第14話 罪
「城から出たのは久しぶりですね」
エラはくりくりした目でレンを見上げる。腰に差した刀は少女には不釣り合いだ。
「そうだな」
レンはポケットに手を突っ込んで、エラと並び歩く。
この街には絶えず暴力と血の匂いが流れているが、夜はそれが如実だ。雑踏の奥には人と吸血鬼のどす暗い感情が息を潜めている。
「何を探してるんですか」
城を出てから、しきりにきょろきょろと辺りを見回すレンにエラは問いかける。が、それには答えず、レンは引き続き辺りを観察した。そして、見つけた。
「あった」
レンは首を傾げて、路地に目を向ける。エラもその視線を追った。そこで、異様な光景を目の当たりにした。ゆっくりと息を呑む。
そこに居たのは、吸血鬼の男と一人の人間の女。恐らくは三十代後半ぐらいの女は高価そうな衣類を身に纏っている。
が、今はそれらに皺が寄る事など構わず、暴れていた。それもそうだろう。今現在、女の首に吸血鬼の牙が立てられているのだから。まだ、意識はあるようだが、徐々に力が抜けていく手足を眺めて女は絶望に顔を染めていく。
「おい、何ぼけっとしてる?」
レンは呆気に囚われているエラに喝を飛ばした。
「助けてこい」
そう言って、レンはエラの背中を押した。
勢いで、右足が一歩前へ出た。それで十分だった。それでやるべき事は明確に理解できた。
路地に踏み入って、刀を抜き、吸血鬼にそれを向ける。吸血鬼も彼女の存在に気付いて、吸血行為を中断し、彼女の姿を眺める。
「その女性から手を離しなさい」
エラの声は震えていた。彼女にとって吸血鬼に襲われた事はあっても、面と向かって啖呵を切った事はなかったからだ。本当は毎日、刀を交えているが、そんな事は彼女の知る由ではない。
対して、吸血鬼はエラを見て、気持ちの悪い笑顔を顔に貼り付けて、吐息を漏らした。
「今日は幸運だなぁ。女がもう一人、しかも向こうからのこのこやってくるとは」
ゆらり、と吸血鬼が立ち上がった。エラは一度、深く息を吸って、ゆっくりと吐く。酸素が身体中に巡っていくのを感じる。
彼女は暫し吸血鬼の出方を伺った。が、女を解放する様子を見せない吸血鬼に彼女は決意を固めて疾走した。
「らあぁ!」
雄叫びと共に刀を振り上げる。不安と恐怖を払うようにありったけの力を込めた。持てるだけの一撃を吸血鬼に叩き込む、はずだった。
エラが刀を振り下ろすよりも早く、吸血鬼はエラの喉元を掴んだ。彼女の小枝のように細い首など楽に折れてしまいそうな大きな掌で握りしめる。ゴツゴツしているその掌は汗で薄く滲んでいて、お世辞にも心地良いとは言えない生温い感触が彼女の首を覆う。
本来ならば、武器を持たない吸血鬼よりも、刀を持つエラの方が間合いの点で優れているはずだった。が、そんな間合いを嘲笑う様かのように吸血鬼の腕は異形であった。相手は一歩も動いていない。代わりに、腕だけが体の比率に合わず長く伸びていたのだ。
「変身系の、それも肉体改造に特化した魔術か」
レンは弟子の危機だというのに、手を差し伸べようともせずに対決を静観している。
エラは喉に絡みつく様にして離さない吸血鬼の掌を引き剥がそうとするが、盛り上がった筋肉による握力は容易にそれを許してくれない。
吸血鬼はまごつくエラを、腕を本来の長さに縮める事で引き寄せ、その勢いごと彼女を路地の壁に叩きつけた。
エラは小さく悲鳴を漏らし、持った刀を手放してしまった。金属音が響くが、首を抑えられては拾う事も出来ない。鈍い痛みが背中から広がっていき、酸欠で意識が遠のく。刀すら無い絶望的な状況だが、それでもエラは打開の策を練る。
だが、無慈悲にも吸血鬼は残った左腕でエラの首を絞め上げた。もがく彼女は意識も手放しそうに成るのを必死に堪え、一つ閃く。
エラは差している鞘を右手で取って、吸血鬼の顎に叩き上げた。骨を砕く程の威力があったわけではない。しかし、吸血鬼はエラを握る力を一瞬だが緩めた。その隙に彼女は掌を振り解き、転る様に吸血鬼から距離をとって落とした刀を拾い上げた。
吸血鬼の身に起こったのは脳震盪であった。顎を叩く事で、間接的に脳を揺らし、一時的に平衡感覚を奪ったのだ。
「小癪な」
吸血鬼はくらくらする頭を押さえつけ、彼女に対してまたも異様な両手を伸ばした。だが、吸血鬼は人間であるという理由で、彼女が少しばかり腕が立つという可能性を端から捨てていた。
エラは襲い掛かる腕をしゃがんで回避する。それから、頭上を空振った時点で、エラは立ち上がりと共に腕を切り払った。両腕の骨を断裂し、肉塊が落下する。返り血が彼女のピンクがかった頬を濡らす。今度は吸血鬼が苦痛の悲鳴を上げた。
伊達に二週間も剣を振るって、レンと剣を交じえていただけあって、最低限戦えるくらいには成長していた。まぁ、レンがかなり弱い部類の吸血鬼を見繕った事もあるが。
彼女は吸血鬼の懐まで飛び込み、頭を掴んで石畳に後頭部を叩きつける。倒れ込む吸血鬼に跨り、心臓へ刀を向けた。
「今のうちに逃げて」
エラは座り込んで動かなくなっていた女に叫ぶ。
しばらく、放心状態だったが、投げ掛けられた言葉が自分に対してのものだと理解すると、転がったバックを拾って、立った。
「あ、ありがとう」
混乱する頭でどうにか謝意だけは述べると、そそくさと女は路地から姿を消した。
その場にはエラとレンと名の知れぬ吸血鬼だけが残された。しかし、レンに与えられた女を救うという指令をこなした彼女はこれからどうすべきか悩み、吸血鬼に刀を向けて固まったままでいた。
「何してる?」
レンは威圧的に言う。
「さっさとトドメを刺せ」
その言葉は深くエラを抉る。
彼女は目の前の吸血鬼を睨みつけた。この吸血鬼は今までに何人もの命を奪ってきたのだろう。そして、これからもそうだ。吸血鬼は悪であり、忌むべき対象であり、殺すべき標的のはず。だと言うのに、刀を握った右腕は思う様には動かなかった。
吸血鬼の命はすでに彼女の手の中にある。しかし、それを握り潰す程の勇気が出ないのだ。命を奪う勇気が。
「待ってくれ」
揺れるエラに声を掛けたのは吸血鬼の方だった。
両腕からどくどくと血を流し、か細く弱々しいその声はとても先の吸血鬼と同一のものとは思えない。
「もう、人間は襲わない。誰も殺したりなんかしない。だから、俺を殺さないでくれ」
その言葉はさらにエラを揺さぶった。
そして、彼の命乞いは年端も行かない少女にとって、甘い決断を下させるのに極めて有効的だった。
「やめましょう」
「あ?」
エラの呟く様な声にレンは聞き返した。
「やめましょう。私は殺しなんかしたくない」
それに、と彼女は続ける。
「この人も反省しているみたいですし」
エラは嘯く。
その一言が決定的に彼女の甘さを表していた。彼女は吸血鬼に対して「この人」と呼んだ。吸血鬼を人と呼んだのだ。
「—反省か」
レンは彼女の言葉を茶化すように言う。
「とても反省してるとは思えないが」
嘲る様にエラに言葉を投げかけた。
彼女にはどういう意味か、直ぐには理解できなかったが、首元の違和感でその真意を知る。
「なっ」
エラは言葉を失った。
押さえつけていたはずの吸血鬼が常軌を逸した姿をしてたからだ。首がありえない長さに伸び、その先の頭がエラの首に齧り付いていた。吸血鬼独特の二本の牙を立て、彼女の血を吸い取っていく。
「腕だけのはずじゃ」
反射的に頭を引き剥がそうとするが、そう易々とはいかない。
徐々に己の体から血が失われていくのが分かった。指の先から頭まで全身を通う血がゆっくりと姿を消していく。視界が揺れ、世界が大きくうねりをつけて回り出す。
奇怪に変形していく景色の中で、レンの声だけははっきりと彼女の耳に届いた。
「殺せ」
その言葉は今の彼女にあまりに魅惑的だった。
だが、理性がそれを拒む。その一線を超えてしまったら最後、もう二度と戻って来られない気がしたのだ。
「お前みたいな小娘が殺しなんてできやしねぇよ。大人しくくたばりな」
吸血鬼は一度首から牙を抜き煽るように囁く。そしてまた彼女の首に齧り付いた。
よもや、エラにとって正解がどれかなどわかるはずもなかった。
殺しなどしたくはない。しかし、殺さなければ自分が殺される。
朧げな意識の中で究極の二択を迫られた彼女は思考を放棄する。そして、理性でなく、本能を選んだ。
殺したくないという倫理や人道的な選択よりも、今、彼女に絡み付く捌け口のない恐怖を取り除く選択の方が遥かに分かりやすかった。
再び、鞘を握り直す。強く強く、鞘すら握り潰しそうな程に強く。
「ああぁぁぁぁぁぁ!」
その叫びはまるで悲鳴だった。彼女の心の号哭だ。
そして、刃は吸血鬼の胸へと吸い込まれた。エラは自分自身の手で吸血鬼の心臓に刀を突き立てた。吸血鬼は途端に力を失い、頭は彼女の首から剥がれた。ゴスっという音を撒くと、吸血鬼は永遠に沈黙する。そこにあるのは首の伸びた異質な骸だけだった。
呼吸が震える。
「よくやったな」
レンは彼女に近づき、頭を撫でた。彼女は吸血鬼の遺骸を直視できずにいた。
「お前のお陰で救われた人がいる」
励ましか、それとも単なる事実を述べただけか。エラには判断がつかない。だが、その物言いに無性に腹が立った。
「分かってますよ!」
そんなつもりなどなかったのに自然と声を荒げてしまう。
「いや、分かってない」
レンは彼女を撫でた手で頭を掴み、目を逸らす彼女の視線を強制的に死体に向けさせた。彼女にとってそれは地獄だった。横たわる骸と胸から溢れる血でできた水たまりは己の罪の証拠そのものであった。吐き気が体の奥底から湧き上がってくる。
「お前が救ったのはさっきの女だけじゃない。この吸血鬼がこの先殺すだろう人間全てを救ったんだ」
「何が、……言いたいんです?」
彼女の言葉は震えと共に若干の苛立ちを孕んでいる。
レンは諭す様に言った。
「お前がなろうとするヴァンパイアハンターとはこういう事の繰り返しだ。顔も知れぬ、名も知れぬ、そんな人間の為に目の前の吸血鬼を狩る。それがヴァンパイアハンターというものだ」
一度、息を吸って区切る。
「それでもお前はヴァンパイアハンターになりたいのか?」
今一度、レンはその問いをエラにぶつけた。
その場に暫しの沈黙が降りる。そして、彼女は目の前の惨劇を十分に考慮した上で一つの答えを導く。
「はい」
エラはそう呟いた。あまりにも小さくか細い声だったが、その言葉には確固たる決意が込められていた。
これには面食らった。
「なぜだ」
そこに、特別な意味はない。ただ、純然たる疑問だった。
「お前は何のために戦うんだ?」
エラは深呼吸して、荒れた息を整える。
スッと息を吸った。
「弟を、一度見捨てた私の弟を取り戻す為です」
その声には覇気があった。彼女は穴が開くほど死体を見つめて、否、その先にいる何者かを想って、言い放った。
「お前が救いたいと言った相手がその弟か?」
レンとエラが初めて出会ったその日に彼女は誰かを救うためにヴァンパイアハンターになりたいのだと言った。弟というが、それが何者かレンには分からない。ただ、エラにとって限りなく大切な何かなのは分かった。
「詳しく聞かせろ」
それは、興味からくるものだった。エラをここまで突き動かすそれに興味が湧いていた。
「お話します。いずれ話そうと思ってた事ですから」
ただし、と区切る。
「長話になりますので続きは城で」
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