004「君しかいないんだよ」「なんて言ったらいい?」
「止んだね」楓が水溜りを飛び越えるように、大股で一歩、踏み出した。「雨」
彼女が振り向く。クシャッとした笑顔が、僕の胸を打つ。
アスファルト、雨の匂い。
僕らが高校を出た時には、雨は、曇り空だけを残して止んでいた。空を見れば雲の隙間から光が差し込んでいる。陽光が、楓を照らしているように見えた。いつもよりも、明るく映える栗色の髪が、綺麗だ。
僕が楓を初めて意識したのは、中学の入学式だった。その時、僕は彼女の制服姿を初めて見たのだ。全身紺色に赤いラインが入った田舎くさいセーラー服が、とても、楓に似合っていた。いや、なんだかこの言い方だと、楓のことを「田舎くさい子」と言っているみたいで、少し語弊があるな。
違うのだ。なんというか、こう……普段と違う印象の彼女が、僕の網膜に、鮮明に焼きついたのだ。
小学生の頃から、僕らは近所に住んでいて、いつも何かと一緒だった。
登下校も一緒。仲良くしているグループも一緒。街中を使った鬼ごっこを一緒にしたり、楓の家で一緒にテレビゲームをして遊んだり、近所の悪ガキに一緒に泣かされたり。そのことを親に相談した結果、お互いの家族総出で抗議に行くことになったり。で、一緒に謝られたり。結局、その悪ガキとも一緒に鬼ごっこするようになったり。
いわゆる、幼馴染ってやつだった。
正直なところ、僕は彼女のセーラー服姿を見るまで、楓が「女の子」であることに気づかなかった。……これも少し語弊があるかもしれないな。言い換えれば、それくらい「仲のいい友達」だったのだ。
しかし、僕は気づけば、彼女のことを意識するようになっていて……そして、完全に、好きになっていた。
その思いを伝えたのは、随分と経ってからの事だ。
同じ高校に進学することが決まった後だった。
一世一代の大勝負──そのくらいの気概だった。
中学の卒業式の日。僕は楓を呼び出して、好きだ、と伝えた。その告白に、彼女は顔を真っ赤にして、十年近く続く関係のくせして、僕に初めて見せるような表情をした。
今でも、その時の記憶が、脳にこびりついて、離れない。
「やっぱり、雨よりも晴れの方が、好きだな。私」
そう言った彼女の横顔を、僕は、じっと見ていた。
小山楓。
今でも、僕の、好きな人だ。
***
「峰岸くん、髪型変えた?」楓が言う。「てか、分け目、逆だったよね」
「ああ、そう言われれば、確かに」
「気づかんかったんかーい! 私、結構いまの髪型好きだなー。前髪さ、左に流した方がなんとなく大人っぽく見えるよね、峰岸くん」
「かも」
「よね〜? あ、たまにさ、目に前髪かかってる時があるから、アレやめたほうがいいって言っといてよ。根暗っぽいからさ」
「いいんじゃない? 根暗は本当なんだから」
「あ、まあ。そっか!」
「今の、言いつけておくわ」
「え、ひどっ! ハメやがったなぁ! よーへいのクセに!」
ワハハ、と笑って、僕の肩にグーパン。いッてっ、なんておどけてみせる。
「しかしよく見てるよな、楓。分け目とか気づかんぞ、フツー」
「気づくでしょ。毎日見てたらさー」
「毎日見てんの?」
「うん。よーへいのせいで、毎日見るハメになってる」
僕のせい、ねぇ。
「じゃあ、峰岸と仲良くするの、やめるわ」
冗談ひとつ。
「ウンウン。賢明な判断だ!」
冗談が返ってくる。
僕も楓も、峰岸を信頼しているからこそ、吐ける軽口だ。
「あ、そういえばね、昨日──」
そう楓が言いかけた時、僕らはいつものY字路に差しかかり、立ち止まった。正面に、古ぼけた新聞屋が一軒。それを挟んで右側の道を行けば、五分ぐらいで楓の家だった。
「──ん」
楓が、表情を伺うように、僕を見た。
それから、人差し指を立てて、新聞屋の左側を指した。
「……こっち」
僕はしばらく沈黙してから、頷く。
「おっけ」
楓が、ニコッと笑ってみせる。
「すまんな。……遠回り」
僕が言う。
「いーの、いーの。長く話せるんだから、私にとっても、ウィン!」
楓が、ピースサインを突き出す。
「……さんきゅ」
小声で言う僕を見て、笑顔で首を小さく振って、彼女は背を向けた。二人、また歩き出す。
この遠回りの意味を確認しあわないように。暗黙の了解のまま。
「で、何を言いかけてたんだ? さっき」
そんな楓に気を使わすまいと、言う。
「あーね!」
楓も、話題をすぐさま切り替えるように、わざとらしく無邪気な声を出した。
「実はねぇ〜……あーいや、なんだ」
「なんだよ。言いづらそうに」
「あーまあ、そうなんだよ。言いづらい話なんだよ、実は」
僕の半歩先を行く楓が、頭を斜め上に、下に、と行ったり来たりさせていた。僕には、何か、言葉を探している様子に見えた。
「なんだよ、言えよ」
「いやねぇ〜、実はさぁ〜」
楓は、背を向けたままだった。
「なに?」
「誰にも言わないでね? こんなこと、よーへいにしか相談できないんだから」
「だから、なんだよ」
それから、さもおおごとではありませんよ、みたいに取り繕うようにして、
「……昨日、告られた」
背を向けたまま、楓が言った。
***
「クラスの男子」振り向く事なく、続ける。「多分よーへいも、顔くらいなら知ってると思う」
「…………」
「サッカー部のさ、長谷部くん。分かる? いつもオールバックで、身長高めの。見ようによっては、
「……あ、あの。綾瀬剛って、いま刑事ドラマに出てる?」
「食いつくの、そっちかよ〜」
楓が背を向けたまま、くくく、と笑う。
「そう。蛇顔の俳優。……で、本題は、綾瀬剛似の長谷部くんに告られたって話ね。そっちだから」
「……だねぇ」
胸が、ズキリと痛む。
あまりにも唐突な話すぎて、受け止めきれねーよ。と心の中でボヤいた。
「それで……なに?」
「え?」
「それが……どうしたんだよ」
楓が立ち止まる。つられて、僕も、足を止めた。
「あ〜、いや。どうしたと言われると、なんとも答えづらいのでありますからして……」
「急なキャラ変やめて」
「へへへ」
乾いた笑いだった。
「……うん。まあ、確かに、なんでもないんだよなぁ。ただ、そういうことがあった、っていう……報告? それだけだよ。うん、それだけ」
「…………」
「っていうね! 以上!」
「……」
なあ。
そう呼びかけようとして、やっぱりやめた。
僕が突っ込むべき話題じゃない。そう思ってしまったから、だ。
「…………」
「…………」
沈黙が、二人の間に流れる。
その間、僕はどうしても、やっぱり。
受け止めきれずにいて。
なにか言いたくて、言ってやりたくて、仕方がなくなっていた。
けれど。
「……まあ」沈黙を破る。「そっか、としか……」
そんな曖昧で意地悪な言葉しか、言えなかった。
だって、他になんと言ったらいい?
僕の好きな人が、告られた。
探りをいれるなんて野暮だし、「断れ」なんて言える立場じゃない。
そう。
言える立場じゃ、ないのだ。僕は。
「ごめんごめん。変な空気になっちゃった。ホントごめんね〜。私が抱えりゃいい話だったよね。でもさ──」
楓はまだ、背を向けたままだ。その表情は、僕には見えない。
「──こんなこと言える
そう言って、歩き出す。その後を、僕もついていく。
友達。
その言葉に、僕の胸は更に痛んだ。
小山楓。僕の幼馴染。僕の好きな人。
いつの間にか意識していて、想いは膨らんで、好きになっていて、中学の卒業式の日に告白をした。彼女は顔を赤らめて、肯いてくれた。あの日、僕たちは恋人になった。
恋人に、
けれど、そんな口約束以上の何物にもならない関係は、すぐに解消された。一ヶ月後のことだ。
──友達に戻って欲しいの。
楓のその一言で、僕たちは、恋人から友達へと戻ったのだ。
「あ」
楓が声を上げて、空を見上げる。視線の方向を指差す。その先へ、僕も目をやった。
楓が振り返る。満面の笑みを、咲かせていた。
「見てよ、よーへい!」
小山楓への気持ち。僕の恋。
もう、終わってしまったはずの、恋。
それでも、まだ。
「虹!」
楓は、
今でも、僕の好きな人だ。
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