034「だからさ、もしも──」「三回、会えたら、な」
どうやらそれは通り雨だったようで、高校の屋上で僕ら、とりとめもない会話を幾つか交わしているうちに、雨は上がっていた。何かがリセットされたかのように、屋上には透き通った空気が流れていて、僕らの間にあったわだかまりも、風に流されてどこかへ行ってしまったかのような感じがした。
どちらが言い出すでもなく、僕らは、屋上を後にした。
夜の校舎内を歩く間、屋外階段を降る間、僕たちは足音や息を殺して、進んだ。正門から抜け出した時、張り詰めた空気からやっと解放されて、僕らは目を見合って笑い転げた。
「……じゃ、帰ろっか。よーへい」
いつもの下校路を、一ヶ月ぶりに、二人揃って歩いていく。
一ヶ月ぶりだけれど、一ヶ月前と同じような、他愛もない話題が二人の間を飛び交う。何も考えなくたって、取り繕わなくたって、勝手に言葉が口を衝いて出る。楓だって多分同じで、だから、僕らの会話のテンポは心地がいい。そういう関係性が、ここに、戻ってきたのだと、この時の僕は確信していた。まあ、本当のところはわからないけれど。結局、僕は楓への恋心を捨てきれていないし、楓は僕との友情を信じているわけだし。
でも、例えばこれが錯覚だとしても、もはや、良かった。もう一度、楓の隣に居られることが何よりも尊くて、それを大切にしたいという気持ちだけは間違いがないのだから。
「ありがとね」
楓の家の前に到着して、彼女はそう言った。
「こちらこそ、ありがとう。……ごめんね」
「何が」
「急に、連れ出して」
ふふ、と楓が小さく笑った。
それから背を向けて、楓はドアの前まで歩いて行った。ドアノブを掴んだ、後。
「よーへい」身体を半分、僕へと向けて。「また、明日ね!」
僕は右手を挙げて、大きく振る。
「楓。また明日!」
「うん、また明日!」
「また、明日!」
何回繰り返すんだよ、と胸中でツッコむ。と同時に、何回だって繰り返したい、と思っていた。
僕らの関係性に明日が約束されている。それを確かめ合う作業は、何回したって、足りないくらい、したかった。
楓が、家の中へと消えていく。夜の中、楓の家の前、ポツリ取り残された僕は、暖かなため息をひとつこぼして、その場を後にした。
「明日、また」
最後にもう一度、ダメ押しの祈りを残して。
***
ちょっと遠回りして、帰ろう。
空を見上げれば、雲間から月が顔を出していて、雨が降り出す気配はとっくに過ぎ去ってしまったようだったし、楓とのやりとりの余韻がまだ抜け切っていないから、帰宅して寝るだけの予定を、ちょっとばかし先延ばしにしたくなったのだ。
来た道を逆走。住宅街の静寂。雨上がりの道路には、幾つかの水たまりが出来ている。飛び越え、進む。
あてもなく。この辺一帯は生まれ育った地、もはや庭みたいなものだし、目的地を設定してまで散策するような場所じゃない。散歩中に新たな発見もないだろうし、迷子になる心配もない。だからこそ気兼ねなく、風の吹くまま気の向くままに歩を進めることができる。
十字路に差し掛かって、直感で、右折。そこで、そういえば、と思う。
この先って、タバコ屋があったっけか。
言うまでもないが、別にタバコが買いたくなったからその事を思い出したわけじゃない。し、僕は未成年だ。それに、この時間は閉店中だ。
そうじゃなくて。
そのタバコ屋は、僕がびちこと初めて出会った場所、だったから。そのことがふと頭を過ぎったのだ。
「行ってみるか」
特別な意味もなく。
そのタバコ屋に何かを求めているわけじゃない。目的がそこにあるわけじゃない。本当に、なんとなく、だ。特別な意味もなく、である。今日という日の落とし所として、その場所まで足を伸ばすのが、ちょうど良いような気がしたのだ。
今思えば、僕と楓のわだかまり、告白から和解を経て、出来上がった二人きりの関係性、の始まりは、あの土砂降りの日だった気がする。びちことあのタバコ屋で雨宿りをして、翌日に楓から告白された事を聞かされ、楓とデートをし、告白をして、フラれた帰り道にびちこと再会した。それからの一ヶ月間は、精神面を彼女に支えられていた。びちことの出会いは、僕と楓の二人にとって、かなり大きな意義があった気がする。
こじつけだろうか。いいや、そんなこと、ない。
今日だって、びちこに背中を押されて、楓の元へ向かった。そう思えば、何もかも、びちこのおかげじゃないか。
「……不思議だな」
ひとりごちる。
「びちこに、感謝してるよ。僕」
本音だった。
第一印象は、見ず知らずの男子に「せくしゃるなおさそい」を迫る淫乱小娘、だった。いや、今だって時折その片鱗を見せるけれど、初対面の時とは僕の感じ方が大きく異なっている。もはや彼女独自のコミュニケーション、ぐらいの認識で僕は捉えていて、かつて迷惑に感じていたそれに、心地の良ささえ抱いていた。
この数十日で、またしても、僕が変わったということなのだろうか。
ううん。違うな。変わったのは、
「僕とびちこの関係性だ」
そう呟いた時、僕はタバコ屋の前に到着した。
瞬間。
「……え」
ポケットの中で、スマホが震えた。それを取り出して、画面を見る。
「……こわっ」
そこに表示された電話番号。それは、びちこのものだった。
彼女のことを考えながら、彼女との出会いの地に到着したタイミングで電話がかかってくる、なんて、あまりにも都合が良すぎて、身震いしてしまった。
まさか、近くにいないよな。監視されてるんじゃなかろうな。と、恐る恐る辺りを見回す。
が、彼女の姿はなく、ともすれば、これは偶然というわけで。
「にしても、気持ち悪いほど、タイミングの良いやつだ」
嘆息してから、通話ボタンを押す。
そして、
「やっほ、さくらん」
聞きなれた声に、安心感を覚えて、
「やあ」
「そろそろ、決着ついたかな、と思いまして」
思わず、笑みがこぼれて、
「正解。さっき、家まで送ってきたところ」
「ほほぉ。つまり、上手くやれたんだ。その子と」
「うん」
出会った時からは考えられないほど、びちこに対しての素直な言葉が、
「君のおかげだよ。ありがとう」
口から漏れた。
***
私のおかげ、だなんて仰々しいな。
思ってもみなかった彼の言葉に、私は足を止めた。私は彼の素直なところに好印象を抱いているから、余計に、取り繕ったような台詞に聞こえなくて、普通に照れてしまった。彼の前じゃなくて良かったと思う。私は私なりに私を演じているから、こんな私を見せるのは、ちょっとだけ、本意じゃない。
「そっか」
とだけ、返す。そうして私はまた歩き出した。
今は、どこへ行くでもない、夜の散歩中。それは私のルーティーンだった。そして、もう一つのルーティーン、彼との通話。それを同時にこなしている最中である。
「それにしても」自分の中でテンションを元に戻す。いつも通りを演じる。「君は偉いな。ちゃんと向き合って、それで、良い方向に舵を切れたんでしょう?」
「そうだね。舵を切るっていうか……うん、ちゃんと話した」
「今すぐ直接褒めてやりたいよ。抱きしめてあげたい気分だ」
「……君はまたそうやって、僕を誘惑する」
「にひひ」
「もう少し、自分を大切にした方がいいと思う。僕は」
言うようになったな、と思う。お互い、名前も知らない関係性なのに、相手に対して思ったことを直接伝えられるようになったのは、それぞれが成長している証だろうか。それとも、二人の間にある何かが育っているということだろうか。
なんてね。
「私は誰よりも、私を大切にしているつもりだけど?」
「自分を大切にしているやつは、抱きしめたいとか、ヤろうだとか、そんなこと言わない」
「分かってないな。君だから言ってるんだよ?」
電話越しにため息が聞こえた。
「……今の僕らの仲だったら、そういう軽口があってもいいかもしれないけど……君、初対面の時からそうじゃないか」
「それも、君だからだよ」
「どういう意味」
「内緒」
はあ? と、彼は納得がいかないような返事をした。まあ、そりゃあそっか。意味、分かんないよな。
とにかく、と私は話題を切り替えた。
「これだけ言わせてよ。おめでとう」
「話を逸らすな」
「もう」
ちぇっ、と、緩くいじけてみせる。それに対して、彼の反応はドライだった。私の茶化し方に、もう慣れてしまったみたいだ。仲が深まるのはいいけれど、それは少しだけ惜しいな、と思った。
「素直さが君のいいところなんだから、素直に受けとれよ。私の激励を」
「はぁ……。はいはい、ありがとありがと」
「さっきの『ありがとう』と、全然テンションが違うんだけど」
「そりゃあ、さっきの『ありがとう』と感謝の度合いが違うからね」
「さっきが百だとしたら、今のはいくつ?」
「二」
「低っ」
電話の向こうで、彼が笑った。私もつられて笑う。
「……不思議だよな」
笑い声が止んだ後、彼が言った。
「ん? 何が?」
「僕たち、まだ二回しか会ってないんだよ」
「だね」
「なのに、なんだか、君と話していると落ち着くよ」
「ん、私も」
本心で、そう返す。
「でもそれってさ」そして、そう続けた。「そんなに不思議かなあ?」
どういうこと、と彼が言った。
「君、最初会った時に言ってたじゃん。大事なのは、会った回数じゃないって」
「……言った、ような気がする」
言ってたよ。確実に。
「関係性が重要なんだって、君は言ってた。私たちって、まさに、それを体現してるといいますか。二回しか会っていないのに、毎晩電話をする仲で、お互いがお互いに踏み込み合える仲になってきている。そういう絶妙な関係が、ここに、出来てしまったわけで」
「……かもな」
「私にはそれが気持ちいいよ。とっても。不思議じゃない。違和感もない。私たちだけの関係性があることが、私にとって、ごくごく自然で、絶対的だ」
そう言った時、遠く向こう側に見えた建物に、私は足を止めた。
「君もそう思わないかい? さくらん?」
「……思う」
「にひひ」
その建物は、私たちにとっての出会いの場所。
いつかのタバコ屋だった。
「だからさ、さくらん」
「何?」
それを見つけて、私は、たぶん。
「私たちはこの関係を、大切にしようよ」
今日という日に、満足してしまったのだろう。
「……なんか、むず痒い台詞」
「にひひ。素直に喜べや、童貞くん」
私は、踵を返して、歩き出した。家に帰るべく、歩き出したのだ。
「この関係、ねえ。直接会うことなく、電話だけをする関係?」
「ううん。いつかは出会うよ、きっと。三回、ね」
タバコ屋を背に、私は歩いていく。
「この広い街の中で?」
「うん」
「約束もせず?」
「うん」
「お互いのことを、深く知らぬまま?」
「うん」
夜が深まっていた。だからというわけじゃないけれど、君がこの街のどこにいるのか、今は見つけられそうにない。それでも、私は、「運命」という得体の知れないものを、いまだに信じている。君との間にそれがあるのかは分からないけれど、信じてみたいのだ。
あの日、私は君に出会った。
君を見つけて、声をかけた。
自分でも、突拍子もない発言だったな、と思う。
けれど、君を見つけてしまったから、言いたくなってしまったんだ。
いつか見た君を、あの土砂降りの日に見つけてしまったから、言いたくなってしまったんだよ。
「だからさ、もしも──」
私は懲りずに、もう一度、その言葉を口にしようと思った。
素直な君が、素直に困った声を出すことを期待して。
「──三回会えたら、とびきり燃えるような、ソレをシようね」
さあ、君はなんて言う?
私はドキドキして、答えを待った。
程なくして、彼の呼吸音が聞こえた。
それから、彼は、ぼそり呟くように言った。
それは私に対して、挑戦的とも取れる発言だった。
静寂が包む住宅街の中だったから、間違いなく、私の耳に、届いた。
にひひ、と私は、笑う。
「三回、会えたら、な」
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