Episode.06

031「わがまま、きいてくれないか」「……内容に、よる」

 久しぶり。


 僕の口から出ていったハズの言葉が、僕の内側で反響する。久しぶり。同じ高校に通っていて、ほとんど同じ通学路を毎日歩いていて、何度も楓の姿を見かけていたけれど、久しぶり、ほど、今の僕らに収まりの良い言葉は無いように思えた。


 楓の声ってこんなに高かったっけ。楓の顔ってこんなに小さかったっけ。楓の目ってこんなに透き通っていたっけ。


 彼女を構成する全てが、なんだか懐かしい。懐かしくて、愛おしかった。


「……ひさしぶり」


 楓は、そう言って、お母さんに目配せしてから、サンダルを履き、ドアの外へ出た。ドアが閉まる。僕と楓の二人きりが玄関前に向かい合うようにして、立っている。


「ごめん。……寝るところ、だった?」


 彼女の服装に目をやってから、訊いた。無地のTシャツに、中学のジャージパンツ。明らかに部屋着だった。


「……うん。あっ……」楓が目線を自分の衣服へと移してから、言う。「……恥ず」


 Tシャツの裾を両手でグッと掴んで、楓は言葉を続けた。


「……非常識だぞ。夜に突然さ、女子の家を訪ねるなんて」

「……ごめん」


 ううん、と楓は首を振った。


「……なんてね。いいよ。よーへいだし」


 どういう意味だよ、と小声で突く。


 誤魔化すように楓は微笑んだ。


「よーへいは、まだ全然眠る気ない、って格好だね。これから、登校?」


 僕の服装を上から下まで眺めて、彼女は言った。言われて、そういえば、と思う。帰宅してから、着替えるのを忘れていた。今の今まで、制服のままだ。


「……まあ、そんなとこ」

「あは。ばかじゃないの」


 冗談を飛ばして、小さく笑い合う。そんな他愛もないやりとりさえ、幸せだった。


 いま、楓が目の前にいる。たったそれだけのことが、あまりにも尊くて、噛み締めるように、僕は閉口した。楓も、僕をじっと見つめたまま、黙っている。二人、そうやって静寂を守っていた。どちらかがどちらかに近づくでもなく、踏み込むこともなく、しきりに沈黙して、眼差しだけを交わして、立ち尽くしていた。


 とはいえ、僕は、ただ楓に会いに来ただけじゃないわけで。


 その事を、いつ言い出そうか、迷っていた。


「それで、さ」


 うだうだしている間に、楓が口を開いた。


「……私に、用事あるんだ、よね?」

「そう、だね」


 言葉に突っかかりながらも、声を出す。


「なぁに?」

「うん。……そうだな、えっと」

「…………」


 続きを待つように、楓がまた黙った。だから、早く、言おう。そう思った。


 ……のだけれど、どうも声にならなかった。


 言いたいことは山ほどある。それ以上に話したいことも山ほどあって、でもそれは本旨じゃないから頭の奥へ押しやって、代わりに言わなきゃいけないことだけを伝えなきゃって、頭の中の色んな引き出しを開けては言葉と感情を取り出してみた。


「あの……」


 とりあえず、言葉を出す。


「うん」

「……えっと、ね、楓」

「うん」


 それでも、その先が続かない。段々と、自分の言いたいことが分かんなくなっていく。


 僕は楓に謝りたくて、それよりも楓との毎日を取り返したくて、だけれど楓を傷つけてしまった事を後悔していて、とにかく楓の気持ちが知りたくて、さらには楓に会えただけで嬉しくて、たしかに楓に嫌われたくなくて、もしくは楓に好かれたくて──。


 そうやって、気づけば、感情が迷子になっていた。どれから言うべきなのか、どれを言いたいのか、どれを一番伝えたいのか。いざ楓を目の前にすると、分からなくなってしまった。


 そんな自分が不甲斐ない。不甲斐なくて、消えたくなる。という感情もまたポンッと湧いて、もっと迷子になっていく。


 結局、僕は俯いて、黙りこくってしまった。


「ごめん」そんな僕を見かねて、か。「なんか、よくないね、私」


 楓が、言った。


「え?」


 思わず、ハテナで返してしまった。楓を見る。


「な、なんで。なにが」

「……や、だってさ。完全に、言わせてる、もんね……」


 言わせている、って、何を。


 そう尋ねるよりも早く、楓が続けた。


「私、よーへいに、謝らせようとしてる」

「…………」

「よーへいを、悪者にしてる」

「……」

「ずっと、話せなかったこと。よーへいのせいみたいに、そういう空気に、させてる」

「……ぼ、」やっと声が出る。「僕のせい、だよ」


 ちがう。

 楓が、言った。


「本当は、私のせい」


 ちがう。

 僕が、言った。


「僕が楓に、告白、したから」


 告白。その言葉に反応したのか、楓は僕から視線を逸らして、しばらく目を泳がせた後、下を向いた。


「……」下を向いたまま、楓が言う。「……ごめんね」


 ごめんね、か。


 どういう意味の、ごめん、なのだろう。率直にそう思って、胸の奥が痛くなる。


 どうやら僕は、未だに楓のことがたまらなく好きらしい。これは、そういう痛みだ。謝られると、どうしたってしんどい。「好きになれなくて」ごめんね。「あなたの彼女になれなくて」ごめんね。「告白させてしまって」ごめんね。それらどれにでも聞こえてしまうぐらい、楓にフラれたという現実が、僕の上に重くのしかかっている。そんな僕を、僕は支えきれないくらい、食らってしまう。


「……頼むから謝らないで」


 僕は言う。


「楓に告白したこと、間違ってなかったって、思いたいからさ」


 ゆっくりと楓の顔が上がる。


 彼女の目を見て、僕は思い出す。


 そうだ。そうだよ。


 僕は今日、それを言いにきたんじゃないか。


「後悔したくないんだ、僕」

「…………」

「後悔しなくていい、ってこと。確かめにきたんだ」

「……それって、どういうこと」


 どういうこと、って訊かれても、正直分からないんだけど。後悔したくない、って思いだけがあって。きっと、このまま楓と疎遠になってしまったら後悔するんだろうな、って予感がして。だからそれだけは避けたくて、ここへ来たのだ。


 それ以上のことは……どうしたらあの告白が後悔にならないのか、とか、どういう話をしたらあの日の告白を無かったことにしないで、今まで通りの楓と一緒にいられるのか、とか、そういうことは、まったくもって分からない。ノーアイデアだった。


「……」

「……」


 また僕らは黙り込んでしまった。動揺と夏のせいで、手に汗が滲む。拭き取ろうと、制服ズボンの太腿あたりに触れる。布を握る。


 その時、だった。


「……あ」

「……なに?」


 その感触に、ふと声を出してしまった。


「いや……その……」


 言葉を濁してから、思い出す。思い出してから、考える。


 僕の後悔について、考える。


 あの日。デートの日。告白の日。僕には、出来なかったことがあった。


 ……いや、もちろん。それが出来たからと言って、告白の結果に影響があったかと言われれば、そんなことはないんだろうけど。でも、それが後悔のうちの一つであることは確かだったな、とぼんやり思う。


 もしも。あの日、僕が楓と「あの場所」へ行けていたとしたら。


 僕の後悔は、少しでも晴れただろうか。


 そんなことを考えてしまった。


 ズボンの太腿あたり、ポケット。その中に、僕は手を入れて、先ほどの感触の正体を、握りしめる。


「……ねえ、楓」


 なに。楓が言った。


「……わがまま、きいてくれないか」

「……内容に、よる」


 わずかに口角を上げて、楓が言った。


「ま、そうだわな」


 言って、ポケットの中から、僕はそれを取り出した。


 それ。


 キーチェーン、だった。


「……なに、それ」


 キーチェーンへと目をやって、楓が尋ねた。僕は、素直に答える。


「如月さんから、借りた」


 え。楓が短い声を発した。


「如月さんだけの秘密、の鍵らしい」

「……美紀の? ……なんで、よーへいが」


 なんで僕が? 


 楓の為を思って、君にくれてやる。そう、如月は言ってたっけ。


 僕が今思い浮かべていること。それは、その台詞の本意とは違うのだろうけれど、でも、どうにもやってみたくなって。


 楓を見つめて、口を開いた。


「楓と、見たい景色が、ある」

「…………」


 僕には、告白の日に、見たかった景色があった。でも、見られなかった景色があった。二人で見たかった景色があった。


 夜景、だ。


 なあ。どうだろう。楓。


 あの日は勇気が出なくて、君を誘えなかったけれど。


 今なら、二人で、見られると思うんだ。


「本当はさ、もっと綺麗な景色、知っているんだけど。もう夜も遅いから。代替案になっちゃうんだけど──」


 後悔の、清算。あの日出来なかったことの、リテイク。


 僕は楓の目を真正面から見つめて、鍵を掲げ、言う。


「──この街で一番高い場所に、今から、行かないか」

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