第16話 一筋の光

 暫しの沈黙が彼らの前に横たわる。

 その無音の中、ふと一つ忘れていた事を思い出した。魔術円陣についての違和感だ。風呂場で一瞬しか見ていないが、あの時、何かが引っかかった。

 詳細が分からなかったから何とも言えなかったが、今、思い返せば一つ思い当たる節がある。


「少し、魔術陣を見してくれないか?」

「え?」


 彼女は頬を赤らめた。


「少しだけですよ」


 そう言うと、シャツの首元のボタンを外し、左の鎖骨辺りのシャツを捲った。そこから、レオが刻んだ魔術陣の一部が顔を出す。


 その魔術陣をレンは机から身を乗り出して、触れた。ふっくらと柔らかい肌。だが、その奥に流れる魔力を彼は感じ取った。エラの魔力でも、レンの魔力でもない第三者の魔力。

 そして、確信する。レンの見出した一縷の可能性が現実になる。


「朗報だ。お前の弟は生きてるぞ」


 唐突なその言葉にエラは息を呑む。瞬きも忘れて、レンの事をただ見つめ続けた。

 だが、冷静な思考が彼女の抱いた希望を拒絶する。


「……もし、本当なら嬉しいですけど、気休めなら結構です。あまり、自分で言うのも何でですが、レオは吸血鬼を前に動けなくなってたんです。彼らがレオを放っておくわけないでしょう」

「俺が気休めを言うような柄か? それに、お前はレオが生きていると信じていたいんだろう?」

「それはそうですけど……」


 それとこれとは話が違うと、言いたげな目だ。


「第一、レオが殺される瞬間をお前は見ていない」

「なら、そこまで言う根拠は何なんですか?」


 その声は悲痛であり、歓喜だ。

 彼女の心の内で、そんな良い話がある訳ないという気持ち、それでもレンの言う事を信じてみたいという気持ち、それぞれが鬩ぎ合っていた。


「簡単な話だ」


 そう言うと、魔術陣から手を離し、自分の席に座り直した。


「本来、魔術陣は術者が擬似的な術式を作り、そこに自分の魔力を流して、その後に自分と魔術陣の接続を解除して初めて成り立つ」


 その説明にエラは首を傾げた。


「それは魔道具のようなものって事ですか?」

「いや、似てはいるが少し違う。魔道具は術式単品なのに対して、魔術陣は術式と魔力がセットだ。つまり、魔術陣は魔道具と違って、自発的に魔術が出せるって訳だ」

「それがどうして、レオが生きてるという事に繋がるんです?」

「まぁ、焦るな」

 

 エラの追求を制して、言う。


「先も言ったが、魔術陣は術者との接続を解除して初めて成立する。そうしないと、永遠と術者から魔力を吸い取り続けるからな。だが、下手な魔術師が魔術陣を使うと、稀に接続がきちんと解除できていない事がある。今回の場合、レオがそうだ」

 

 レンが肩の魔術陣を指差した。


「その魔術陣には魔術を行使するには至らないが、微弱な魔力が現在進行形で流れ込んでいる。それは本来あり得ない事だ。あり得るとするならば、その術者が接続を完全に切れておらず、なおかつ術者が生存している場合しか考えられない」

「じゃあ—」


 エラの顔が途端に明るくなった。その言葉の続きを容易に想像できたからであろう。


「お前の弟は生きている。まず、間違いなく」


 それを聞いて、エラは泣き崩れた。可憐な顔を歪ませて、熱い液体が溢れ出す。掌で押さえても、指の隙間から落ちた水は机を濡らした。

 言葉を発する事なく、ただ、嗚咽の様なものを漏らし続けている。

 

 一方、レンは上を見上げて考え込んでいた。

 他人ではあるが、レオが生きているのはとても喜ばしい事だ。だが、なぜ生きている。吸血鬼は若い血を好む。レオのような幼子を見つけて、放っておく理由はない。

 少し考えて、ある可能性を思いつく。


「感極まってるところ、水を指すようで申し訳ないんだが、お前たちを襲った吸血鬼の襟元に何か描かれてなかったか?」


 エラは泣きはらした真っ赤な目で彼の方を向いた。


「もっと言うと、白い十字架と金色の三日月のような刺繍なんだが」

「え?」


 エラはぼうっと呆けていた。が、言葉の意味を理解する共に徐々に目を開いた。


「ありました! 十字架と三日月のエンブレム! 妙な形だったから記憶に残ってます」

「やっぱりな」


 ようやく点と点が繋がった。


「お前たちを襲った吸血鬼はルーチェの連中だ。お前の弟は差し詰め、家畜といったところか」


 家畜という不穏な響きにエラは思わず眉を寄せる。


「まぁ、そうひりつくな。先ずはルーチェについて話そうか」


 少し息を整える。


「ルーチェは第五真祖を中心とする吸血鬼の犯罪集団だ。表向きは宗教系団体。だが、裏では武器や薬物の売買は勿論、地下社会でのマネーロンダリングや信徒を吸血鬼に売り捌いたりしている。本拠地はイタリアなんだが、その支部がこの街の近くにある」

「真祖?」

「吸血鬼の中で最上位に位置する存在だ」


 それから彼は、二年後、と唐突に言葉を区切った。


「二年後にその支部で宴が行われる。恐らく、お前の弟はその第五真祖の供物として捧げられるはずだ」

「どうしてそんな事がわかるんです?」


 エラは首を傾げた。まだ、レオが生かされている理由には結びつかないからだ。


「吸血鬼は生理的な欲求で血を欲する。別に飲まなきゃ死ぬ訳じゃないが、著しく力は衰えるし、何より永遠と乾きに苦しむ事になる。だが、偶にそんな吸血行為だけじゃ飽き足らず、食人にまで手を出す輩がいる。第五真祖がその例だ」


 レンは腕を組んだ。


「だが、雑食の人間の肉っていうのは思うより雑味が多いらしい。だから、数年は穀物だけを人間に食べさせて、肉の味を向上させるらしい。……どうだ、お前たちが襲われた時期とぴったり合うだろ?」

「たしかに」


 エラは頷いた。


「ルーチェの連中は心から第五を慕ってる。それに、第五の趣味嗜好も熟知している。快楽殺人者の第五が来る前にお前の弟を殺すなんて興がない真似をするわけがない」

「随分とルーチェとやらに詳しいんですね」


 その疑問に、レンは視線を泳がせる。


「昔、色々あったんだ」


 レンは言葉を濁した。それには、これ以上詮索するなという意味も含まれていた。察して、エラは口を噤む。


「とにかく—」


 レンはエラの前に指を二本立てる。


「裏を返せばこの二年、レオの命は保証されている」


 またも、エラは頷いた。


「二年……」


 エラは小さく呟く。

そして、二年という月日を噛み締めた。きっと長い様で短い時間だ。

 レンはゆっくりと息を吐いた。それから、今度は彼が語り始めた。


「俺に師匠がいたというのは話したな」


 唐突な語り出しに少しの驚嘆を混ぜつつも首を振る。


「名をリーベルタース。銀髪の女性で俺が出会ってきた中でも最も素晴らしい師だった。—しかしとある日、その師匠と俺は第三真祖のパックスと交戦する事になった」


 エラは耳を傾けて、無言で頷く。


「正直、贔屓目なしで見ても師匠と第三の力の差はほとんどない。勝てたとは言わないが、惨敗するような相手ではなかった。しかしー」


 レンは逆接で続けた。それで、エラはその後の結末におおよその察しがついた。


「結果は、俺たちの大敗だ。師匠は殺され、俺も命からがら生き延びたに過ぎない。本来、師匠一人で戦ってたならば、こうも痛手は食らわなかった。なのに、どうしてこんな無様な敗北を喫したと思う?」


 意地悪な質問だった。

 エラは少し気まずそうに返す。


「庇いながら戦ったから?」

「その通り」


 レンは拳を握った。そこには、第三真祖への恨みもそうだが、何より、力が及ばなかった事の己自身への怒りが詰まっていた。


「だからー」


 計らずも息が震える。


「俺は師匠の仇を取る為に、復讐する為だけに力を蓄えてきた。お前みたいに大層な決意や信念を持って今まで鍛錬を積んできたんじゃない。この力は奴を殺す為の力だ」


 そして、彼は険しい顔のまま続ける。


「……それでもいいか?」

「え?」

「そんな力でいいなら教えてやるがそれでもいいか、と聞いている」


 ガラスの様な碧眼でレンを覗き込む。信じられないという顔だった。


「教えてくれるんですか?」

「あぁ、気が変わった」


 彼女がその言葉を噛み砕くのに暫しの時間を要した。だが、言葉の意味を理解すると彼女は深々と頭を下げた。長く、ゆっくりと。


「御願いします、師匠」


 この瞬間、レンは本当の意味で師弟になれた気がした。そして、心の内で何かが芽吹いたのを確かに感じ取った。


「明日からは魔術の勉強だ。今日はしっかりと寝ておけ」

 

 そう言うと、彼は席を立った。それから、寝室に向かおうとダイニングを去る際、立ち止まって、一言だけ告げる。


「今日は悪かったな」

「え?」


 師匠の懺悔は弟子には届かなかった。聞き返すものの、彼がそれに答える事はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る