彼の日のパラディズム

多雨書乃式

序章 暁闇

第1話 鬼哭

 彼は鮮血の溢れ出す両腿の断面を無造作にさすりながら固く目を瞑った。もう二度と目が開かぬよう、きつく強く瞼を押さえつける。瞼の裏では脈を打っていた。

 それ程までに彼の脳裏に刻まれたのは悲惨な現状であった。


 もはや誰のものかも分からなくなった血の鈍い鉄の匂い。どこから着火したのか周りの木々は燃え、轟音と熱気を所構わず振り翳す。舞った砂埃が喉の水分を奪っていく。

 結局のところ、視覚を封じたところで他の四感がより鋭くなって、余計に現実をつけつけられるだけだった。


 ふと、汗なのか涙なのか彼自身も分からない液体が瞼の隙間から零れ落ちた。それは頰を伝い、腕を伝い、手の甲を伝い、指の間をすり抜けて、やがて地面に消えていった。

 それが、どうしようもなく不甲斐なくて、遣る瀬無い気持ちが胸の内を埋め尽くす。もはや、吐き気にも似た猛烈な不快感を催した。脳の中を他人の手が乱雑にかき混ぜているかのようだ。


 激情のあまり、思わず強く土を握り締める。一瞬、汗で土が固まったかと思うと直ぐに砕けて散っていく。何本かの爪が割れる。そして、赤黒い血が地面を這う様に広がっていった。


「そろそろ『腕』の場所を吐く気になったか」


 右肩に気を遣りながら隻腕の第三真祖は見下した様な乾ききった声が荒れた戦場に響く。

 その声で彼は場面が終局へ近づきつつあることを察した。彼女の最期を見届けなくてはならない。その思いは鉛の様な重さになった瞼を再び開かせた。


 薄っすらとぼやけた地獄がまた網膜に飛び込んできた。やはり、非情な血と肉の世界は見ただけで人格が変わってしまいそうな程の凄惨さを帯びている。

 彼と彼女が切断と再生を繰り返し続けた腕や脚の類が無尽蔵に散乱していた。酷いものは下半身が丸ごと残骸として残っている。まるで、切り株から新芽が生えているかのように、下半身から脊髄だけ飛び出ているのが印象的だ。


 とても直視出来たものじゃない。だがしかし目を逸らす事も許されない。今まさに彼女は死の淵まで追い詰められているのだから。現実逃避は許されない。それが弟子たるものの責務だ。己の師の死に様はしっかりと目に焼き付けねばなるまい。

 ふとすれば自らの心臓に刃を向けそうになるのを必死に堪え、彼は己を鼓舞した。死んでしまえればどれだけ楽か知れない。だが、そんな甘い逃げ道を当の師匠が許すはずもなかった。


 彼はゆるりと視線を這わせ、仰向けになっている女に目を止めた。彼女ははっきり言って美人であった。高い鼻に見開いた開いた瞳。非常に端正な顔立ちだ。

 そして、なにより目を惹くのはなんと言っても雪のような銀色に輝く髪だ。雪が降りしきり辺り一面に積もっている様子を銀世界などと形容するが、彼女の髪はまさしくそれだった。腰まで伸びた髪を掻き分ければ、ひょっとすると宇宙が広がっているんじゃないか。そんな無限の奥行きすら思わせる妖艶な髪だった。


 だが、そんなフランス人形の様な美貌が霞む程、彼女の格好は常軌を逸していた。

 まず、彼女の血が至る所に滲み出ている黒いスーツ。それから、膝から下を失った右脚。何より、根本から切断された右腕と左脚。

 美人であることが尚、非現実的な現状にギャップを持たせていた。腕や脚の断面は朱色の肉と黄色の脂と白色の骨との境が分からなくなる程に歪曲している。鮮血はただただ溢れ流れる。しかしながら、膨大な血液の海に浮かぶ彼女はそれさえも絵になってしまうのだった。


「……知らない、と再三繰り返しているだろう?」


 彼女は掠れた声を喉から絞り出した。それに第三真祖は聞く耳を持たない。代わりとばかりに、彼女へ突きつけていた大剣へさらに自重を込めた。それを彼女は残された左指の握力だけで握り込んでいた。剣先がただ真っ直ぐ彼女の左胸を捉えている。その行為が示す事象は吸血鬼なら語るべくもない。

 剣が震える。それは第三真祖が彼女の命を本気で絶とうとしている証明であり、その本気を彼女が受け止めている証明でもある。


 だが、それもいつまで持つか。精神面はとっくにすり減っているし、身体面も彼女の体の治りが遅いことが全てを物語っている。

 加え、現在をもって第三真祖の術式を解明できていない。複数種魔術の行使という吸血鬼の身ではあり得ない異様を成したという現状だけが目の前を横たわっているだけで、未だにその究明へは至っていない。


 しかし、彼女はこんな絶望的な状況でも、未だ逆転の一手を模索し続けていた。例え、身動きが取れなくなってもガラスの様なその澄んだ眼球だけが必死に辺りを見渡していた。 

 だが、真っ赤な暗闇の中では一縷の希望なんてないに等しい。反攻の芽があるとすれば、彼女の愛刀が彼女のすぐ右横に転がっていることだろうか。だが、もどかしいことに彼女には右腕が存在していないのだった。


 自分の無力さにただ打ち拉がれた。何も出来ない。何も成せない。彼は静かに奥歯を噛み締めた。力さえあれば噛み砕いていただろう。

 結局、彼は己の非力に溺れながら傍観する他なかった。絶望は彼を呑み、戦う気概も気力も奪っていった。呆然と、緩やかに死へと向かいつつある彼女を眺めていた。


 その時、転機が訪れた。

 ふと、木々の揺れる音がしたのだ。誰かがこの場へやって来たのだろうか。

 第三真祖は新たな敵の予感に一瞬、気を逸らした。隆起した筋肉を緩めた。


 それを、彼女が見過ごすはずもなかった。

 彼女は残った僅かな力を振り絞って、握った大剣を大きく左へ振り払った。それに伴って、大剣は支えを失い、切っ先が地面へと深く突き刺さる。

 その間に、彼女は転がるようにして左腕で愛刀を掴み、残された右脚の付け根を軸として上体を起こす。そして、腕を大きく引いて、第三真祖の心臓へ向けて刺突を放った。


 大剣では流せない。かつ、今までの魔術の発生速度を鑑みる限り、魔術での防御も不可能だろう。つまり、その刺突は不可避の一撃だった。

 彼はその光景に高揚する。己が師は自分の想像を軽々と超えてきた。仰天と歓喜に思わず頬を綻ばせる。綻ばせ、思わず声を上げた。


「いけぇぇぇぇぇぇ!」


 希望の一閃は暗闇を引き裂くように彼の元へ運ばれる。

 だが、その瞬間、目の前に繰り広げられたのはまたしても絶望だった。

何かだ。あり得ない速度で黒い何かが第三真祖の右肩の断面から顕現し、刀を鷲掴みにして止めた。輪郭が定まらず、波のように揺れるそれは強い力で彼女を刀ごと突き飛ばした。

 彼女は近くにあった大木の幹に背をぶつけ、衝撃で肺の空気は思わず溢れ、小さい呻きを漏らす。そして、正体がわからないまま、黒い何かは消滅した。残されたのは絶体絶命の彼女だけだった。

 それに、第三真祖は再び大剣を突きつけ、告げる。


「本当に、『腕』の所在は分からないのだな」

「知らないな」


 不敵に笑いながら彼女は強気に言葉を返した。だが、強気に取り繕っているだけで余裕などない事は誰の目にも明らかだった。彼女は静かに胸を上下させる。

 彼女のその答えに容赦なく第三真祖は大剣を振りかぶった。それが結論だった。

だが、それを振り下ろすより早く彼女が言葉を口にした。


「……一つ、頼みを聞いてくれるか」


 声はか細かった。今にも消え入りそうなその声はいつもの傍若無人で自由奔放な彼女からは想像もできないような声だった。だが、それでも嘆願を口にした。文字通り最期の願いだ。

 彼女のその問い掛けに意外にも第三真祖は手を止めた。


「言ってみろ」


 大剣を頭上に振りかざしたまま言った。いつでもそれを振り下ろせる体勢で。

 それに彼女はありのままの心情を吐露する。


「私は殺しても構わない。だが、お願いだ。レンだけは、彼だけは見逃してくれないか」

「師匠!」


 彼は思わず叫び出した。最期の最後まで庇われてしまう自分の弱さを呪う様に彼は叫んだ。だが、彼女はそれに少し口角を上げるだけだった。彼女にとっては自分の命よりも大切なものがあった。それだけだった。

 その問いかけに、第三真祖は潜考する。そして、結論を出した。


「いいだろう。まだ、彼はその時ではない」


 それだけ呟くと、大剣は速度を持った。第三真祖の答えに彼女は満足そうに微笑む。心底安心した様に彼女は微笑む。


 そして、その時は一瞬だった。

 大剣は豆腐でも切るように滑らかに彼女を切り裂いた。肩口から脇腹へ。きちんと心臓を斬るように第三真祖は大剣を振り下ろす。音はない。代わりに直後、彼女の胸部から上がゴンという硬い音を撒いて沈黙した。

 彼はその光景にしばらく呆然としていた。


「……師匠?」


 そして、ようやく絞り出した声も覇気のない声だった。現実を認めたくなかった。

 彼はじっと返事を待つ。だが、答えは返ってこない。絶命した肉塊が問答を返す理はない。


「貴様!」


 焦燥と怒りを織り交ぜながら彼は叫んだ。その時、ふと彼は足元を見た。そこにはほんのり赤みがかった肌色の両脚が生えていた。先程、第三真祖の大剣で斬り飛ばされた場所だ。今になってようやく、彼女が事きれてようやく、その足が生えてきた。


 もう遅い、と思う。しかし、同時に闘争心が湧き立った。敵討ちなど敵わない事など分かっている。だが、このまま尻尾を振って逃げる事は己の矜持が到底許さなかった。

 そして、レンは己の愛刀、赫蕾を引き抜き立ち上がる。再生したばかりの両脚はあまりにも貧弱で、生まれたての小鹿の様にそれを震わせながら師匠の仇へと刀を向けた。

 それに対し、第三真祖は酷く残念そうに彼を見た。


「お前はもう少し聡いと思っていたのだが」

「黙れ! 己が師を殺されて、黙っていられる弟子がどこにいるか!」


 彼はわざと大きな声を出す。そうでないと、身に刻み込まれた恐怖に食い殺されそうだったからだ。しかし、虚勢である事は震えた切っ先を見れば明らかだった。

 その恐れを押さえつけるように深く息を吸い込み、中段に刀を構える。そして、嫌な思考が巡る前に彼は疾駆した。


 そして、火花が散る。だが、刀が捕らえたのは大剣ではなく中世風のクレイモアだった。彼が第三真祖の元へ飛び込むより前に何者かが割って入ったのだ。

目線を上げると、そこには金髪に翡翠色の眼球の男がいた。


「誰だ、お前?」


 ゆらりと立つ金髪の男は路傍に咲く一輪の花の様に気高く立ちはだかる。


「いや、誰でも良い! そこを退け! 貴様も叩き斬るぞ!」


 激昂するレンは入ってきた彼もろとも斬り伏せようとするが、刀もクレイモアも微動だにしない。そもそも、疲弊しきった彼の力など高が知れていた。

金髪の男は静かな口調で言った。


「君は師匠が己の命を賭して君を守ったのに、それを無下にする気かい?」

 その者は諭す様に、彼に言った。その物言いに彼は無性に腹が立った。何故ならそれは正論であったからだ。


「お前に何が分かる! 師匠を失ったこの気持ちなど!」

「分からないよ。その気持ちは君だけの気持ちだ。だから、僕には分からないよ」


 男の口調は優しかった。その口調のまま男は続けた。


「でもだからって君はその激情に身を任せて彼女と共に心中するのかい? 彼女はそんな事を望んでいたの?」


 言葉に詰まった。またしても正論だった。しかし、一度湧いてしまった憎しみを止めることは出来なかった。理屈では説明できない憎悪が彼の心に巣食ってしまったのだ。


「黙れ! それ以上口を開くな!」


 彼に残されたのは愚直な否定だけだった。

 それに、男は少し溜め息を吐く。


「そうか。……残念だよ」


 本当に残念そうに男は呟くと、クレイモアで刀を払った。その衝撃で彼は身を大きく反らす。その隙を突いて男は彼の首の側面へ直角に柄頭を打ち付けた。その途端、彼の体は力が抜けてしまった。

 その様子を第三真祖は少し意外そうに眺めていた。


「ナハト、お前が出てくるとは思わなんだ」


 第三真祖は滅多に感情を出す事がなかったが、今は驚きがその顔に滲み出ていた。

 それに対し、男は犬が時折見せるような獰猛な眼差しで見返す。


「あなたにはもううんざりなんですよ」


 そして、男は彼の肩を持った。

 彼は緩やかに微睡んでいく中、明確な敵意を持って第三真祖を見返す。


「覚えたからな!」


 彼はその顔を瞼に焼き付け、そして言う。


「いつか、必ず殺す」


 その時、彼は復讐を誓った。

 直後、彼は意識を闇へと手放した。


 そうして、とあるドイツの山村での事件は幕を引いた。

 一人の吸血鬼の怨嗟を残して。


 そして、およそ百年の時が流れた。

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