Episode 07
036「じゃあ代わりに、三回会えたら」「グレードダウンは嫌」
高校二年生の夏は、人生で最も素晴らしい季節だ。
一年前よりも豊かな人間関係があり、一年後に待つ大学受験がない。つまるところ、青春を邪魔するものが不在で、青春を演出してくれるものに満ちている時期だってこと。
これは僕の持論というわけでなく、叔父の言葉である。
お盆に母方の実家に行ったとき。叔父は缶ビール片手に、「人生とは」「青春たるもの」といった内容を滔滔と語り聞かせてくれた。
『いいか、陽平。だからな、この夏を無駄にしちゃいけねえ。男友達とハメをはずせ。女と触れ合え。いけるところには全部行き、やれることは全部やれ。この夏は二度とねえぞ。人間の価値はな、目の前にあるものをちゃんと掴めるかどうかで決まるもんだ。掴めよ、この夏を。決して逃すなよ、青春を』
持論というわけではなかった。しかし、叔父の言葉を聞いた瞬間、それが僕の持論になった。
そんな人生で最も素晴らしい季節を僕は、
「結局、無駄使いしたってわけね」
「や、やめろっ! 現実をつきつけるな!」
電話越しで、にひひ、という笑い声が聞こえた。
「あ、あとな、夏はまだ終わってない!」
「さて、問題です。さくらん。今日は何月何日でしょう?」
「八月二十五日」
つかのまの、沈黙。
の、のちに、僕らの声が重なる。
「な? あと六日もある」「もう六日しかないじゃん」
声は重なったけれど、しかし真逆のことを言っているというのが、どうも彼女の笑いのツボをついたらしい。
電話越しの女子高生──びちこ。
彼女が、愉しそうに、笑った。
***
僕とびちこ。
二度しか会っていないのに、交流は毎晩の通話だけなのに、なぜだかこの不可思議な関係は夏よりも長く続いている。
次に会う予定などあるわけもなく、たった二回の出会いで生まれた思い出もなく、ともすれば共通の話題もないのに、僕らの会話は尽きない。
それもまた、不可思議だ。不可思議だけれど、何十日もそれが続くと、もはやそれこそが当たり前のようにも思えてくる。世の男女もこうして関係を育んでいるんじゃないか、とさえ。実際に顔を合わせるほうが異端なのでは。
とか、僕が言うと、びちこがマジメなトーンで返答した。
「さすがにそれはないでしょ」
「ですよねー」
「どうしたの? 変なこと言って。夏の暑さに頭でもやられたの?」
「そんなわけないだろ。何故なら夏は始まってないんだからさ」
「お、今度は自分勝手に現実を改変する手に出たか」
「現実改変? バカ言え。現実は変わらない。ゆえに今のは現実逃避だよ」
「そっか。それは悲しいね」
茶化すでもなく、煽るでもなく、平坦なトーンでびちこがそう言ったものだから、よけい悲しくなってしまった。
「なあ」
「なに、さくらん」
「君は、この夏、なにかした?」
なんて、尋ねてみる。
ほとんど毎晩通話しているから、彼女がその日なにをしてたとか、なにをしなかったとか、したかったとかできなかったとか、そういう話はいくつか聞いているし、知っていた。
そこから推測するに、びちこもまた、あまり大差ない夏を過ごしたようだった。
どこか旅行に行ったり、夏祭りに繰り出したり、花火を見たり……そういう話題は無かったから。
し、
「かくいう私も、つまらない夏だったよ」
びちこも、ハッキリとそれを認めた。
「だってさー。私もね、さくらんほどじゃないけど、友達が少ないんだ」
「なんでいま、シレっと傷つけた?」
「だからさ、まあ、予定なんてあるはずもなく」
「僕のツッコミはスルー?」
という追いツッコミさえも、びちこはスルーして、大きなため息をついた。
それから、数秒の間をおいて、彼女は小さな声を出した。
「ねぇ、さくらん」
「なに?」
そして、すぐさま、
「いまから、作らない?」
言った。
「なにを?」
「夏の思い出」
どういうことだよ、と僕が胸中で呟いたのとほぼ同時に、びちこは次の言葉を吐いた。
「もう夏祭りとか花火大会とかはあらかた終わっちゃったけどさ、いまからでも出来ることって、あると思うんだよ。浴衣着てさ、河川敷にでも行ったりなんかして。そこで二人きり手持ち花火でもしようよ。それか、海を見に行くとか……水族館でもいいな」
ちょっとだけ、僕は驚く。
なんというか、びちこらしからぬ提案だった。
「さくらんの言う通り、まだ夏が始まってないならさ、私たちふたり、急いで始めたほうがいいんじゃないかなとか、思うんだよ。どうだろう?」
これまで、びちこが僕を遊びに誘うことなんてなかった。
毎晩決まった時間に電話して、眠くなったら切って、また次の日。それが僕らの関係性なのだから。
それに、だ。
「なあ。三回会えたら、の約束はどうなったんだよ」
僕はずばり、言ってやった。
「この広い街の中、どこかで偶然ばったり会えたら……とまあ、そんな感じの約束だっただろ」
「……」
「それ、君が言い出したんじゃなかったっけ?」
言って、沈黙が返ってきて、僕も黙ってしまう。
なんだろう。意地になっているんだろうか、僕も。
けれど、なんとなく、僕はこの関係性を気に入っているのだ。いつかどこかで偶然会うことを楽しみにしている僕がいるのだ。
「……じゃあ代わりに、三回会えたら、河川敷で花火するってのは、どっすかねぇ……」
「……グレードダウンは嫌だなあ」
「さいですか」
また沈黙。
その沈黙を、僕は深読みしてしまう。
びちこは何を考えているのだろう。僕との約束を反故にしても、この夏を取り返したくてたまらないのだろうか。
それとも、約束なんてそっちのけにして、僕と会いたがっている?
まさか。
いや、でも。
「しょうがないなあ」沈黙を遮るように、びちこがわざとらしく明るい声を出した。「じゃあ、二人仲良く過ごす夏は、来年以降に持ち越しだね」
とか、びちこが言うから。
さっきの「まさか」が、あながち間違いでもないような気がしてしまう。
どうなのだろう。
僕とびちこ。
何かが、変わってきたのだろうか。
「だな。来年は、そうなれたらいいな」
「それ、本心ってことでいいんだよね? 言質、とったからね?」
そんなことを考えている、高校二年生の夏。
人生で最も素晴らしい季節が、まもなく終わろうとしていた。
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