019「キスも、ダメ」「期待してねーよ!」

 なぎさ公園には、展望所の区画に屋根付きベンチが設置されている。そこに腰を降ろして前方へ視線を向ければ、新伊月の夜景が一望できた。相変わらず、街は降りしきる雨の中だけれど、絶景この上ない。


 楓に見せたかった、とふと思う。もしも彼女がこの景色を見たら、なんて言っただろうか。どんな顔を見せてくれただろうか。横に座っているのが、楓だったら、どんなに幸せだったろうか。そんな未練が湧く。


「私ね、毎年七夕の日になると思うことがあるの。年に一度しか会わない織姫と彦星って、どんだけ情熱的なセックスをするんだろう、って」

「…………」

「天の川の辺りでさ、青姦しちゃったりとか。彦星は一年溜め込んでるワケだから、そりゃあもう凄い量の……」

「マジで黙れよ」


 ……隣にいるのが、楓だったら。最高だったのにな。


「なんだよもう。久々に会えた私たちを、織姫と彦星に見立ててみたつもりなんだけど。お気に召さなかった?」

「ああ。最悪の気分だよ」


 こんな淫乱女じゃなくて、さ。


   ***


 とはいえ。


「君。もう遅いけど、帰らなくて大丈夫なの?」

「……まあ、別に」

「あ、そ」


 屋根付きベンチに座って、二人、雨宿りすることを、僕は許容していたわけで。こんなタイミング、かつ、あろうことか「せくしゃるなおさそい」に誘惑した相手だってのに、だ。


 寂しい、ってのはあったと思う。現実に戻りたくない、ってのも。それでも時と場所と人くらい選ぶべきだろ、って自分を戒めたくなるが、どうも腰が重かった。


 びちこが、長い髪をかきあげる仕草を見せた。一瞬、首筋に目が奪われる。いけない、と目を逸らした先、彼女の足元。厚底のサンダル。そこからゆっくりと上の方へと、彼女の服装をなぞるように視線を移動させた。


 今日は、セーラー服を着てないんだよな。……って当たり前か。休日だし。


 白地のTシャツの上に、黒のキャミワンピ。膝の上に置かれた肩掛けバッグも、黒地のもの。モノトーンで統一されたファッションは、まるで「ぼくがかんがえたさいきょうの清楚女子」を地で行く感じ、である。正直、綺麗だ。


「……ちなみに今のは、遠回しに『私は帰りたいけど』って言ったわけじゃないから、安心してよね。むしろ、共に一晩越しても良い、くらいに思ってるから」


 その正体は、清楚の対義、なんだけどな。


「貞操観念、どうなってんだよ」

「ん? 必ずしも『一晩を共にする』イコール『ヤる』じゃないと思うんだけど。君こそ、脳を性欲に支配されてんじゃない?」

「…………」

「図星だ」


 にひひ、とびちこが笑った。


「あのなぁ……。どの口が言う」


 と言って、びちこの方を見る。すると、彼女は僕を向いて、目を瞑り、唇を突き出していた。思わず、心臓が跳ねる。


「……!」


 なんて、分かりやすくキョドッてしまった僕を、


「この口。が言いました」


 彼女は、そう、からかって見せた。


「…………」


 相変わらず、やりづらい女だ。隙を見せたら、すぐ性的欲求を刺激する振る舞いや言動を見せる。彼女なりのコミュニケーションのつもりなのか、童貞だと思ってバカにしているのか。


 どちらにせよ、感情がグチャグチャになるからやめて欲しい。ただでさえ、傷心中なのだ。触れるだけで今にも崩れ落ちそうな心を、動物愛好家が愛犬を撫で回す勢いで、かき乱してきやがる。


「でも残念、今日はヤんないよ。キスも、ダメ」びちこが、諭すように言った。

「……き、期待してねーよ! ふざけんな」その発言が的外れであることを、指摘。

「ま、だよね」


 彼女が、視線を前に戻して、


「ヤるのは、三回会えた時」一息置いて、言う。「そういう約束だったもんね」

「肯いた覚えはない」


 ええー、と大袈裟な反応を見せるびちこ。


「リーチかけといて、よく言うよ。あと一回会ったら、三回になるんだからね? 分かってる?」

「会いたくて会ったワケじゃないし……。それに……これ、一回目だろ?」

「え?」


 彼女の頭の上に、はてなマークが見えるようだった。一応、認識の共有。


「あの日。初めて会った時にした約束は、『あと三回』だったと思うんだが。だとしたら、今日は一回目。まだリーチじゃない」

「……細かいんだなあ、君は」


 てか、と彼女は続ける。


「やっぱり、ノリ気なんじゃん。私とヤることに」

「は?」

「約束の内容、正確に覚えてるってことは、そういうことでしょ?」

「…………」


 なるほど。これが世間一般で言うところの「墓穴を掘る」ってやつか。


「にひひ。素直なところが童貞の良さ、だよ。さくらん」


 僕が掘った墓穴へと、思いっきり突き落とされた気分だ。言葉を失う。変に反論したら、空回りしそうで怖かったし、びちこから死体蹴りされるような予感もした。黙っておけば、これ以上傷つく展開にはなるまい。と思い、沈黙を選択。


「てかさ。さくらんはどうして、ここに来たの?」


 けれども残念。

 彼女が僕に振った話題は、今日の痛みを再び思い出させるような内容だった。


 なんで、ここに来たか? ……フラれた現実から逃げたかったから。


 なーんて、正直に答える義理はないけど。


「……本当は、一緒に来るはずだった奴がいて」


 会話を成り立たせるためだけに、僕は、断片的に事情を吐露した。


「へえ。女?」

「……!」

「なるほどねぇ。女か」


 その結果、僕は更なる傷を負うハメになった。


「当たり?」

「……君さ。デリカシー、ほんと無いよな」

「はは。素直さが仇となったな、さくらん」


 うっせ。


「つまり、こういうことだ。さくらんは、デート中に相手にフラれ、一人虚しくたそがれるため、ここへ訪れたと。……泣いた泣いた」


 半笑いで、びちこが言った。


「嘘でもいいから、同情の涙をくれよ」

「同情してるからこそ、嘲笑ってあげてるんだよ?」

「今のセリフ、一回ノートに書き起こして音読してみろ。そうすりゃ、意味が通ってないことに気づくぞ」

「うーん、そうかな。同情してる時に、同情してますよ感出されるのが一番ヤじゃない?」

「……まあ、それは」

「人間、他人事を自分事として捉えられるワケないんだしさ。同じ気持ちになってる風を演出されるよりかは、こうやって、バカにしてあげたほうが優しいと私は思う」

「まあ、分からなくもないが。……君のそれは、煽ってるだけだ」

「にひひ。バレてら」


 このアマ。どこまでも僕をおちょくりやがって。


 僕も人間、やられっぱなしは癪である。どうにかこう、反撃の言葉を探そうと脳を回転させた。


 が、


「……でもま。私も似たようなモンなんだけどね」

「え?」


 突然のトーンダウンに、僕の思考は止まった。


「似たようなモン……って?」


 びちこが僕へ顔を向けた。目が合う。


「……内緒」

「はぁ? 言えよ」

「言わない。まだそこまで言う関係性じゃないし」


 関係性、ねえ。彼女の心的距離感覚が、いまいち分からん。


「……僕は言ったのに、か?」

「私が当てただけ、でしょ? ……でもまあ、そだね」


 と言いかけて、びちこはカバンを持ち、おもむろに立ち上がった。そのまま、歩き出す。屋根のある場所から外へ、つまり、土砂降りの下へ、出ようとしていた。彼女の手に、傘はない。


「ちょ、ねえ」呼び止める。

「ん? なに?」立ち止まり、振り返る。

「……あ、なに。帰るの?」

「帰って欲しくないの?」

「そーゆーことじゃなく……」

「違うから、安心してよ。ちょっとさ、飲み物、買ってくるだけ」


 え、と率直な疑問が声になって、出た。


 びちこが遠く、公園の隅を指差す。そこにはポツリと浮かぶ光……自動販売機があるらしかった。


「結構、遠いけど。濡れるよ?」

「モーマンタイ!」


 続けて、そういうことなら僕が買ってくるよ、と言おうとしたけれど、それより早く、


「さくらん、何か飲みたいものある?」


 彼女が質問をした。


「……サイダー」

「あーい」


 で、結局、素直に答えてしまうのだから、どうしようもない。素直さは決して童貞の良さじゃない、と思った。こんなんだからモテないんだぞ、僕。


「あ、いや別に、飲み物なくても……」


 代わりに口から出たのが、こんなセリフ。言い切ってすぐ、気の使い方が間違っているな、と気づいた。


 そんな僕に、ふふ、と微笑みかけて、


「バカだなぁ、さくらんは。飲み物は口実だってば」


 びちこが言った。


「もう少し長く、君と話したい気分になった、ってことなんだよ? これは」


 そのセリフを残して、彼女は雨の下へ駆け出して行った。その背中を、目で追いかける。土砂降りをものともせず、サンダルで走って行く彼女の奔放さを、美しいと思ってしまったのは、一応、胸の中に秘めておくことにしよう。


 腕時計に目を落とす。終電は遠いけど、門限はとっくに過ぎている。


 でも、あの制服ビッチが、今、飲み物を買いに行ってしまったし。


 もう少しだけ、雨宿りを続けるしかないか。そう、思った。

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