Episode 05
023「待ちましたよ。随分と、長いこと」「すまん」
07……0。三桁押して、指を止める。脳内の峰岸が「バカやろー、日和ってんじゃねえ! こういうのは勢いだろうが!」と叱責する。僕は「うるせえ! 黙ってろ!」と一蹴し、脳内の峰岸を握り潰した。放課後の日常のみならず、僕の脳内にまで土足で踏み込んできてかき回すんじゃねえよ、と思った。
けれどでもしかし、イマジナリー峰岸を排除したいま、僕の背中を押してくれる存在はおらず。ともすればやはり、勇気が出るはずもなく。
文庫本に挟まっていたしおりに書かれていた数字──びちこの電話番号と思われるソレに、かけることが出来ずにいた。
しおりを発見してから、更に、五日もの間。かけられずにいたのだ。
「んぐぐぐぐぐ」
自室の隅で、頭をかかえる僕。
今日こそ、明日こそ。いややっぱり今日こそ。と何度も葛藤しての現在だ。そろそろ決断をしたいところである。
「…………」
心境を整理するため、深呼吸ひとつ。
そもそも、僕は、彼女に電話をしたいのだろうか。彼女と話したいのだろうか。はっきりと「ノー」を言うことは出来ない。だからといって、前のめりで「イエス」と答えることも出来ない。更に面倒なことに「どちらでもよい」ワケでもなかった。
じゃあなんだ。本心は、なんだ。僕よ。
「……かけたほうが、いいんだろうよ」
そうだ、そうだろう。びちこが、わざわざ僕に連絡先を教えてきたのだ。それは無言の「電話、かけてきてよ」というメッセージである。ならば、その気持ちに応えてあげるのが、男というもの。だよな? 峰岸。お前もそう思うよな。
「……オーケー」
うん。僕が電話をしたいかどうかは、この場合、関係ないのだ。電話をかけてほしい、というびちこの気持ちを優先すべきだろう。
よし、これで言い訳は揃った。
かけたらぁ。
四桁目をタップ。そのままの勢いで、十一桁入力し、
「…………」
思い切って、発信ボタンを押した。
プルルル、というコール音が耳元で鳴る。一度目、二度目。
三度目が鳴った時。
「い、いや」僕は、電話を切ってしまった。「やっぱ無理……」
拮抗していた「勇気」と「臆病」のバランスが、完全に崩壊したのだ。勇気の大敗である。
愚かなり、岡崎陽平よ。そう、心の中で自分に唾を吐いて、ベッドに寝転んだ。
瞬間、だった。
プルルルルルルルルル。
スマホが、音を立てた。恐る恐る画面を覗き込む。そこに表示された未登録の十一桁に、僕はおののき、それでも、なんとか搾りかす程の勇気を、もう一度奮い立たせて、
「……もしもし」
「はい。もしもし。……あれ、もしかして」
電話に出た。
「かけてきてくれたんだ。さくらん」
***
「待ちましたよ。随分と、長いこと」
明るく高い声が、耳元で響く。
「うん」
「そりゃあもう、待ちくたびれるぐらい、待ちましたよ」
「うん」
「私のこと、もう忘れちゃったのかな、って思いましたよ」
「まあ、すまん」
「……かけてくれたから、いい」
にひひ。鼓膜にこびりつくぐらい印象付いた彼女の笑い声が、聞こえた。電話の相手は間違いなく、びちこだった。
「……。でもだってさ、誰の番号か、わかんねーじゃんか。怖いだろ、普通」
「勇気が出なかったことに対する言い訳?」
「ち、ちげーよ」
と言ったけど、本当は言い訳だった。
「私が貸した本に挟んであるんだからさ、私のに決まってるでしょ」
「確信が無かったんだよ。つーか……」
「なに?」
「いつの間に電話番号書いたんだ?」
純粋な疑問をぶつける。あの日の彼女はずっと、僕と屋根付きベンチで雨宿りをしていたはず。その間、こんなものを仕込む隙なんてなかったはずだ。
「お、名探偵じゃん。やっぱ、気になるよね、そこ」
「もちろんだ。まさか僕に会うことを見越して、ずっと挟んでおいたワケじゃないよな?」
だとしたら怖すぎるので、一応、ハッキリさせておきたかった。
「あは。そんなワケないじゃん。自意識過剰ですなあ」
「……。だとしたら、いつ」
「自動販売機に、飲み物買いに行ったでしょ? あの時」
ああ、と思い出す。そうか。あの時だけ、びちこは僕の目を離れて、一人になった。合点がいった。
「思いついちゃってさ。つい、やっちゃいました」
「犯罪の自供みたいな言い回しだな」
「性欲を抑えきれなかった」
「性犯罪だった!」
ツッコんでから「いや、あながち的外れでも無いな」と胸中で皮肉る。出会い頭に「エッチしよう」発言をしたり、僕を一晩連れ回そうとしたり、こいつがしていることは性犯罪みたいなもんだろう。
糾弾するつもりはないけど。
「で、電話してくれたってことはさ。伏線を回収してくれたってことで、つまり、さくらんと私の関係は、トゥービーコンテニュード、ってことで良いんだよね?」
「まあ……」
びちこの言葉を思い出す。「伏線を用意しておきたい」。その本懐が、今のセリフで分かった。
彼女が仕込んだ伏線──電話番号。もし、この電話を僕がかけたならば、二人の関係性は、雨宿りの夜から延長されることになる。裏を返せば、電話をかけなければ、アレっきりだと、彼女も思っていたワケだ。
ま、そうだろう。僕らがもう一度、偶然出会える可能性なんてほぼゼロだ。そういう諦めが彼女の中にも在ったのだ、と知った。
「でも、君はさ。僕に電話をかけさせるように仕向けて、関係を維持させて、どうしたいのさ」
「どうしたい、とは?」
「あの日の話の続き。君の魂胆が知りたい」
びちこは、にひひ、と笑ってから口を開いた。
「誰かと仲良くなりたい、って気持ちに、動機とか思惑とか、いるかな?」
「君が信用ならないだけ」
「純粋な気持ちを率直に受け取れない。童貞の悪いとこだぞ」
「……本当に、純粋な気持ちなのか?」
「もちろん」
即答だった。言葉に詰まる。
純粋な気持ち──とは思えなかったのだ。思いたかったけれど、やっぱり、思えなかった。これは僕が疑り深いから、ではない。童貞が原因でもない。
彼女の行動力の高さ。一つ一つのアクションが、あまりにも突飛で印象強すぎて、何か裏がないと成立しない……そういう風に見えるからだ。
「……じゃあ訊くけど」
「なぁに?」
「僕と仲良くなって、ど、どうしたいんだ?」
言った。踏み込んでみた。
すると彼女は、またしても、すぐさま
「エッチがしたい」
そう、軽々しく、言ってのけた。
「…………」
「ほれ、黙ってないでさ。イエスでもノーでも言ったらどう?」
「……。それは、僕と、なのか?」
「うん、そうだな。さくらんと。他の誰でもなく、ね」
どういう意味なのだ、それは。
「…………」
「…………にひひ」
沈黙の中で、彼女が笑う。
「……でもね、勘違いして欲しくないからさ、もう言っちゃおうと思うんだけど」
「え?」
「私、欲求不満女じゃないよ? 誰にでもこういう事、誘ってるワケじゃないから」
じゃあなんだというのだろう。
「エッチという行為は、あくまでゴール……というか、終着点でさ。私の興味は、そこにあるんじゃない」
「……は?」
余計、思考が混乱する。言葉の続きを待った。
「私は、この世界に『運命』があるのかどうか、知りたいんだよね。……もっと踏み込んで言えば、『運命』が存在する世界に生きたい、っていう」
「……全然わからん」
「ここまで言っても分からんか、君は」
「ああ。さっぱりだ」
電話口、うーん、と言葉を探すような声が聞こえた。
「さくらんはさ『今日はあの人に会えるかな』とか、思ったりすること、ない?」
話が飛んだような気がしないでもない。が、彼女の中では繋がっているのだろうか。
「……まあ、あるな」
一応、返答。
そういう事を考えることは実際ある。楓に置き換えて考えれば、これまでの毎日はほとんど、同じ事を考えていた。今日は楓に会えるかな、今日は楓と話せるかな。今日は楓、どこにいるかな。あの場所で僕を待っていてくれるかな。そこに行けば会えるかな、話せるかな。とか。
「私はね、それがやりたいの」
「……なんのために」
「私が、幸せに生きていくために」
やはり、さっぱり、分からなかった。
「……で、僕なのか」
「そう」
「僕との『運命』を確かめたい、ってことなのか」
「そのために、君と、仲良くなりたかった。これが、私の純粋な気持ち」
全然、納得がいかない。どうしても「なぜ僕なのか」という疑問は拭いきれないし、そういうお遊びがしたいなら、偶然、雨宿りで出会った相手に「せくしゃるなおさそい」をするのではなく、もっと別の方法だってあったはずだ。
なのに彼女は、僕を「唯一無二の相手」かのように指名し、一連の行為を「唯一無二の手段」かのように語った。
女心は、分からん。という次元じゃないくらい、分からん。
「ってことだからさ、さくらん。今夜は、寝るまで付き合ってよ。電話」
「マジで意味不明だ」
「知ってる? 電話で寝落ちする気持ち良さと、セックスの気持ち良さって、ほとんど同じらしいよ」
「…………」
「それでさ。できれば、明日も、電話してほしい」
「……………………」
腑に落ちないことだらけだ。合理性に欠けた発言ばかりだ。
「いいじゃんか。君だってこの前フラれちゃったわけだし、寂しいでしょ? 私を、利用しなよ。ね?」
「……利用、って。君なぁ」
「私は君と話したいんだよ。付き合ってよ」
しかし、だ。こうやって言われることで揺らぐ心がある、ってのもまた、合理的じゃないように思える。だって、納得がいかないような自己都合を、無理やりに押し付けられれば、迷惑に感じるのが普通だろう。だのに、今の僕は嫌な気分になりきれずにいるのだ。明らかに、矛盾している。
人の心とは、そういうものなのだろうか。
理屈では説明できない感情に動かされて、感情に占拠されてしまって、やっぱりどこかで相手と「繋がってみたい」と思ってしまう。そういうものなのだろうか。
きっかけなんて、なんでもいい。彼女との関わりを、もう少しだけ深めてみたい。そう思ってしまうのは、自然の摂理なのだろうか。
「……条件、出していいか?」
「にひひ。君、上から言うようになったね。これは、関係の進展だ。嬉しいよ。で、なに?」
「……君のことを、もっと教えてほしい」
「私のこと?」
「そう。何を考えているのか、とか。そういうことも含めて、君のこと」
二人の声が、ゆっくりと夜に溶けていくようだった。僕たちは、一晩中互いの話をして、でもそれは、多分上澄みの、ほんの一部分をさらけ出しただけの自己紹介だったけれど、そういう会話をとことん繰り返して、気づけば僕は眠ってしまった。
朝。目が覚めた僕はベッドを抜け出し、カーテンを開けた。不思議と、目覚めのいい朝だな、と思った。それから、スマホの通話履歴に070から始まる未登録の番号を確認して、全てが現実だったと知った。
そして、さらには。
その番号から、SMSでメッセージが届いていたことに気づく。タップして、開く。
『ありがと。また明日ね』
びちこからのメッセージ。その文面に、なぜだろう、心が温かくなった。
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