第一章 黎明

第2話 酒場『モーント』

 今夜も街に月が昇る。

 石畳の道路を月明かりが照らして、闇を晴らす。ただ、奥に潜む鬱々とした血生臭い匂いまでは晴らせない。陰惨な空気を撒きながら、街は安らかな眠りについている。


 殺人、略奪、強姦、それら全てがこの無法の街において黙認される。先の大戦が終わり民衆が安堵したのも束の間、かつてドイツという名で守られていたこの地をソ連軍が踏み荒した。

 国境近くの占領地区に人権は存在しない。我が物顔で街を跋扈するソ連軍人に対し、ただドイツ人というだけで殺された人々が死体を晒す。死神すらも慄きかねない死体の群にいつからか吸血鬼も棲みつくようになった。


「愚かだねぇ」


 大通りから少し外れた路地に、ポツリと一つのバーが佇んでいる。周りの民家が、連合軍による爆撃によって本来の役割を果たさず、瓦礫として横たわる中、不自然に倒壊を免れたそのバーは不景気に晒されても尚、営業を続けていた。

 時代遅れのネオン管で「モーント」と飾るそのバーは、雨風で伝統的な木組みの壁は酷く劣化し、さらにその上に覆い被さるように苔が生えていた。日中あまり日の光が差し込まない事も相まって、気分が悪くなりそうな湿気が辺りを包む。


 普段、殆ど客が入る事もなく、廃墟と見間違えられてもおかしくないような空虚さだけが漂うが、今日は珍しく二名の来客があった。

 その内の一人、古めかしいクレイモアを腰に挿し、ドイツ軍服に身を包んだナハト・シュバルツが血が織り交ぜられた真っ赤なワインのグラスを少し傾ける。


「かつてドイツ人はユダヤというだけで彼らを迫害してきた。ところがどうした。今度はドイツ人というだけでソ連軍に暴虐の限りを尽くされている。性別、国籍、民族、宗教、そんなつまらないもので人は他を区別したがる。まったく。皮を剥がせば皆んな人間という種族なのにね。よくも飽きずに愚かな争いを繰り返すものだ。なぁ、君もそう思うだろ、レン」


 甘ったるい声でナハトは尋ねる。一方でレンと呼ばれた男は、近くのカウンターに華美な装飾の刀と淡白で質素な刀の不釣り合いな二本を立て掛け、黒コートを纏っていた。


 レンはナハトとは対照的にグラスのワインをすぐに飲む事はなく、中に入ったいくつかの氷がゆっくりと溶けていくのを感じながら、軽くグラスを揺らす。黒鉄の左眼を閉じ、真紅の右眼で水面に浮かぶ波紋を観察していた。

 カランという心地よい音がバーに響いた。


「ナハト、氷」


レンはナハトにも聞こえるか怪しいほどの小さな声で、しかしはっきりと言った。


「うん? あぁ」


 その意を汲み取ったナハトはレンのグラスに手を翳す。

 瞬間、完璧な球形の氷が現れた。氷はただ一つの気泡さえも許さぬ程の澄み切った透明で、水面にぶつかるとワインを押し抜けて進み、再び浮かび上がってきた時にはワインの色を反映して、血色に彩色されたいた。

レンはまた満足そうに氷を眺める。


「そう思うなら人間を導けばいい。敵を氷漬けにして殺さず全員捕虜として捕まえた東部戦線の英雄、ナハト・シュバルツ様ならここら一帯のドイツ人をまとめ上げてソ連軍に一泡吹かせる事など容易いだろう。そうすりゃ流石にこの地の治安はいくらか良くなる筈だ」

「興味ないね。別に東部戦線にドイツ兵として前線にいたのはあくまで金の為だ。ドイツの味方だとか、ソ連の敵だとかそういうのじゃない。僕にとって興味があるのはお酒とお金と女の子だ」

「最低だな」


 そこで初めて、レンはワインで喉を潤した。軽い酸味と仄かな甘みが絶妙だった。

 ナハトを覗けば、もうグラスになみなみと注がれたワインを飲み干していた。隣にはボトルがさも当然の様に空けられている。


 微小に頬を赤らめるナハト。彼は古い木製のカウンターにもたれ掛けながらバーテンダーでありこの店のマスターであるモーントに次のボトルを要求していた。モーントがカウンターの奥に消えていく。その間、酔いからか手を明後日の方向へ振り続けていた。

 ナハトは酒が好きだが、決して酒に強い訳ではない事もレンは良く知っていた。


「いくら人間に説教垂れても、ナハト、お前だって元人間だ」

「君もだろ」


 ナハトが振り向いた。


「そうだったけか」

「そうさ。極東の『オンミョウジ』とかいう魔術師の家系に生まれたと聞いていたけれど」

「覚えてないな」

「嘘つけ」


 ナハトが茶化す様に言う。

 幾許かの沈黙が降りた後、両者は互いを見合った。視線が交錯すると、思わず彼らの口元が綻ぶ。人の目を気にする必要はなく、ただ彼らは笑った。やはり、レンはナハトと酒を飲み交わす時が細やかな楽しみだった。


 その時、モーントが金色の字を飾るラベルを貼り付けたボトルを抱えて出てきた。レンは酒類への知識は疎かったが、それでも彼が持って来たがは相当な上物だという事は一目見て分かった。


「僕、こんなに高いの頼んだ覚えはないけど?」

 

 ナハトも同じ疑問を吐き出す。

 それに、モーントは少しはにかんだ。


「いえ、これはお二人に差し上げようと思って持って来たものですのでお代は結構ですよ」

 

 その答えにレンは少し眉を顰める。

 だが、その様子に構うことなくモーントは続けた。


「これはここにあるワインの中でも一番上等なものでしてね。私の家宝と言っても差し支えない。それを御二方に飲んでもらいたいと思いましてね」

 

 ますます、レンはモーントを訝しんだ。話が見えない。


「なぜ俺たちにそれを飲ませようとなる?」

 

 モーントはコルクにソムリエナイフを突き刺しながらその問いを聞いた。そして、モーントは慎重にコルクを抜く。少し軽い音がバーに響く。


「いえ、特に深い意味はないのですよ。――実は、近々この地を離れようと思ってまして。それで、ワインの類は全て空けてしまおうかと。それで——」


 そう言って、モーントはもう一つグラスを取り出す。それから、ボトルの底を掴み、丁寧にグラスへワインを注いだ。見事なワインレッドだ。


「私の持つ一番のこれを飲むなら、一人よりも常連の御二方と飲み交わしたいと思いましてね」


 あぁ、なるほど。確かに酒は一人よりも話し相手がいた方が上手く感じる。

 レンはすっと腑に落ちた。そして、少し悪戯な笑みを浮かべて、モーントを見た。


「でも、いいのか? 一応、営業中だろう?」

「構いませんよ。こんな店に来る吸血鬼なんて二人ぐらいしかいませんから」


 彼もまた笑い飛ばして返した。


「それもそうだな」

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