033「ドキドキしている」「安心している」
僕たちが別れたあとのこと。
「うん。私、よーへいに別れて欲しい、って言った。友達に戻って欲しいって言った」
そう、言われた。一年以上前のこと。
「私たち、友達としてやっていこう、ってなった」
恋人ではなく、友達として。あの日、僕だって頷いた。本当は彼女の前で泣きたくなってしまったのだけど、それは家に帰ってからにした。
「それで私、別れた次の日、よーへいを呼び出した。一緒に帰ろう、って誘った。友達として、一緒に帰ろうって」
そうだったね。
「よーへいはそれを受け入れてくれた。でも今思えば……私、本当にひどいこと、してた」
……どうして、そう思うの。
「甘えてしまっていた。よーへいの優しさに。それで……やっぱり君は、私の幼馴染として、友達として、私に寄り添ってくれていた。でも……本当の気持ちを押し殺していたんだよね」
どうして、そう思うの。
「だって、私の一方的な、感情だったから。友達でいたい、って。これまでの何年もの間と変わらない二人でいようって、そんなの、私の一方的な……」
どうして。
「ねぇ、よーへい」
なに。
「よーへいをフったのも、長谷部くんをフったのも、私のせいなの」
……。
「私が、変われなかったから。変わっていくよーへいについていけなかったから」
…………。
「私とよーへいの間にあるもの。関係性。それって恋愛がなきゃダメなの? って思ってしまった。そんなもの無くても、私とよーへいはいつでも一緒だったのに」
………………。
「それが心地良くて、恋愛があっちゃ心地が悪くて、私、君をフった」
……………………。
「そんな私の思いを、君に一方的に押し付けてしまった。無理矢理に、求めてしまった」
違うよ。
「違くない。私が……私のせいなの」
違う。
「君は私のこと好きなのに、分かろうとせず、見ないフリをして、友達という関係性を……」
「楓!」
楓が、振り向く。
「……よーへい」
「……違うよ」
「私、恋が、分からないよ」
楓の身体が、僕へ向く。
「……長谷部くんのことも、よーへいのことも、好きになれなかったよ」
二人、向かい合って、屋上の上。
「私だけ……ずっと──」
見つめ合う。
「──変われないんだよ」
***
それが楓の本音なんだね。僕が尋ねた。楓は無言で頷いた。話してくれてありがとう。僕が言った。楓は無言で頷いた。
そしてしばらく沈黙が続く。楓が話したいことは、それで全部だったのだろうか。うん、多分、そうなのだろう。彼女の顔に張り付いた背徳感。それはおそらく、僕へ向けてのもの。本心を余すことなくぶつけたからこそ、できる表情だ。けれど、申し訳のない気持ちとか、いらないのに。僕は楓の気持ちを、楓の言葉で聞けてよかった、と思っているのに。
「……変わらなくていい」
僕は言った。
「変わらなくていいのに。楓は、そのままで」
そう言いながら、果たしてこれは僕の本心だろうか、と自問する。
だって、僕は楓と恋人になりたいわけで。両思いになりたいわけで。
だとするならば、変わらなくていい、恋が分からないままでいい、なんて矛盾しているじゃないか。
「……よーへいは、そう言ってくれると思った」
楓が俯きながら、言った。
「私に優しいもん、よーへいは。自分よりも、私だもん」
「……」
「だから私は甘えるんだよ、君に。そんな自分が嫌になるけど、やめられない。よーへいは、全部、包み込んでくれるから」
「…………」
「……なんで」
なんで?
そんなの、楓のことが好きだから。それ以上にあるかよ。
そうなのだ。僕は楓のことが好きで好きでたまらないのだ。だから、楓の悲しんでいる顔が見たくない。自分の気持ちよりも、楓の気持ちを優先したくなってしまう。この恋が実らなかったとしても、楓が悲しまないならそっちの方がいい。そういうことを本気で思えてしまうのだ。楓のことが好きだから。たったそれだけの理由で。
だからこそ、余計、僕は悲しい。僕も自分で自分が嫌になる。
どうして楓に想いを伝えてしまったんだろう。楓を悩ましてしまう、苦しませてしまう、って少し考えたら分かったはずだろ。
矛盾だらけだ。
「……楓」
「ねぇ、」
僕の声を食うように、楓の声が重なった。僕は黙る。
「……私ね、この一ヶ月、考えていたことがあるの」
「……なに」
「十年間、いつだって私はよーへいの隣にいた。一度だって疑問に思ったことも無かった。これが当たり前なんだ、って思った。だからね、私、よーへいを失うのが怖かった」
「……うん」
「失う前から、よーへいのこと、大切だって思ってた。だから、失って……怖かった。私、これからよーへいナシで生きていくんだ、そういう極端なことまで考えて、息ができなくなりそうだった。……それで、思ったんだ」
「なにを」
「……これ、本当に友情なのか、って」
言葉に詰まる。何も言えない。
それ、どういう、意味。
楓の顔を見る。目が泳いでいる。喉元が震えている。胸元が荒く上下に動いている。
……楓? 君は、一体、何を言おうとしている?
「わ、私ね、思ったの。私、よーへいに対する気持ち、なんて名付けたらいいのかって考えた時、思ったんだよ」
楓の呼吸が少しずつ荒くなる。
ねえ、楓、君は。
君は今から、何を言うつもりなんだ。
それは、どういう、つもりなんだ。
「私、本当は、よーへいのこと……」
「楓……」
「よーへいのこと、す、好きなんじゃ、ないのかな、って」
僕と楓は十年の付き合いだ。楓の考えていることを、完璧じゃなくたって、分かるつもりだ。
だから。
「これが……もしかしたら、恋愛感情、なんじゃないのかなって」
君の言っていることが、本心じゃないって、分かる。
「だって、私、よーへいと……ずっと一緒にいたいんだもん」
自分を納得させようと無理をしているのが、分かる。
悔しいけど。
分かってしまうんだよ。
「私、よーへいのことが、多分、一番、好きなんだ──」
「楓!」
瞬間。
咄嗟の行動、だった。
自分でも、何をしているのか分からなかった。
僕は、楓を抱きしめていたのだ。
「…………よ、よーへい……」
「……。やめて」
楓の顔は見えない。
「……もう、やめて」
それでも、肩が震えていたから。
「……違うよ、それは」
泣いているのが、分かった。
「嘘つかないでよ」
「…………じゃあ、どうしたら、いいの」
「……」
「私、よーへいとずっと一緒にいるには、どうしたらいいの。わかんないよ」
「……どうしたら、いいんだろうな」
「私、よーへいのこと、好きだってことにしたら、うまくいくんだよ。全部」
「……バカだ」
「バカでもいい。……私の願いは、よーへいと、一緒に……」
「楓はさ、ドキドキしてる?」
「……え?」
「いま、ドキドキしてる?」
「…………」
「ぼ、僕は、してる。楓のことが、好きだから」
「……」
「楓は? きかせてよ」
「…………。わかんない」
「……うん」
「……わかんないけど、安心してる」
「……」
「よーへいにこうやって、抱きしめられて、安心してる」
「……じゃあきっと、僕の、楓に対する気持ちとは、違うよ」
楓に僕の顔は見れない。
ならば、もう、我慢はやめだ。
泣いてしまおう。
「……楓は、僕のこと、好きじゃないよ」
「…………」
「好きじゃない。恋じゃないよ」
メチャクチャだった。感情も、感傷も。それらは心の中で大きな波になって、僕を恋慕と悲哀の底へ沈めていく。大好きな人を抱きしめていて、それでも満たされないこの状況を、僕はどうしたらいいんだろう。ワケが分からなかった。
でも。
僕は、ここに来る前、決めてきたことがあったろう。
楓に全部話すって、決めてきただろう。
そのことを思い出して、僕は口を開く。
「……楓、僕はね」
「……うん」
「楓と会えなかったこの一ヶ月、楓ナシでも生きていけたんだよ」
「……うん」
「意外とね、目を瞑れば、なんとでもなったんだ」
「……うん」
「離れてみるとあっけない。そう思った」
うん、と楓はもう一度、呟いた。
「楓の言う通り、僕だけが変わってしまったのかもしれない。僕だけ、楓に恋をして、恋がなければ、楓と一緒にいられない人間になってしまったのかもしれない。楓との恋が実らないなら、そこから目を背けて別の人と生きていけばいい、って、そういう生き方が出来るようになってしまったのかもしれない。僕は、そういう人間になってしまったのかもしれないんだ」
「……どうして、こうなっちゃったのかな」
「……十六歳になっちゃったからだよ、きっとさ」
「……めんどくさいな。成長、したくないな」
「……楓はそのままでもいい」
「……そういうわけにはいかない。そうでしょ?」
「……楓は楓のしたいように生きて欲しい。楓のことが好きだから、そう思う」
「……そういうわけには、やっぱり、いかないよ」
本当に、そういうわけには、いかないんだろうか。
僕は楓のことが好きで、楓と一緒になりたいって思っている。それと同じくらい、楓は楓のままでどこまでも生きて欲しいと思っている。
僕らが僕らのまま、お互いが寄り添い続けることって、出来ないんだろうか。
恋も友情も、ここにあるまま、僕らはずっと一緒にいられないものなのだろうか。
たぶん、そんなこと無理なのだろう。でもどこかに答えはないのだろうか。そういう希望を探してしまう。
どうにかして見つけたい、そう思ってしまう。
「……ねえ」楓が声を出した。「……雨だよ」
その時、頬が濡れた。涙じゃないとすぐに気づいた。
上を見る。瞼に水滴が落ちる。
確かに、雨だった。
ゆっくり楓の身体と僕の身体が離れる。向かい合うように、立つ。
「……泣いてやんの」
楓が言った。
慌てて、涙を拭う。
「楓こそ、泣いてる」
「……うるさい」
拭った手で、楓の手のひらに触れる。楓が僕の手を握り返した。
二人、手を繋いだまま、無言のまま、歩き出す。屋上の出入り口、小さな屋根の下へ。
「……」
「……」
二人、並んで、空を見上げる。
雨が強くなる。すっかり、土砂降りだった。
「……帰れなくなっちゃったね」
楓が言う。
「……きっと、止むよ」
僕が言った。
「だといいね」
「……でも、止むまで、ここにいよう」
「うん」
僕らは視線を交わさず、ずっと空を見上げたままだった。沈黙が続く。
沈黙を破ったのは、僕だった。
「ねぇ」
「なに」
二人きり、僕と楓の雨宿り。
その状況で、僕は、ある日のことを思い出していた。
ある日。
梅雨が始まってすぐのこと。急な土砂降りに遭って、ビニル傘が盗まれてしまって、タバコ屋の軒下に駆け込んだ放課後のこと。
ある女子高生と出会った時のこと。
を、思い出していたのだ。
「知ってる?」
「なあに」
あの日、彼女が言ったこと。
その言葉が、自然と口から漏れた。
「雨宿りってさ、男女が契りを交わすシチュエーションなんだって」
なにそれ。楓が言った。
「だからさ、約束、しなきゃだよな」
約束。楓が繰り返した。
「うん。……楓」
「うん」
「僕たちには、僕たちなりの関係性があるはずだよ。僕にとっての幼馴染は楓だけで、楓にとっての幼馴染は僕だけなんだから、そんな二人に似合う距離が、僕らだけの距離が、絶対、どこかにあるはずだと思う。それを、一緒に見つけて欲しい。見つけようよ、楓──」
息を深く吸う。
そして、声を乗せて、吐き出した。
「──僕たち、ちゃんと幼馴染になろう」
左手。楓が僕の手を握る力が、強くなった。
「……それが、約束?」
「うん。特大級の、約束」
「……ただの幼馴染は、手なんて繋がないけど」
「幼馴染だからこそ、手くらい繋ぐだろ」
「……私たち、もう十六だよ。十六の幼馴染も手は繋ぐものかな?」
「じゃあさ。今日だけは、こうさせてよ」
「明日からは?」
そうだなぁ。
僕も、楓の手を握る力を強めた。
結局、言いたいことを全部言えたかは分からない。僕の後悔が晴れたかどうかさえ、微妙なところだ。それに、楓への気持ちに折り合いがついたとは到底言えない。
僕は、明日も楓のことが好きだと思う。
楓は、明日も僕を友達として求めてくると思う。
それでも、雨宿りが、昔から連綿と続く契りのシチュエーションなのだとしたら。ここは一旦、星ならぬ、雨に願いを。
僕らが明日からも、一緒にいられますように。
そうやって「約束」という形に僕らのいざこざをしまい込んでしまおう。
「……ただ、隣にいよう。幼馴染としての二人で、いよう」
土砂降りの音が強くなる。だから、本当のところ、楓が言った言葉がなんだったのかは分からない。
けれど、少なくとも、僕には、
「よろしくお願いします」
そう、聞こえた。
だから、僕は、答えた。
「──こちらこそ」
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