020「雨が止まなかったら?」「一緒に過ごしてよ」
夜の公園とサイダー、名も知らぬ女子。
傷ついたばかりの心と、土砂降りの街。
横目、すぐ隣にある横顔。三回会えたら──などという不可思議な約束。
改めて思う。よく分からない状況だよなあ。
こいつは、どう思っているんだろうか。街中で偶然出会った男子と、再会して、またも二人きりの雨宿り、のこと。それから、約束のこと。
別に、彼女との再会から始まる関係性に期待しているワケじゃない。むしろ逆だ。こんな曖昧で絶妙な関係が、持続されるはず無い。どうせ今日限りなのだ、という諦めが期待よりも先にある。
だからこそ、なのだ。
びちこの「三回会えたら」という狂言は、どこまで本心なのだろう。それとも、願掛けみたいなものなのか。……ま、それはそれで意味が分からないんだけど。なぜ、何処の馬の骨とも分からない男との「三度の出会い」を願うのだ。
ううむ。本当に、よく分からない。
「雨、いつになったら止むんだろーね」
「さあ」
「予報では、降る予定なかったよね?」
「確か、そうだったと思う」
おまけに、僕へと丁寧に話題を振ってくれる。おかげで、缶ジュースが残り半分になるまで、無言の間はほとんど無かった。
不思議と、会話は弾んだ。
基本、僕は「うん」とか「だね」とか、相槌的な返答が多くなってしまったけれど、それでもびちこは話題を広げてくれたから、徐々に口から吐き出される文字数が増えていった。
「このまま止まなかったら、どうしようか」
びちこが言った。
「……どうしようって、なあ」
「帰れないよね?」
「帰れないってことは無いだろ。濡れて帰るだけだよ」
「私は、一晩越しても良いって、本気で思ってるけど?」
再会してすぐの頃は、茶化した言い回しが多かった彼女も、ここ数分の間は、真顔での発言が多くなった。直前の、バカみたいな提言も、こいつはあたかも真面目な風体で言ってのけたのだ。
反応に困る。
「……そういうわけにいかないだろ。明日、学校だし」
「……真面目だねえ」
「君が、不良娘なだけだ」
雨の音が、響く。
「じゃあさ、こういうのはどうかな」
それにかき消されそうなか細い声で、びちこが言う。
「……なに?」
「賭け、しようよ」
賭け、とは。
「いや僕、今日さ、結構散財しちゃって……」
「はは。そうじゃないよ」
と、いうと?
「もし雨が止んだらさ、その時はおとなしく帰ろう。また、土砂降りにあう前に」
「……じゃあ、雨が止まなかったら……?」
恐る恐る、訊く。
なんとなく、答えは分かっていたのだけれど。
「そりゃあ、もちろん」彼女が、僕を見て笑った。「今夜は、一緒に過ごしてよ」
「…………」
夜の公園と、ほぼ空のサイダー。
ざわつく心と、土砂降りの街。
まだまだ雨は止みそうにない。
***
「さ、」手に持った缶をベンチの上に置いて、びちこが言う。「夜は長いよ。さくらん」
カラン、という軽い音がした。飲みきってしまったみたいだ。
「色々、訊かせてもらおうじゃないか」
「…………」
色々って、なんだ。
「にひひ。そろそろ歩み寄っていい段階に、入ったんじゃないかね。私たち」
「歩み寄る、って、どういう」
シンプルな疑問。
「君と私の間にある、絶妙な関係性。これを、もーちょっと縮めてみようよ、っていうさ。結構、踏み込んだ話もしてみようよ、っていう。ほら、例えば……」
「例えば?」
「……君がフラれた女の子の話、とか?」
「うぐっ……」
突然、後頭部を殴られたような錯覚に陥った。それくらいの衝撃だった。……もう流された話題だと思っていたから。
びちこが座ったまま、お尻一つ分、僕に近づく。反射的に、お尻一つ分、離れる。距離を詰めるな。圧をかけるな。
「ねぇ、どんな子なの? 顔は? スタイルは? おっぱいは大きい? ヤッたことある?」
「質問が多いし、内容がハード過ぎる!」
「そっか。まだ序の口のつもりだったけど、童貞には刺激が強すぎたか……」
「……頼むから、そこで踏み止まっていてくれよ」
「んー。それは、君の態度と」びちこが屋根付きベンチの外へと視線を移動させた。「天気次第かな」
「天気……」
「雨が降り続いて、一緒にいる時間が伸びれば、そりゃあ奥の奥まで突かせてもらうことになるよねぇ」
「……断固拒否する」
「なんでよ。男女二人が一晩中、アツく語るってなったら、恋バナが一番じゃんかぁ」
「そりゃそうかもだけど。僕だけ言うのは、なんか違うだろ。対等じゃない」
「そんなの、私も話すに決まってんじゃんか」
「え?」
にひひ、というもはや聞き慣れた笑い声が、鼓膜を揺らす。
「……それは、まあ、そうなるの、か?」
「うん。もちろん。でも、」僕の顔を指差す。「まずは、君の番だよ。さくらん」
さっきまで、流暢に喋り倒していたびちこの口が、閉じる。両手をベンチについて、顔を突き出し、僕をじっと見ている。待っているんだ、僕が喋り出すのを。こいつめ。
「……そういえばさ、君、どこの高校だっけ?」
「話逸らそうとしても、ダメ」
語義通り、姑息な手段は、失敗に終わった。
びちこが顔を、グッと近づける。迫る。
「…………」
「ほれほれ。その子の好きなとこ、挙げてみなよ」
「……やだ」
「なんでよ?」
「普通に……恥ずかしくて言えねーよ」
ははっ、と声を挙げて、びちこが笑った。
「おまっ、笑うなよ」
顔が熱くなるのを感じる。びちこに見られたくなくて、顔を逸らした。
「いや、だってさ。……ふふ、なるほどね。恥ずかしくて言えないくらい本気だった、と」
「あ、あのさあ……」
「いいねえ、純愛だねえ」
「バカにすんなよ!」
「してないよ」
「してんだろ!」
「してないってば」
と言った彼女の声の、トーンの変化に、一瞬驚き、反応してしまう。
視線を、彼女の顔へと戻す。
眼前にあるびちこの表情に目が奪われる。
「本当に好きな人がいることをバカにするやつは、本気のバカだよ」
それは、優しい微笑みだった。
だから僕は、すぐにまた、顔を逸らしてしまった。
「……」
「にひひ。素直なところが、君の良さだよ。誇りに思え」
「僕の、じゃなくて、童貞の、だろ」
「ううん」目線だけ、彼女の顔へと戻す。「君の、だ」
「…………」
多分、楓の話になったから、だろう。
さっきから、びちこと、上手に話せていない気がした。それに、彼女の目をちゃんと見れなくなっている。距離が近いってのもあるだろう。様々な要因が、僕の挙動をおかしくしていた。
でも、なんでだろう。居心地の悪さを感じていたり、不自然な自分に対する気持ちの悪さを抱いていたり、しなかった。今この瞬間も……この瞬間に至るまでの、数十分間も。
というよりも、むしろ。
「じゃあ、次は私の番だ」
「…………」
「ほれ。一女子による、赤裸々な恋バナが聞けるんだぞ。拍手、拍手!」
「はいはい。パチパチ」
──びちこと過ごすこの時間に、どこか安心してしまっていた。
何度だって思う。
よく分からない状況だ。
今一度整理をすれば、僕らは、街角で一度、共に雨宿りをしただけの関係性。それ以上でも以下でもない。他に接点など無いから。
だのに、こうして再会して、何故かまた、雨宿りをしている。その間、当たり前のように会話を弾ませてしまっている。もはや不自然なまでに自然に、コミュニケーションをとっている。
「実はね、このなぎさ公園さ、私の思い出の場所なんだよ」
「え? そうなの?」
「うん。……昔、好きだった人との、思い出の場所」
「…………」
「言ったでしょ? 私も似たようなモン、だって。君と、さ」
だから、と彼女は言葉を続けた。
「やっぱり。今日の出会いは、運命の類なんじゃないかな」
「アホか」
びちこが軽々しく使う「運命」という言葉。日常よりも非日常と距離の近いその言葉。
に。
僕が納得しかけてしまったのは──これまた何故だろう。
「それぞれが終わってしまった恋を想って、なぎさ公園で落ち合う、なんてさ。確率としては、決して高くないよね」
「……どうだろうな」
「そういう時こそ、素直に反応すべきだと思うけど?」
「確かに、確率は低いと思う。天文学的、って言っても過言じゃないかもな。でも、運命とかさ、仰々しすぎるだろ。そんな言葉を使ってまで、僕を籠絡しようと思ってるわけ?」
ここまで言えなかった疑問が、スラスラと口から出てきた。これも、また、不思議だ。言わなくても困らないこと、確かめないでもいいハズのことを、僕は彼女に尋ねてしまっていた。自然と、だ。
「んー? なになに。急に敵意むき出しじゃん」
「敵意じゃない。疑問なんだ。普通に」
「にひひ。そっか、そっか。私の魂胆が気になるわけだ」
魂胆。
そうだな、魂胆だ。
「何を考えているか、教えてくれてもいいだろ? そろそろ」
「……どうだろう」
「歩み寄ろうぜ」
「……ふふ」
びちこが視線を斜め上へ向けた。そして、その角度のまま、
「でも、残念」寂しそうな声で、言った。「雨、上がっちゃった」
「え」
即座に反応。僕も、空を見た。
本当だ。
雨は、いつの間にやら、止んでしまっていた。
「……続きは、また今度、だね」
びちこが言う。
「……また今度、なんて、あるかよ」
それが、正直なところ、だった。
今日のこれは、天文学的確率の再会。たまたま。奇跡的な偶然、の賜物。運命なんかじゃ、もちろん無い。びちこだって、それは理解しているハズだ。
僕らに、接点など無いのだから。
「あるよ」
けれど、びちこは自信満々に、笑って見せた。
「次も、きっと、あるよ」
「……本気で言ってんの?」
「当然じゃん。私たちは、三回、出逢うよ。絶対に、きっと、恐らく」
「秒で矛盾する天才じゃん」
だからさ。
そう、彼女がつぶやいて、肩掛けバッグの中を何やら漁りだした。
そして、何かを取り出した。
「……ねえ、これ」その、何か、を僕に差し出す。「受け取ってよ」
言われるがまま、受け取る。
「……本?」だった。文庫本。
「そう。私が好きな、小説」彼女の手から、文庫本が離れた。「今度会うときに、返して」
「…………はあ」
暖かな溜息が漏れる。
「いつ会えるかも分からない君のために、いつも持ち歩けってか?」
「そーゆーこと」
「君は本当に、なんと言うか、滅茶苦茶だな。好きな小説を、もう二度と会わない男にあげちゃっていいのかよ」
「いい」
「はて、その心は?」
腕時計に目を落とす。まだ、終電に間に合う時間だ。
だから結論から言えば、僕らが一晩を共にすることは無かったわけで。
この会話を最後に、二人は別れた。
「……私はね──」
その別れ際。
またもや願掛けのつもりなのか、なんなのか。僕たちの再会を祈るように、堂々と、真面目な表情を崩さずに、びちこは、
「──君との伏線を、用意しておきたいのさ」
言った。
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