人に目がつかないので意味がない。逆に大きな通りで開けっぴろげにやれば、警官にみつかってそこまでだ。

 その点、この高架下、午前1時。最適なタイミングと時間だった。人のよく通る場所だし、大きな通りからはうまく死角になって見つかりにくい。



「よっし」



 背負ったリュックを下ろし、腰にポーチを巻きつけると、そこにカラースプレーを放り込んでいく。基本となる白と黒。そしてあたしの色パーソナルカラーの「青」。

 目の前には真っ新なコンクリートの壁。正確には真上を走る環状線を支える柱。

 こいつが今日のあたしのキャンバスだ。

 軍手をしっかりと嵌めて、白の缶を取り出し、中身を一滴残らず絞り出すように振る。こいつももう長く使っているので、そろそろ新しいものを仕入れないといけないな……






     ◯






 十数年前の首都直下型地震による「日本大震災」。観測史上最大規模の地震と、東京湾から襲い掛かった巨大な津波によって都市建造物はいちど完全に崩壊、インフラと首都機能の回復が最優先とされ、急ピッチで再開発が進んでいた。

 それらの指揮はすべてAIによって電子的、極めて高効率かつ低コストで行われてゆき、街にはにょきにょきと、道路やビルが作り上げられていった。おかげで街並みはコンクリートの灰色と、街路樹の緑、それに電子の毒々しい光ばかりに塗れている。



 そんなある日、開発中の新東京都庁の建設現場の壁に、でかでかと巨大なアートが現れた。

 ラッカースプレーを使った、縦2メートル、横5メートルほどもある巨大な白黒のアルファベット。



 R A I N B O W



 でかでかと、長方形のデザインの中にひしめき合うようにして書かれた文字は、よく見ると、それぞれ虹の七色で精巧に描かれた後に上から白黒のスプレーで上塗りされたものだということが分かった。

 たった一夜で、警備や監視カメラ、通行人の目をすり抜けて、これだけのものを残した何者かのアートは、瞬く間にSNSを通じて人々の目に触れることとなった。生々しいむき出しのコンクリートの群の中に唐突に現れたその落書きマーキングは、人々の意識に強烈な印象を残したらしい。

 現場ではすぐにマーキングは消され、刑事事件として捜査が始まったが、未だに犯人は捕まっていない。



 そして「レインボー事件」から数年経ち……コンクリートだらけの首都圏近郊の都市部には、熱烈なフォロワーが大量に現れた。みな、思い思いのカラーで街にマーキングを施し、美しければ称賛され、醜ければ晒しあげられる。そして、行政の手ですぐに消されたあとは、また誰かが新しいマーキングを施す。

 その繰り返しだった。

 あたしも、そんなフォロワーのひとりだった。






     ◯






 あたしのパーソナルカラーは「青」。



 初めてマーキングしたとき、たまたま、近くに転がっていた使いかけの青いスプレーを使ったからだ。それがたまたまバズって、次からも青をメインに使うようになった。今では「青」をこの街で使えるのは、あたしだけだ。ほかの「青」のマーキングは、あたしのパクリとみなされて徹底的にネットから袋叩きにされる。



 あたしは別にたいしたことはしてない。

 ただ、手近な場所に落書きをしたいだけ。

 できるだけ派手で、大きくて、目立つやつ。



 白のスプレーで下書きをしたら、青のスプレーを振り、文字のアタリをつける。



 r a i n



 雨。

 コンクリートの街はほこりっぽくて、水気が足りない。いつもどこかで騒音がしていて、車の音や人の声が耳障りでならない。たまには静かな雨に打たれたいと、思う時もある。

 アルファベットでアタリをつけたら、黒で縁取りしていく。

 最初は青い文字を黒く縁取りして囲もうとしていたが、途中から逆にした。つまり、黒い文字を青い色で縁取りし、囲む。

 色ムラをなくしたら彩りを加えていく。

 赤、黄色、緑、紫。それから毒々しい水色。それらのスプレーをマーキングの周囲に、飛沫しぶきのようにたくさん散らす。青と色の違い水色や紫は、配置に気を使う。所々に白も加えていく。

 全体的に明るめの印象になってしまったので、最後に全体をうっすらと黒で「ヨゴ」す。



「うーん」



 春になったとはいえ、夜になるとそれなりに肌寒い。少し湿ったような匂いが鼻をつく。

 体は汗ばみ、腕から気化した汗が水蒸気のように立ち上っていた。あたしはすこし考えて、最後に一文字、「y」を付け足した。



 r a i n y



 これで完璧だ。

 かかった時間は30分ほど。



「まあまあかな」



 あとはずらかるだけだ。ポーチを外してスプレー缶をリュックに放り込み、軍手を外す。そして、何食わぬ顔で大通りに紛れ込み、家へ帰る。

 たったこれだけだ。

 これがあたしの日常。






     ◯






「ねー、これ、また出たみたいだよ!」

「カッコいい〜」

「もうTシャツにもなるって」

「どーせすぐ発禁でしょ」



 翌日、学校ではクラスメイトが呑気にSNSを見ながらはしゃいでいた。

 どうやらあたしが夜に残したマーキングが、もう誰かに見つかってしまったらしい。アナログ空間に残したマーキングが、ネットの海に流れてからの拡散力は計り知れないほどの早さだ。それがバズると、こぞって企業がグッズを出したがる。

 街の中に忽然と現れるマーキングには著作権もなにも認められていないので、メーカーは好き勝手にそれを利用する。CMやTシャツのロゴなどがいい例だ。

 そして、あたしたちマーカーは、マーキングが犯罪であることを知っているので、当然それを自分のものだと名乗り出ることもしない。それははしたないことであり、ほんの小さな自分のプライドのために、あらゆるものごとを犠牲にすることにつながる。



「ねえ、大月さんはどう思う?」



 クラスメイトのひとりが、あたしに嬉々としてスマホの画面を見せつけてくる。

 そこにはでかでかと、つい数時間前にあたしが残したマーキングが映し出されている。



「これ、昨日また出たんだって! 超イケてるよね」

「そうなんだ」

「えー、ノリ悪い。いまみんな知ってるよ、『ブルー』のことは」

「ブルー?」

「そうだよ、このマーキング! いま関東圏で青いマーキングをするのは『ブルー』っていうアーティストだけなんだって。時どき偽物が出てくるけど、昨日出てきたのは間違いなく本物だって、ネットのみんなが騒いでるんだよ」



 そりゃそうだ。本物が書いたものだし、あたしが夜に書いたものに相違ない。



「すごいね」

「『ブルー』っていったい誰なんだろう? ほら、いまアンケートをやってるんだよ。ブルーは男か、女か? って」

「そんなの、確かめようがないじゃん」

「だからいいんじゃん。ミステリアスでさ」

「意外と、普通の高校生とかだったりするんじゃないの」



 そういう風に適当に流しながら、あたしは、あたしでSNSをスクロールした。クラスメイトとは適度に距離を置き、かといって特別に遠巻きにされることもないような関係性、それが理想的だし、そうなるように常に意識して振る舞っている。だけど、こういう生き方はとても疲れる。

 授業は退屈。電子黒板に浮かび上がる内容を、適当に聞き流しながら、ワープロにメモしていく。その繰り返し。だけどテストでは鉛筆と消しゴムできっちり手書きして解答しないといけないという矛盾。

 東京は歪だ。

 そんななかで、コンクリートの街並みに発露マーキングをすることだけが、あたしにとっての生きていく活力になりつつあった。






「ねえ、大月さん」



 担任の尾崎先生とは、それなりに仲が良くて、いつも授業のことで相談をしたり、悩みを打ち明けたりする程度には距離が近かった。尾崎先生は三十歳て前とは思えないほど、小柄で、童顔で、若々しい容姿をしていた。



「なんですか」



 放課後、廊下であたしを呼び止めた先生からは、少しアルコールっぽいような匂いがした。



「あのね。職業訓練希望、まだ出してないの、大月さんだけだから」

「ああ……そういえば。でも、まだ期限、先でしたよね」

「うん、でも、大月さん、そういうの、決めてないだろうなあって……」



 すっかり忘れていた。職業訓練なんて、くだらない。震災でたくさんの人が亡くなって、雇用と職業のバランスが崩れている今、機械で代替できる仕事はどんどん代替されている。今じゃ、コンビニやスーパーのレジに人間がいるなんてことはほとんどないし、事務や経理はAIがほとんど行っている。あたしたちに出来ることは、せいぜい数える程度しかない。



「大月さんは将来なにになりたいの?」



 先生とあたしは、よく化学準備室でだらだら話をするのが好きだった。

 夕陽が差し込んでくる空間で、椅子に座って、ふたりで並んで話をする。学校の中でこの教室だけは、電子式ではない古めかしい黒板とチョークが残されている。先生は明らかにサイズの合っていない白衣の裾をいじりながら、あたしに尋ねた。



「さあ……」

「さあ、じゃ、困っちゃうんだけどナ」

「先生はどうして先生になったんですか?」

「訓練で適性が出たからだよ」

「それだけ?」

「うーん。それだけじゃないんだけど」



 尾崎先生はにこにこ笑った。



「教師になれば、毎日好きなことを勉強できるし、毎日生徒たちとお喋りもできる。無理に身体を動かしたりしなくていいしね。最初は、とりあえずやってみようっていう感じだったけど、いまはこれが天職だったと思うよ」

「じゃあ、あたしも先生になろうかな」

「何の先生になるの?」

「英語とか」

「ああ。大月さん、英語の成績はすごくいいもんねえ」

「海外に留学とか、してみたい」

「それもいいね。今は海外からの支援制度も豊富だから、しっかり勉強すればきっとできるよ」



 今日はいつもの化学準備室とは、違うにおいがする。

 最初は、尾崎先生が香水でもつけているのかと思ったけど、それにしては異質な匂いだった。懐かしく、頭の血管にぎゅっと入り込んでくるようなこの感覚……

 まるでスプレー缶の匂いだ。

 いつも、化学準備室では、こんなにおいはしない。

 ひょっとしてあたしのにおいかな。



「大月さんはさ。『ブルー』のこと、どう思う?」



 いきなり尾崎先生は確信めいた言葉を突き付けてきた。

 普段の優しい先生より、ほんのちょっと、鋭い声色だった。



「どうって?」

「いま、若い子たちの間で流行ってるんでしょ。マーキング。ああいうの、どう思ってるのかなって」



 疑われているのだろうか。

 あたしがマーカーだってこと、先生は感づいているのかな。

 あたしは言葉を慎重に選びながら、100%、嘘をつかないように先生に言った。



「あたしは……ああいうの、すごくいいと思うんです。あの落書きマーキングは別に、自分の所有権や縄張りをアピールしたり、建物や都市の価値を貶めるものじゃない。ただ、描きたいものや、訴えたいことがあって、目の前に巨大な、モノクロのキャンバスがあったから、そこに描いているだけ……そういうチャンスが残されていても、いいんじゃないかとあたしは思います」

「うん、うん」

「マーキングはすぐ見つかって、すぐに消されることも多いけど、いつかアスファルトと、古い瓦礫だらけの東京がマーキングまみれのカラフルな街になったら、それは凄く素敵な感じ」



 先生はにこにこ笑っていた。笑って頷いていた。



「大月さんのそういうところ、すごく素敵だと思う。正直で、感性が豊かなところ」

「はあ」

「ね、職業訓練じゃなくて、芸術活動のほうに進めばいいんじゃないかな。それは、機械やAIにもまねできない、立派な才能だと思うよ」

「それは、別に……いいですよ。あたし、才能ないし」



 あたしは尾崎先生にバイバイを言って家に帰った。

 長い廊下を抜けて、車が行き交う大通りを歩き、自分の家へ向かう。






     ○






 数日後、SNSは大きく揺れていた。



「えっ、」



 あたしのマーキングした『r a i n y』が消されているのはいい。こういうのは見つかったらすぐに行政が削除してしまう。ところが、そっくり同じ場所に、まったく別のマーキングが描かれていたのだ。



 白と黒のツートンカラーで描かれた、細いフォントのアルファベット。



 A n t i – B L U E



 右側の大文字はひび割れて、裏側には黄色とオレンジがうっすら透けている。

『レインボー』だ。

 あたしたち、マーカーの始祖が、直接あたしに喧嘩を売って来たのだった。

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