030 小山楓
美紀。
私は不意に、彼女の名前を呼んでいた。
部屋の隅。夜も、気持ちも、真っ暗闇の底。許しを乞うように、もう一度「美紀」と呟いた。
今日のこと。私は、美紀に嘘をついてしまった。遊びに行こう、そう誘ってくれた彼女に対して、あしらうような言葉を吐いてしまった。理由というか、言い訳をするならば……私に気を遣っているのが、みえみえだったから、だろう。
やめてよ。そう思った。
美紀とは、いつだって一緒にいて、それだけで楽しいんだから、私の機嫌をうかがったり、私を励まそうとしたり、そういうのは息苦しくなるから、やめて欲しいと思ってしまったのだ。
私さ、これでも強い女なんだよ。何か嫌なことがあったからって、ひとり閉じこもるような性格じゃない。テキトーに憂さ晴らしをして、すぐさまけろっと立ち直る。そういう人間だって、美紀は知っているものだと思ってたんだけどな。
なんて、少しだけ苛立ってしまって。それで、つい、拒絶した。ムキになってしまった。
余裕ないんだな、私。
そうやって、私は私の矛盾にすぐに気がついた。憂さ晴らし、出来ていないじゃないか。けろっと立ち直っていないじゃないか。いつになっても心は窮屈なまま、安寧とは程遠い日々を送っているじゃないか。
ふと、勉強机の上に視線を移す。そこに置かれた一枚のCDアルバム。
「…………」
フレンチコネクション。
「分かっているくせに……ばか」
私は、私を、そうやって叱る。
そうなのだ。自分でも分かっているのだ。キッカケは、あの日。陽平との、ライブの日。
もっと言えば、陽平に告白された日から、だ。
「…………なんで」
私は、この一ヶ月以上の間、何度も何度も口を衝いて出た駄々を、また繰り返してしまった。
「……なんで、よーへい……私に、告ったりなんか、したの……」
言って、また、自分の性格の悪さに嫌気がさす。
ぜんぶ陽平のせいにして、責任を陽平に押し付けて、現状の苦しみから逃避する。でも、そうでもしないと、耐えられないのだ。
隣に陽平がいない毎日が、耐えられないのだ。
よく、ドラマやマンガで「失ってから初めて大切さに気づいた」ってセリフに出会う。けど、あんなの、本当の意味での大切さじゃないと、私は思う。私にとっての陽平は、失う前から、決して失いたくない大切な存在だった。……いまだからこういうこと言えちゃうのかな。ううん。きっと、違う。絶対、ずっと前から、そう思っていた。
だから、関係性が変わるのが怖かった。名前がつくのが怖かった。陽平の彼女になるのが、怖かった。
なんで私たち、男と女なんだろう。
なんで男と女には、恋愛感情が生まれてしまうんだろう。
そんなもの、いらない。私には、恋心なんて、いらない。
ただ、ずっと一緒に、いたいだけなんだ。私の話を陽平に聞いてほしい。陽平の話を、私が聞いていたいだけなのに。
……なんてね。……知ってる。私の方が、ずっと、ワガママだってこと。恋をする気概もない。彼女になる勇気もない。なのに、隣にいたいなんて。ムシが良すぎるよね。
いつかは私も恋人を作って、結婚して。同じように陽平も結婚して、子供ができて。そうなったら……一生隣にいるなんて、不可能だ。そういうことだって、知っている。
でも、今だけは。そういう未来がくるまでは。私と陽平の間には、穏やかで凡庸な、安心感だけがそこにある毎日が、続いて欲しかった。
開けっ放しの窓から、風が部屋の中へと入り込んでくる。カーテンが揺れる。鼻の奥が、つんとなる。
「……明日」呟く。「美紀に会ったら、ちゃんと謝ろう」
夏風が、私の髪を、優しく撫でた。
うん、と独り頷いて、私はベッドの上に寝転んだ。
今の私が行動に移せることって、多分、それで精一杯。陽平との日々が失われてしまった以上、目の前にいる友人との関係を、もっとちゃんと、大切にしなきゃ。失いたくないものを、もう二度と、失わないように。
これは決して、陽平との関係に諦めをつけたわけじゃない。開き直っているわけでもない。
自己防衛、だ。
私が私を守るための、最大限の努力、なのだ。
「…………」
瞼を閉じる。眠りに落ちてしまおう、と思った。
そうして、完全に真っ暗闇に包まれた視界の中、浮かぶのは、やっぱり陽平の表情だった。陽平の声だった。それで私は、懐かしい気分にさせられてしまう。
ずうっと昔に読んだ小説を、久しぶりに本棚から引っ張り出して、表紙を開いたときの感覚に似ていた。もう知り尽くしている物語が頭の中で蘇って、向こう側から私の内部へと、流入してくる、あの感じ。私が再生ボタンを押すまでもなく、ひとりでにストーリーが動き出す、あの感じ。
それに、似ていた。
だからこれは、不可抗力。私の中で、陽平が声を上げて笑う。私の名前を呼ぶ。冗談を言って、私も冗談を返して、じゃれ合うように、身体に触れる。そういう映像が脳内で浮かび上がってしまうのは、しょうがないことなのだ。
せめて、このまま、想像の中だけでも陽平と一緒に過ごせますように。そんな一欠片の希望を抱いて、私は夢の中へ落ちていく。
その只中、のことだった。
家のチャイムが鳴った。こんな遅くに誰だろう、と私の思考は一瞬、現実世界へと戻る。階下で声がする。お母さんの声だ。続けて足音。玄関に向かったのだろう。扉を開ける音が小さく聞こえる。
そして、すぐ、私の耳に、懐かしい声が届いた。
瞼を開ける。開けてから、混乱。きっと、空耳。そんなハズないじゃん、と保険をかける。
お母さんが私の名前を呼んだ。私に、来てくれ、と言った。誰かが私を訪ねてきたらしかった。誰か。誰かって、誰。まさか、そんなワケないよ。さっき聞こえた声が、私の聞きたかった声と同じだなんて、そんな都合のいいこと。起こるわけがない。
居ても立っても居られなかった。私は、ベッドから飛び出して、部屋を出る。階段を駆け下りる。一秒でも早く、確かめたかった。一秒でも早く、顔を見たかった。
玄関先。顔が見えた。
私の足は、止まる。思考も、止まる。多分、この瞬間に、世界中の時間も止まったと思う。
それくらい、信じられなくて。
もう失ったと思っていたのはずの、君が、そこにいるなんて。
「……楓」
信じられないことが起こっているからこそ、私は、心の奥底から信じたくて。
「…………」
いま、眼の前で起こっていることが、決して夢じゃなくて、現実だって信じたくて。
「………………よーへい」
陽平が、ここにいること。私の名前を呼んだこと。
そのことを、信じたくて、私は。
よーへい。
もう一度、彼の名前を呼んだ。
「──ひさしぶり」
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