幕間

050 悠川未散 1

 あの頃。岡崎おかざき先輩はあたしにとって、朝一番の快晴、みたいな人だった。


 見ただけで元気になる、っていうか、今日も頑張ろうって気持ちになれるっていうか。でも学年が違うから会えるかどうかはその日の運で、そういうところも快晴の空っぽい。雨の日もある、先輩に会えない日もある。それは嫌なことじゃなくて、しょうがないこと。


 でも、天候と違うところもあって、それは確定で会える日があるってところ。


 二年生の二学期。放送委員会に所属していたあたしは、同じく放送委員会の岡崎先輩の相方を務めていた。


 相方といっても、そんな大仰なポジションじゃない。あたしたちは漫才師じゃないし、夫婦でもないし、委員会の仕事のペア。先輩が音響卓を操作して、あたしがアナウンサー。ただそれだけ。


 仕事内容は焼き回しのルーティーンだし、台本に沿って行うだけ。そんな、週に一度のたった十五分間の共同作業だ。


 それでもあたしたちは男と女。それで、一対一の特別な役割を一学期から半年近くも担わされていたら、そりゃあ変な気も──


「聞いてくださいよォ、岡崎先輩ぃ~。今日ね、今日、矢端やばたくんのビジュがね、もうエグくて……なに、あれを天使と呼ばずしてなんと言う? 分かんない。もう、ガチ、網膜がもたない。焼ける、あまりの美しさに、網膜が焼き切れる」

「へぇ~」

「ほんっと、恋って人生イチのイベントなんだな。あたし矢端くんを好きになってよかったって、心から思う。だってほら、毎日が輝いて見える! 発光して……ん……ちょまって、毎日って光ってない? まぶしっ」

「そうだねぇ」

「ほら、あたし、心配しいなところがあるじゃないっすか? 今日もちょうど、心配になることがあって……もし、もしもですよ? 矢端くんと付き合えたら、あたし心臓が破裂しちゃうんじゃないかって……」

悠川ゆうかわ、放送開始二分前」

「ッ! やばッ! 準備します!」

「おう。あと、こんどノロけ爆発したらオンエアボタン押すから」

「ノロっ……やだぁ、先輩ッ。それ、まるであたしと矢端くんが付きっ……もー! もう! もうっ!」

「一分前」

「み゛ゃ!」


 あたしたちは男と女で、一対一の特別な役割を半年近くも担わされていたわけで、そりゃあ変な気も──起きないんだなこれが。


 起きないから、あたしは遠慮なく好きな子の話を先輩の前でできる。それ以外の好きなことも、最近ハマっていることも、その場で思いついたしょーもないこともぜんぶ、気兼ねなく先輩にぶつけられる。先輩は、それを絶対に否定しないで受け入れてくれる。マジで晴れ渡る空みたいに広い心。透き通った空みたいな、清々しい関係性。


 そこが、いいところ。


「じゃ、始めるぞ」

「おけっす! ……ンんッ……こんにちは。九月七日、お昼の放送の時間となりました。本日は、放送委員会二年、悠川未散みちるが担当します──」


 それが岡崎先輩のことを気に入っていた理由。


   ***


 ところで「矢端くん」とは、同じクラスの矢端慎太郎しんたろうのことだ。


 バレー部所属で、ポジションはセッター。影山飛雄。何度か練習試合を見に行ったことあるけど、コートの中の矢端くんはマジでヤバ。俊敏な動きでボールの下に潜り込み、アタッカーに正確なトスをあげる。その一連の動きったら、もう芸術の域。真剣な眼差しがいい。


 でも、ひとたびコートの外に出れば、目元をクシャっとさせて天使のような笑顔を浮かべるんだ。そのギャップにやられる女子は多くて、かくゆうあたしもそのうちの一人。いうまでもなく女子人気ランクは堂々のtier1だ。しょうがない。あんなにカッコよくて可愛かったら、もうしょうがないよ。遺伝子に刻み込まれているんだって、あたしたち女子は。生まれながらにして、矢端慎太郎に恋をするようにできてんだ。


 一方、岡崎陽平ようへい。彼には魅力の幅がない。


「先輩ねぇ、顔は悪くないんですけどねえ。なにもかもが想像の範囲内ですよね」

「おう。なんで急に刺されたんだ僕は」


 お昼の放送おわり。放送室の中で給食を食べながら、あたしは岡崎陽平に対する考察を行っていた。


「いやね、ふと思ったんです。岡崎先輩、すっごくいい人なのに、こう胸がトキめかないのはなんでなんだろうって。矢端くんとの違いはどこにあるのだろう、と考えていたんです」

「だれがそんなこと頼んだよ」

「頼まれるとかそういうんじゃなくて、あたしの個人的な興味関心です」

「なら心の中でやってくれ。せめて僕のいないところで頼むわ。泣いちゃうから」

「……あ、そっかそれですよ。それ! 泣いてみましょうよ、先輩」

「どうしてそうなる」

「要はギャップっす! 先輩にはギャップが無いんす! ほら、泣けば多少のギャップは生まれるじゃないですか!」


 これは我ながらナイスアイデアだと思った。けど、先輩は「はぁ」と呆れた表情を返してくれた。なんだよー、いいこと言ったのによー。


「悠川は根本的に間違っていて、そもそも僕は矢端くんとやらになるつもりはない」

「ええッ!? なんで!?」

「矢端くんとやらをまったく知らないからだよ。それに……お前からモテてもなあ」

「うーわ、」


 いまの先輩の発言、さすがに失礼だと思った。まあ意趣返しと言われたらそれまでだけど、でも宣戦布告だと誤訳したって仕方ないことをおっしゃられたと思いますよ。なのであたしは、右拳で先輩の肩に軽めの一発を入れてやった。


「っ! 悠川、やったな」


 すると先輩は、最高のリアクションをくれる。想像の範囲内、いいや、期待通りの、いちばん気持ちのいいリアクションを。


 あたしは、その顔がもう一度見たくて、再度先輩の肩に右拳で触れる。


 先輩はまた顔をしかめて、けど口角の端だけを吊り上げて、目線をくれる。


 それが、ホントたまらない。


「やっぱ、いいっすね。岡崎先輩は」


 なにがだよ、と先輩が言う。


 ならばとあたしは、その質問に対する真摯な答えを口にする。


「チーズ月見バーガーみたいでいいな、って言ったんです」

「だからマジでしっくりこないんだよ、お前の喩え」


 ま、それでもいいです。伝わらなくても。


 その日の給食の献立はあんまり好きじゃない栗ご飯で、ちょっとテンションが下がっていたけれど、先輩のリアクションで帳消しになった。明日からも楽しく生きれそう、とまあ、そんな大げさなことさえ、あたしは思っていた。




 でさ、それは本当に大げさなことだった、って思い知るのは帰宅してすぐのことだった。



 

 ただいま、と誰にも聞こえないくらいの小声で言って、玄関の扉を開ける。あたしの家は一軒家で、自室は二階の突き当たり。一直線で部屋に向かった。


 その途中の廊下で、あたしは運悪く、兄と鉢会った。


「……未散、はやいじゃん」


 兄が足を止めて、そう言った。それに吊られて、あたしも足を止めてしまった。不覚だった。すぐに歩き出して、兄の隣を通り抜けようとした。その時、


「挨拶くらいしてよ」


 兄の声が背中に突き刺さった。


「なあ。おい……みち、」

「なにっ!? なんか用事ッ!?」

「……いや、別に」

「だったら話しかけないで。あたし、宿題あるからッ!」


 無理やりに兄を振り切って、自室の前まで歩く。ドアノブに手をかけ、捻る。ドアを開けて、部屋に入る。その間際、兄が口にした、


「…………。ごめんな」


 その謝罪が、あたしの内なる罪悪感を一瞬にしてかき立てた。


 後ろ手でドアを閉める。その場でへたり込んで、泣きそうになる。


 正直に言えば、この頃のあたしは兄のことが嫌い──というポジションから抜け出せずにいた。


 ポジション、とは変な説明だな、って自分でも思う。でもそう表現するしかないのだ。


 きっかけは、去年の春だった。兄が地元最難関の進学校に入学した。あたしの両親は二人とも地元のそこそこの公立高校出身で、だからこそまさか子供がそんなハイレベルな高校に進学できるとは思ってもみなかったようだった。合格当時の喜びようったらもう、思い出すだけで笑える。父も母も抱き合って号泣して喜んでさ、隣にいたあたしも誇らしくなっちゃって、そのハグの輪に自分から入っていったっけ。いま思い返してみても、我が一族のハイライト。兄、難関校に受かったってよ。


 でも、それが始まりだったんだなあ。


 これは直接両親の口から聞いたわけじゃない。でも、二人の言動から察することは容易かった。


 どうやら両親は自分たちの人生のすべてを兄一人に全ベットする、って決めたらしい。


「みっちゃんはね、大丈夫よ。どこでもいいから高校を卒業して、そのまま働いていいの。勉強は頑張らなくても、それなりでいいのよ」


 母は唐突に、あたしの幸せの形を勝手に決めつけ始めた。


 父も同じだった。


 実は、あたしには密かに夢があった。芸術が好きだったのだ。小学生の頃、美術館に連れてってもらったことがきっかけだ。それで、学芸員という仕事に興味を持った。あたしは、芸術に関わる仕事がしたかった。


 そのためには大学を出なくてはならなかった。ソースはネット。人文系の学部でも、美大でも、とにかく芸術に関する勉強をして資格を取る必要があるらしかった。


 だからその旨を父親に、遠回しに伝えたことがある。


「美術館で働く、かぁ。……いいんじゃないか、夢を持つことは」


 そう言ってくれたときは嬉しかった。でも、すぐさま、


「いまはそれでいいと思うぞ。高校に行ったら、もっと素敵なことに出会うだろう。そうしたらまた考えればいい」


 それって、否定だ。十三歳のあたしにだって、それぐらい分かった。


 兄のせいだ、って思った。

 お兄ちゃんがいいとこに合格したから、両親はあたしの将来を考えることを放棄し始めたのだ。


 ムカついた。だから、キレた。兄と喧嘩した。


 なんであの高校に合格したの、おかげでお父さんもお母さんもあたしの話に耳を貸さなくなった、ぜんぶお兄ちゃんのせいだ、最悪だ、あたしの将来ぶちこわしたんだ……そう怒鳴り散らして、以来、あたしは兄と絶縁中だった。


 心の底では分かっている。兄はなにも悪くない。でも、ああやって喚き散らしてしまった以上、もう仲直りなんてできなかった。


「ごめんな、って……なに、」そういえば、喧嘩してから初めて兄に謝られた気がする。「お兄ちゃんに八つ当たりしたのはあたしなのに……なんで……」


 自室のドアの前で、ついにあたしは涙をこぼしてしまった。やるせない。行き場のない悲しみがある。


 どのくらい泣き続けただろう。気づけばあたしは眠りに落ちてしまっていて、いつの間にか朝だった。目が覚めたのはベッドの中。無意識のうちに自分でベッドに入り込んだのか、あるいは……深く考えることをやめて、あたしはリビングに降りた。


 朝食中も、登校中もずっと暗い気持ちは消えなかった。それどころか、ずいぶんと長いこと引きずってしまった。あたしは一週間ものあいだ、へこみつづけた。


 いいや、違うな。一週間、というと、時間が解決してくれたみたいな聞こえ方になる。


 そうじゃない。そうじゃなかった。

 あたしが立ち直るきっかけは、他にあった。


 水曜日が来た。放送当番の日だった。


 昼休み。あたしが放送室に入るやいなや、岡崎先輩と目があった。直後、なんだか不思議な間が生まれた。先輩と目が合ったまま、数秒の沈黙が流れたのだ。


「……ん、なんすか」


 その沈黙がなんだか違和感で、あたしはそう訊いた。すると、先輩が口を開いた。


「なんすか、じゃなくて。逆に、なに?」

「え?」

「いや、だから。……なんでそんな元気ないの。いつものハイテンションはどうしたよ」


 なにもかもが想像の範囲内であるはずの先輩の口から、想像の範囲外な言葉が飛び出てきて、そこであたしは気づく。


「悠川、なんか嫌なことあった?」

「え、え……べつに、そんなんじゃ」

「だってお前、そんな感じなの初めてじゃん。おかしいでしょ」


 この人の底知れなさに。


 ……違うな。もっと端的に言おう。


「おっ、おかしくないっしょー! いや、聞いてくださいよ! 今日も矢端くんが──」

「いいから」

「…………え」

「無理しなくていいから」


 岡崎先輩の魅力に、だ。


 なに。こちらこそ、なに? って感じだった。待ってよ、先輩ってそんな気が回るタイプの男だっけ? あたしがヘコんでることに気づくような、デキた人間だっけ? ちょっとまってよ、それってちょっと解釈違いだ。


 先輩は魅力の幅がない。ギャップがない。到底、男として矢端くんに敵わないし、遺伝子レベルでも好きになるはずがないのに、そんな……って待って、あれ? 好き? ちょっとまった、気を抜きすぎだぞ、あたし。いま、無意識で頭に浮かんだその二文字、先輩に当てはめようとした? それ、やばくないか?



 あたし、岡崎先輩のことが……好き?



 嘘だろおい。ちゃんちゃらおかしいぜ、ガチで。


 ありえない。フツーに考えて、ない。ないはず、なのに。


「……なははー。えーっと。……先輩、女子が傷ついているときって、あんま触れない方がいいんすよ。知ってました?」

「え、あ。……ごめん。そうなの」

「はい。デリカシーってやつ、足りないっすね。そんなんだから、先輩はいつまでたっても矢端くんになれないんす」


 暗闇に沈んでいた心はいつの間にか晴れ渡っていて、やっぱり先輩は、朝一番の快晴、みたいな人だと思った。


「……初めてクリティカルヒットしたわ。僕、矢端くんにナリタイ……」

「おーおー。正直でよろしいですねえ。精進したまえよ、矢端くんになれるように」




 

 そして、その日を境にして、


 誠に不覚極まりないのですが、


 岡崎先輩は、あたしの好きな人になった。

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