024「夏の……」「……匂いだ」
「さくらんって、どんな音楽聴くの? ──」
あれから、僕らの通話は、日課になった。
「フレコネかあ。私もちょっとだけ聴くよ。いいよね、あの曲──」
学校から帰ってきて、夕飯を食べて、ちょっとだけ課題をやって、風呂に入って、その後。寝るまでの間。
「僕さ、結構、アニメとかよく見てて。一番好きなのは──」
だいたい僕からかけて、彼女が五コール以内に、電話に出る。
「見たことあるよ! さくらん、誰推し? 私はね、あのメガネっ子。シンプルに、おっぱい大きいから好き──」
そこからは、互いが互いのことをさらけ出す時間。
「小説はあんまり読まないんだけど……。でも、浅谷詩織って作家の本は──」
互いが互いに歩み寄るための時間。
「ほほん〜。浅谷先生とは、これまた、いい趣味してますなあ──」
そういう夜を、何度も、何度も超えて。
「さくらんのこと、段々と分かってきたよ。君、意外と淡い恋愛モノが好きだろ──」
気がつけば。
「僕も君のことが分かってきた。君は、意外とミーハーだ──」
通話履歴は上から下まで。
「世間一般から評価されているものは、誰が見ても面白い。だから、私も好き。それだけだよ。君だって、好きでしょ?」
「うん。否定しない。好きだね」
「つまり、二人揃って、普遍的で面白みに欠けた感性を持ってる、ってことだ」
「なんでワザワザ悪く言い直すんだよ」
「にひひ。いいじゃんか。気が合う、ってこと、確かめられたわけだし」
「今頃フォローしても、もう遅い」
同じ番号で埋まっていて。
「…………それじゃあ、そろそろ」
「うん」
「寝よっか」
「うん。……そうだね」
「今日も楽しかったよ。ありがとね、さくらん」
「こちらこそ。楽しかった」
彼女の声無しでは、安心して眠れない身体になっていて。
「……また、明日も……するよね?」
「……うん。明日も……かける」
そうして、いつしか、一ヶ月の月日が流れていた。
「待ってるよ」
「うん」
「じゃあ、ね」
「うん。じゃあね」
電話を切る。その瞬間が、なぜだかいつも、一番孤独を感じた。
窓の外に目をやる。近寄り、窓を開けた。
澄み切った夜の空気が、部屋の中に入り込んでくる。
そういえば、いつしか、雨は降らなくなっていた。そうだ、こないだ、梅雨明けが発表されたんだっけ。
つまるところ、世間はもう。
「……夏」だった。「の匂いだ」
***
夏の匂いは、学内にも充満していた。
クラスメイトが夏休みの計画を立てている。授業は期末テストに焦点を当てた内容が増えてきた。運動系の部活動はどこも、練習に熱が入っている。峰岸の制服の第一ボタンが、常に開けっ放しになった。女子の首元も若干緩くなった。クーラーの温度設定に文句を言う学生が増えた。学内で一番涼しい図書室は、いつだって満員御礼状態だった。
「ほいよっ!」
中庭の自動販売機の前。峰岸が投げた缶を、僕は受け取る。
「サンキュ」
開けて、一口、飲む。
前よりも、サイダーが美味しく感じるようになった。
「……うめェ〜! っぱこれだよなぁ〜!」
父親が仕事終わりにビールを一気飲みするかのごとく、峰岸はサイダーを豪快な勢いで飲んでから、言った。
「夏を感じるぜぇ〜。な、陽平?」
「感じるねぇ〜。身体の内からも外からも夏を浴びているような感覚だ」
「おっ、詩人じゃん」
「うん。峰岸の煽りをサラっと受け流せるぐらい、清々しいほど、夏だ」
「受け流すなよ。流しそうめんじゃねぇんだからさ!」
「今の返し、死ぬほどつまんねえけど、どーでもいいわ。だって、夏だもん」
このやろッ、と、峰岸が僕に廉価版プロレス技をかけて、抗議の意を表明してくる。左腕を、峰岸の両手によって締め上げられる。めちゃくちゃ暑苦しい。が、この暑苦しささえも、夏の一部みたいに感じられた。
「で?」廉価プロレス技を緩めて、峰岸が言う。「お前は、この夏どうすんだよ」
「どうって、何さ」
「バッカだな、お前。夏といったら、恋だろ? 恋しねえのか、って訊いてんだよ」
「恋、ねえ」
ま、わかりやすい夏のイメージだ。青春のモチーフと言い換えてもいい。
って言ってもなあ。
「もう、当分は誰かを好きにはならないと思うなあ」
僕は言った。言って、一瞬、楓の顔が浮かぶ。いかん、とかぶりを振って、脳内から楓のイメージを追い出した。
「ふぅん。寂しい男よのぉ」
「彼女がいないのは、例年通りだし。変わんねーよ」
「ま、それもそっか」
「ああ。……納得されると、それはそれできついけど」
言って、サイダーを一口。
「楓ちゃんのことは、吹っ切れたのか?」
サラッと、軽い話題を装って、峰岸が言った。
「まあ。うん。だと思う」
僕も出来る限り、サラッと返す。
本当のことを言えば、完全に吹っ切れていたわけじゃなかった。いまだに、学校で彼女の姿を見かけると心が痛むし、自然と目で追ってしまっているし。孤独になると、どうしても、楓の顔が頭に浮かぶし。
でも、吹っ切れたことにしたのだ。楓と付き合える可能性はもう残されていないだろう。ならばずっと片思いを続けて、辛い思いをするよりかは、そういうことにした方が精神衛生上、良いだろう。
「そっか」峰岸が、前方を見つめたまま、相槌を打った。
「おう」そんな彼の横顔から、視線を前に移動して、僕も相槌を打つ。
「……。ならいいんだけどよ。俺はさ、お前が凹みに凹んで、どうにかなっちゃうんじゃねえか、って心配だったから。そんな気配もなくて、安心してるよ」
「どうにもなんねーよ。よくある、ただの失恋だし」
「んだな」
「そうだよ」
そのやりとりの後、少しの間ができた。暗く沈みそうな空気を察して、僕は思わず、明るい声をあげた。
「で、今日はどうすんの?」
「は?」
「放課後だよ。ボーリングでも行く? それとも、カラオケか?」
「んだよ、陽平。いつにも増して、ノリ気じゃん」
「まあな」
「でも、すまん。今日は、パスだ」
え? と気の抜けた声が出た。意外だった。峰岸が遊びを断るなんて、滅多にないからだ。
「なに、用事でもあんの?」
「そんなとこ」
用事? 峰岸に用事なんてあるんだ、と半ば冗談で、思う。
それに、返答の歯切れの悪さが妙に気になる。何か、隠してることでもあるんだろうか。
「……ま。また今度、ちゃんと言うからよ」
峰岸が言った。
「お前が隠し事なんて、珍しいじゃん」
素直な気持ちを言う。
「別に隠してるつもりはねーんだけど。一応、まだ言わんどく」
「まさか女か?」
これもまた冗談のつもりだった。これまでの峰岸には、一切の女っ気が無かったので、そんなハズは無い、と高を括っていたのだ。こういうやりとりが「失礼」にならないのは、僕と峰岸の関係性あってのことだ。お互い童貞で、モテなくて、そういう話題に縁がないことをジョークのタネにするような雰囲気が、常に僕らの間に、あった。
そういうわけで今回も「ちげーよ、馬鹿!」とツッコんでくれることを期待したのだが。
「だから、また今度言うっての。あんま深く詮索すんな!」
そういう答えが返ってきたものだから、僕は素直に、驚いてしまった。
驚いた上に、
「マジで?」
「……え?」
「マジで? マジ? ガチ? お前も、ついに?」
「あ、あのよぉ……」
「う……うおおおおおおおおお! っしゃあああああああああ!」
叫んでしまった。
「うっせ……うっせえよ! どういう反応だ、それ!」
「決まってんだろ! 祝福の咆哮だよ!」
僕は嬉しかったのだ。
ずっと恋愛と縁がなくて、同じような境遇にある僕に付き合ってくれていた峰岸に、ついに春がやってきたのだ。これを祝福せず、どうするというのだ。
「お前さ、先走りすぎ。そんなんじゃねーって」
「相手は? 誰? 僕の知ってるやつ?」
「知って……だぁから! 言わねえっつーの!」
「なるほど。うちのクラスのやつか」
「ちげえよ!」
「違うの?」
「んぐ……違くねえ、けど」
峰岸に訪れた、春。
「っぱそうなんじゃねーか! このやろ!」
……いや、違うな。
すぐそこまで迫っている季節──それは、紛うことなき、夏だった。
***
そうして、僕らの日常は進む。高校二年生の夏がやってくる。
得たものがあって、それは例えばびちことの夜の会話で。失ってしまったものもあって、それは例えば楓との関係性で。変わっていくものがあって、それは例えば峰岸を取り巻く恋の気配で。変わらないものもあって、それは例えば僕と峰岸の関係性であって。
そんな現状を、僕はどう思っているかといえば。
「悪くない」
呟く。
そう。悪くない、のだ。
失恋の傷は、徐々に癒えつつある。時間が解決する、ってアレ、本当だな。嫌な記憶に目を瞑れば、瞼の裏には順風満帆な現在や未来が浮かび上がる。何が起きても、何があっても、何がなくても、僕の日々はいま、満たされているように感じることができる。
それはとても幸福なことに思えた。
放課後。「例の用事」へ向かうために、峰岸は先に帰ってしまったから、いつもの教室は、僕一人のものだった。独りだけれど、孤独を感じない穏やかな気持ちが、愛おしかった。
僕は思う。
楓との生活を失っても、これだけ満足した日々を送ることができるなんて、不思議だ。しかし、違和感はない。それもまた不思議だったのだけれど、およそ人生とはこういうものなのかもしれない。
胸の中に、ぽっかり穴が空くことだってある。それを、何かが代わりに埋めてくれる。仮に「十年来の恋心」という大きな不足分でさえ、代替物は存在するのだ。
「うん。やっぱり──」
悪くない。
そう、心の底から──。
「いた」
──そんな思考へと潜っていた僕を引き上げるように、教室のドアが開く音が響いた。その方向へ目をやる。
「やっと捕まえた。一人っきりの、陽平くん」
扉の前に立つ、彼女が言った。
「突然ごめんねぇ。けどさ、突然押しかけたりしない限り、君は逃げるから。どうせ」
そう。突然のこと、だった。だから、僕は何も言えず、ただ彼女の顔を見つめるばかり。
「ちょっと、ツラ貸してよ」
「…………なんの用」
やっと、声が出た。
「何の、ってさ。君とアタシの間に、共通の話題なんてそんな無いじゃん? ともすれば、要件はたった一つだって、分かると思うけど?」
相変わらず、彼女の顔を、僕はじっと見ていた。
「安心しなよ。今日は、楓と会わせようなんてしないから。絶対」
──如月の顔を、じっと、見ていた。
「……嫌だ」
「あは。そういうと思った。陽平くん、アタシのこと、苦手だもんね」
「苦手っつーか……」
「じゃあ、そんな君にとっておきの情報をくれてやるよ。きっと、アタシについてきたくなる、お話」
如月が不敵な笑みを浮かべて、言った。
正直、勘弁して欲しかった。僕は現状に満足しているのだ。びちことの連絡や、峰岸の恋。そういった、僕の人生を有意義にする要素で満ち満ちた生活を送っているのだ。
荒波を立てないで、欲しかった。
のだけれど。
「ま、今となっちゃ、随分前の話なんだけどさ。楓ね──」
また、心の穴をこじ開けられるような、そんな気分にさせられる台詞を、
「──長谷部のこと、フッた」
如月は、言った。
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