幕間
046 びちこ
夜にはいろんなものがある。たとえば、街灯。街灯は、明媚。首をもたげているようなフォルムがいい。ゆえに寂しげ。昼は人通りが多いこの道も、さすがに真夜中は静か。暗闇のなかでポツリ佇んで、誰が通るでもない道を照らす。通行量に比例して縮小された太陽みたい。
視線を遠くへ向ければ、街灯が列をなしているのが分かる。そのおかげで見える、シャッターを下ろしたタバコ屋。役目を終えた自動販売機の抜け殻、その横にいまだ在り続ける缶専用のゴミ箱。口からハミ出たビニール袋。マナーがなっていない人間の跡。
夜にはいろんなものがある。そしてたとえば、私。夜を歩く、独りで。私のルーティーン。
三日間も君から着信がない私に残された、いま現在において唯一のルーティーンだ。
***
ごめんね、さくらん。
あの一言のせいで、私は三日間もおあずけを食らっている。おあずけ、と言うと君からの電話を毎晩心待ちにしているみたいなんだけど、まあ実際、そう。私は、君と話すのが結構好きだった。
会話のテンポ感がちょうどいいわ、からかった時のリアクションはいいわ、真面目に人生と向き合う君の健気さは可愛いし、地味に声が好き。実際に話している時には分かんなかったけど、ちょうどいい音域なんだ、君の声は。
だから寝る前に心を落ち着かせるのに、すごくいい。
君と夜の電話を始めてから、一日の時間の流れが倍速になった。退屈が半減された、というべきか。
マラソンでゴールが見えると一気に力が湧いてくる、みたいなのに近い。その日の着地点に君との電話があるなら、どんだけしんどくても今日ぐらい気張ろうかな、ってなれるんだよね。
だというのに。
この三日間、退屈の総量が元に戻ってしまった。
「……君の繊細さを、軽んじていたなあ」
夜道、足を止めてしまった。それからひとりごちた。
他責っぽい言い方だけど、本当は私のせいだって気づいている。あんなこと言わなければ、の方じゃない。喋りたいなら私からかければいいのに、の方だ。
ふと私は、最近お気に入りで着けているピアスを右手で触った。三日月形のピアス。君と会う時には、あまり着けているところを見せたくないなあ、ってちょっと思う。なんでだろう? 私っぽくないから、かなあ。
ううん。君の前で演じている私、っぽくないから、だな。
夜空を見上げる。今日は月が綺麗だな。明日は満月らしい。君と見たいな、見られるかな。無理かな。もう電話、かかってこないのかな。
なんて、似合わない女々しさが鼻の奥をツンと差した時、
「…………あはっ。まじでぇ?」
私のスマホが震えて、『さくらん』という名前が画面に表示された。
***
「やっほ、さくらん」
「ああ。……久しぶり」
「だねぇ。たった三日だけどさ、ずいぶん長く感じたよ。焦らさないでよね」
不思議。君の声を聞くと、一瞬でこのモードの私に戻れる。勢いがついた。
「君が会いたいって言ってくれたこと、嬉しかったよ」
とはいえ、はしゃぎすぎだろうか。通話開始早々、私はそんなことを口走ってしまった。
ちょっとだけ、頬が火照る。直接顔を突き合わしていないからこその油断だ。こりゃあマズい、しゃんとしろよ、と私は心のなかで私を諫めた。
「だってそんなの、告白みたいなもんだもんね?」
で、冷静沈着に、私は冗談を吐いた。そのおかげで、感情の針が真ん中に戻った。
君も、なのだろう。
久々の電話だったから躊躇いがあったのか、最初は暗いトーンの声だったのに、
「違うわバカ」
この調子だ。間髪入れずにバカ呼ばわりですよ。
いいね、私たちらしいや。
その会話は、三日間の空白を一気に取り返すようなラリーだった。
「ねぇ、即答はひどくない?」
ならば、と私はもっと調子に乗る。いつも通りの会話を所望するよ、という明るいトーンで話しかけた。のに、
「だって、告白するに至るまでの感情がないから。まだ君のことを知らない、から」
君の声はまた、暗く低く、落ちていった。
というか、なに。それ。ちょっと、真剣みが強いよ。
「それって、私のこと知っていった先には告白する未来があるって聞こえるよ?」
「…………」
「…………黙らないでよ」
私は混乱する。そして、その混乱は、
「とにかく、違うっての。今は、まだ」
君の発言で、さらに加速した。
やっばい。分かんない。また分かんなくなっちゃった。私、どのテンションでいればいいんだっけ。どれくらい軽いノリでいれば、どうやってからかえば、おどけた感じで君が応じてくれるんだっけ。
三日間の空白って、そんなに重たいもの? 私たちのノリを封じるほど影響があるものだったの?
嫌な感じがした。
「でも、私たちには約束があるでしょ? 偶然、三回会えたら、っていうさ」
「それ、本当にできると思ってるのかよ。もう四か月も経ってるのに」
強い語気。スマホ越しに焦りが届く。……焦り? なんの。
「私たちが運命の相手だとすれば、よゆーで可能でしょ」
ねぇ、もしかしてだけど。それって──
「もしこのまま高校を卒業して大学に行くってことになったら。どっちかが、この街から出ることになったら。よけい会えなくなる。なにも、ハッキリしないまま、会えなくなるんだよ」
──私に会いたい、っていう焦りなの?
「君は、どうしてそこまで偶然にこだわるの」
思わず、夜道でしゃがみこんでしまった。左手で顔を覆う。誰に見られるでもないのに。夜には私ひとりなのに。けれど頭上の街灯は、たまたま私の居場所を丸く切り抜くように照らしていて、それがスポットライトみたいで、ともすれば私のこの葛藤はまるでドラマのワンシーンみたいに大げさなものに思えてしまう。
それも私には似合わないから、頭を揺さぶって、葛藤を振り落とした。
必死に頭を働かせる。この場に似合わなくても、私に似合うセリフを拵える。
どうしてそこまで偶然にこだわるのか。
その質問に対応する、私らしいセリフを。
「いいね、その質問。じゃあそれさ、報酬にしようよ」
なんとか捻り出せた。言葉を継ぐ。
「二回目の再会が叶ったら、その理由、教えてあげる」
「…………報酬」
「そう。だから、今晩はここまでにしよう?」
で、私が出した結論はこれだ。戦略的撤退。無様だけど仕方ない。
私は君が応じてくれることを願った。
「わかった」
でも、私の願いは虚しく、
「決めた」
君はそう独り言を口にしてから、
「君を見つけ出すことに、決めたよ」
「……へ?」
──突拍子もない宣言をくれた。
「ちょっとまって、どういうあれ?」
「確かめたいんだよ、僕は。どうしても。だから、君を見つけ出して、再会する」
待って。待ってってば、さくらん。君は何を言っている?
私を見つ出す? なにそれ。ていうか、それ、アリなの?
「君は会おうとしなくていい。僕が会いに行くから。そうしたら、そこに約束はないだろ? それって偶然ってことにならないか?」
屁理屈だ。めちゃくちゃな屁理屈が出たよ。君ってそういうの言うタイプだっけ?
しかも、私に言っちゃうんだ。言わないでおいてくれたら、その上で探し出してくれたら、純然たる偶然ってことにできたのに。潔いというか、愚直というか。
でも……今日一番バカげた発言だったことは確かかもしれない。
だとすれば、それって私たちらしい。
突飛なボケをして、正道のツッコミで返して、それは下ネタであることが多いんだけど、ともかくそうやってバカバカしいことを言い合うのが私たちだった。そうだった。
おかげで、私も調子を取り戻した気がするよ。
「……ふぅん。ちょっとカッコいいじゃん。濡れそ」
「バカにすんなよ」
「してないよ。身体は正直なんだ」
「それ、竿役のセリフだろ」
「竿役とか言わないでよね、生々しい」
「君が言うか」
私は笑った。電話越しに、君も笑った。
ほんのわずかな間だったけど、笑い合ったことで冗談を言う元気も出たよ。
「…………。いいよ。それだったら、偶然の範疇ってことにしてあげる」
そうして、私は冗談を言った。そう、こんなのあくまで冗談だ。
「さくらんが私を見つけてくれること。楽しみにしてるから」
本気になんてしないから、本気になんてしないでよね。
まだ名前も知らないくせに。私のこと、何も知らないくせにさ。
できることならやってみてよ。会いに来てみせてよ。
それから私は、まるで宣戦布告のように、
「絶対、私を見つけてよね」
あるいは君に願いを託すように、言った。
「ねぇ、さくらん」
「なに」
「明日もちゃんと、電話してくれる?」
「うん。する」
「そっか。ありがと」
そして、私は最後にこう言い残す。
「じゃあ大丈夫。ちゃんと、私たちの関係性は育ってるよ」
......
............
........................電話が切れた。
夜。ひとり。
スマホをポケットにしまって、街を歩く。一歩踏み出す。
耳の下、三日月型のピアスが揺れる。きっと街灯の光を反射して、綺麗に夜に映えているだろう。私はその、世界でいちばん小さな三日月に触れてみる。
再び夜空を見上げれば、もう少しで満ちそうな本物の月があって、それには触れられない。当り前だけど、少しだけもどかしい気持ちになる。
さくらん。君も、もどかしいんだろうか。
私は私なりに、私を演じている。本物はまだ、君には触らせない。
私もまだ、本物の君に触れられない。たった一度の再会じゃ、足りないもの。
だからやっぱり、そういうことなのだろう。
どれだけ演じたところで、自分を騙したところで、本心は、
「…………会えるの、楽しみだね」
その言葉が君に聞かれなくてよかった、と私は思った。
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