あけそめの人魚

北山双

あけそめの人魚

次の満月の夜が期限だった。

 少女はランプの灯の下で、姉から渡された魔女のナイフを眺めた。

 三日月形で掌に収まるほどの大きさ。刃は薄く、ナイフというより剃刀に似ている。

 ――これを見たら、あの方は何て言うかしら。

 少女は、今頃安らかに眠っているだろう、ある人の事をぼんやり想った。


「君も眠れないの?」

 不意に後ろから声を掛けられ、少女は思わずナイフを握りしめた。鋭い痛みが掌をはしる。

 振り向くと、たった今想っていた人が居た。しどけない寝巻姿で、豊かな黒髪がもつれて顔を覆っている。その隙間から覗く大きな黒い目は虚ろだが、奇妙に底光りしているように見えた。

「僕も例の日が近づくにつれて眠れないんだよ。もう君とんだって思うと苦しくてね」

 殆ど囁き声のような、掠れた柔らかい声で呟き、彼は少女の傍らに立った。そして細い手の指の間から血がにじんでいるのに気づくと、繊細そうな容貌に不釣り合いな、大きく骨ばった手で優しく撫でた。

「これは……何をしていたのかな。手の中を見せてごらん」

 声音は柔らかく甘ささえある。しかし抗う事を許してくれそうにない。それでも少女は無言で首を振り、懇願するように相手の目を見た。


 心の中では、幾つもの言葉が渦巻いているのだが、魔女の力によって舌を封じられている。それが人魚としての海の生活を捨て、陸に上がる代償の一つだった。歩くたび刺すように痛む足も、人間と夫婦にならなければ泡になってしまう魂もそうだった。すべては眼前の少年のために払った代償だ。

 彼は嵐の度に海辺へ来て、じっと海を見つめていた。時には波打ち際に下り、荒い波を全身に浴び、ぼんやりした笑いを浮かべてうろついている事さえあった。

 自分よりずっと短い寿命の生き物が、投げやりな様子で命を危険に晒して平気でいる、その刹那的な様子になぜか少女は強く惹かれたのだった。


「君は言葉を持たないんだから、行動で説明するしかないだろう?さぁ」

 細い手首を少年の手がきつく締めあげる。少女は骨が軋む痛みにしきりに瞬いた。その度、黒い目が冷たく輝き、思わず魅入ってしまう。

 痛みと瞳の妖しい輝きに負けて少女は手を開いた。五指が強張って震え、掌に溢れた血とナイフが滑り落ちる。

 血に濡れたナイフを少年は摘まみ上げ、物憂い目つきでじっと見た。

「ああ、これは……海の魔女のナイフだね。博物図鑑で見た事がある」

 彼がそれを自身の指先に滑らすのを、少女は息を飲んで見ていた。ナイフの刃はなんの抵抗も無く、長くしなやかな指の皮膚を切り血をにじませる。

「こんなものを持ってるってことは、やっぱり君はヒトではなかったんだ。そしてこれで僕を殺さなければ、再び海には帰れないってわけね」

 血のにじむ指先を食み、少年は優し気に笑った。

「僕があの女と結婚して、幸せで退屈に死んでいき、君は泡になって、清く虚しい日々を送るより、ずっと僕たちらしい終わり方だ。君もそう思うだろう」

 彼の血と唾液に濡れた指先と、自分の手の中の血を見つめ少女は頷いた。その深い青色の目は、少年と同じ奇妙な光を湛えてぎらついていた。


 明け方の海は凪いでいた。

 浜辺に打ち寄せる波は直ぐで、海面は薄く曇った空を映して白金に輝いている。沖へと流れていく潮流に、二つの人影を乗せた小さな白い船が滑っていく。

 少女は船の端に蹲って、赤い傷がはしっている手の中のナイフを見つめていた。少年は舳先で身を起こし、水平線の方へ顔を向けて緩く湿った風に髪をなびかせている。横顔が日の光を受けて柔らかく輝く。普段は髪でほとんど隠れてしまっている、丸い額の線や頬が可愛らしい。と改めて少女は思った。そして、それが他の誰かの物になることなく、自分にゆだねられようとしている事が嬉しかった。

「ねえ、早くはじめて。誰かに見つかったらおしまいだよ」

 彼方を見つめたまま少年が呟いた。少女は深く息を吐き、ゆっくりと彼の元へ這い寄った。膝が触れ合うくらいの近さで向き合った時、少年は寝巻の前を開き肌を晒した。

 クリームのように滑らかで白い肌には、赤い鞭跡と噛み跡が無数にはしり、鎖骨の下から胸元にかけてと、淡紅色に色づいた両の乳首に銀色の石が光っている。少女はそれらを愛おし気に撫でた。


 最初は懇願されておずおずと、そのうち嬉々として痛めつけてきた。言葉を交わせない分、苦痛を通じて深くで分かり合おうとしたように思われた。

 しかしもし自分と少年が、人魚と人として出会わなくても、いずれこういう結末に至ったのかもしれない。とも思った。


 握りしめたナイフをそっと肌にあてがうと、少年の唇から不規則な吐息が漏れた。大きな手がナイフを握る細い手を包み、ぐいと押し付ける。刃先が食い込み、血がたらたらと流れる。続けて縦横に幾筋も傷が走り、呼気が早くなっていく。

「……キスしながら刺して」

 陶然とした目で少年は囁いた。

 少女は血の気が薄れかけている唇をそっと舐め、唇を絡めると同時に胸元に刃先を滑らせた。触れている舌先が戦慄くのが分かる。

 一瞬躊躇う。

 それを跳ね除けるように、少年の手が己の心臓へナイフ持つ手を深く付き入れる。


 血の味がする。

 生き物の生臭さと微かな塩気が懐かしい海の味にどことなく似ている。


 迸った温かな血が、体を濡らしていく。少女は次第に自分の体が元の形に戻っていくのを感じた。そして、血まみれの唇を離した時、言葉が帰ってきたのに気づいた。

 青ざめ虚ろになっていく少年の顔を両手で抱え、額と額を寄せて瞳を覗き込む。焦点の定まらない目が辛うじて視線を合わせようとしている。

「海の底で、ずっと一緒よ」

 久しぶりに聞く自分の声は酷く震えて上ずっていた。少年は大きく瞬き、嬉しそうに微笑んだ。そして荒い息を吐きつつ、萎えていく腕を伸ばして抱きしめようと身を震わせた。

 代わりに人魚は彼を抱きしめ、一緒に海へと沈んで行った。

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あけそめの人魚 北山双 @nunu_k

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