Episode 01

003「据え膳食わぬは何とやら、だ」「でもお前、童貞じゃん」

「はァ!? 嘘だろ!? バカじゃねぇの!」


 放課後の教室に、峰岸みねぎしの絶叫が響き渡った。教室内には僕と峰岸しかいなかったから、周りの目を気にする必要はなかったけれど、あまりにも大音量だったので、たぶん三つ隣のクラスぐらいには聞こえていたんじゃないだろうかと不安になる。


「そんなデカい声出すなよ」


 声を殺して、峰岸に言う。


 これはナイショ話……というほどではないが、心を許した友人にしか話せないような、それこそ峰岸にしか言えない話題なのだ。出来ることなら、静かに聞いて欲しかった。


 昨日の放課後のこと。

 見ず知らずの女子高生から「せくしゃるなおさそい」をされたこと……なんて、知らないヤツの耳には入れたくない。断じて。


「だってよぉ……!」


 峰岸が天井を仰ぐようにして、声を漏らした。


 ……でもまあ、コイツの反応も、当然っちゃ当然か。


 僕だって未だに、現実とは思えない。妄想だったんじゃないかと、自分を疑いたくもなる。


 それぐらい、突拍子も現実味もない出来事だった。


 峰岸が、何かを言いたそうにモゾモゾと身体を動かしている。僕は、ある程度、オーバーリアクションが返ってくることを予測しながら、「なに?」と返事をした。


「ホントありえねえよ。んなこと!」

「……んまあ、だよな。でもこの話、マジなんだって。嘘じゃないんだよ」

「いや。じゃなくて」

「え?」

「お前さあ──」


 峰岸が僕に顔を近づけながら、言う。


「──ヤれたかもしれねーのに、なんで断ったんだよ!」


 あ、そっち?


   ***


 僕のクラス。放課後の二年三組の教室は、峰岸と二人で無駄話をするためにあると言っても過言ではない。


 だいたいのクラスメイトは部活動に所属しているし、そうじゃなくても、わざわざ教室に残る理由がない。だから、ほぼ毎日、貸切。今日だって、峰岸との素敵な放課後ライフを満喫中である。


陽平ようへい」峰岸が僕の名を呼ぶ。「そいつの連絡先、もちろん貰ったよな?」

「え? もらってないけど……」

「カァ〜ッ! アホだ! バカがいるわ、ここに一匹!」

「人の数え方は、ニン、だぞ」

「い〜や! もう俺は、お前のこと人として見ていないね。ヤれたかもしれないのに、ヤらんヤツは、人でもねえし、当然、男でもねえ!」

「じゃあ、お前は受け入れたのかよ」

「当たり前だろ! 据え膳食わぬは何とやら、だ!」

「よく言うわ」

「ああ?」

「だってお前、童貞じゃん」


 峰岸の動きがピタッと止まった。

 やべ。クリーンヒットしすぎた。


「……おい……オメーな……オメーも……」


 肩を震わせている。僕はこの状態のコイツを何度か見たことがある。

 降りかかった屈辱に耐えようと、我慢しているのだ。


 けれど、コイツは我慢強いヤツではない。どちらかといえば、自分の感情に従順なタイプである。


 まあ、なので当然。


「……オメーも同じだろうがぁああああああああああああああああああ!」


 今回も、彼の感情のダムは決壊した。


 両手を挙げ、野獣のように僕へと襲い掛かる峰岸。対して、走って逃げる僕。「このヤロウ、誘われたからっていい気になってんじゃねえぞ!」だの「ヤッてねぇってことは、同類に変わりねえからな!」だの「引きずり下ろしてやる! 誘われてねぇ側に!」だの、アレコレ言いながら迫ってくる。そんな彼が滑稽なので、嘲笑に等しい爆笑を返してやる。なんて、これはもはやお決まりの展開。


 いつも通りの、放課後だった。


   ***


「で」冷静さを取り戻した峰岸が、机の上に腰掛けながら言った。「結局、どうすんだよ」

「は?」

「見つけんだろ、当然。そいつのこと」


 ひとしきりじゃれ合ったことで、もう例の話題は終わったものかと思っていたが、


「三回会ったら、ヤれんだろ?」


 峰岸はしぶとかった。


「……バカだな、お前」

「バカで結構。童貞って言われるよりかは名誉ある呼ばれ方だ」


 どんだけコンプレックスなんだよ。


 僕は溜息ひとつ、


「見つけるとか、そんなことしねぇよ。当たり前だろ」


 そう返した。


「はぁ〜?」

「いや、さ。あんなの本気にするわけないし、アイツだって本気で言ってるわけないだろ?」

「分かんねえぞ? 意外と、惚れられてるかもしれねーぞ?」

「ないだろ。昨日、初めて会ったんだぞ」

「お前、知らないのか? この世には、一目惚れというものがあるんだぜ」

「ああ。有名な都市伝説だろ、それ」


 ハァ〜、と分かりやすく大きな溜息をする峰岸。食いつきが悪いことが、どうも気に入らないらしい。


 ホント、コイツは感情に忠実というか、疑うことを知らないというか。


「だってよ、お前。これが最初で最期のチャンスかもしれねーんだぜ? 俺はお前を心配しているんだ」

「余計すぎるお世話だな。バカにすんな」


 ちぇ、と峰岸がそっぽを向く。そのまま、窓の外を眺めるようにして、彼の視線は止まった。あまりにも会話が堂々巡りなので、観念したのかもしれない。


 そんな峰岸を見て僕は、一安心、と胸を撫で下ろした。昨日のこと、誰かに聞いて欲しかったのは確かだが、ここまで突っかかられると、少し困ってしまった。


 心が穏やかになった僕は、峰岸と同じく、窓の外を見た。


 今日も、外では雨が降っていた。小降りだけれど。

 梅雨は始まったばかり。当分は、憂鬱な天気が続くだろう。


「……まあ」視線をそのままに、峰岸が口を開いた。「でも、そうか」


 何か納得したような口振りだった。


「なに?」を納得したんだか読み取れず、そう返す。


 峰岸は相変わらず窓の外を見ていた。止まない雨の景色を、じっと、見ていた。


「……お前には、かえでちゃんがいるもんな」

「え、あ、は?」


 心臓が、跳ねた。


「そりゃあ、知らない女を抱くわけにはいかんよな」

「ちょ、ちょ、ちょい待て」


 彼が発したトーンが、妙に真面目だったので、つい取り乱してしまう。


 いや、それだけじゃない。


「そうだろ?」

「……う」

「なあ?」

「…………うぐぅ」


 本心を突かれると、流石に、冷静ではいられなかったのだ。


「今日は楓ちゃん、何してんだよ。遅ぇけど」


 言いながら、黒板の上にある時計へ目を移す峰岸。


「……し、知らね。昨日も結局、予定があるとかなんとか……」

「ふーん……」


 ローテンションの時の峰岸は、怖い。


 すべてを見透かされているような気になるからだ。し、たぶん、本当に見透かしている。


「ま、まあ? 今日も、たぶん、一人で帰るよ。うん、そうするつもり」

「あ、そう」

「勘違いしないで欲しいんだけどさあ、僕、いっつも楓と一緒なワケじゃねーぞ」

「まあ、クラス違うしな」

「そういう意味じゃなく……」


 そう言いかけた時だった。


 ガラガラ、と音を立てて、教室の扉が開く。その音の方へ、二人同時に視線を動かした。


 そこに立っていたのは──


「ごめ! よーへい! 遅くなった!」


 栗色、ゆるくカーブしたボブヘアーの毛先が、ふわり、跳ねる。半袖の白シャツからむくりと膨れ出した胸元に、目が奪われる。いけね、と慌てて視線を上げると、くりくりとした丸い眼がまたもや僕の視線を吸い込む。可愛い。今日も、とても。


 ──小山楓こやま かえで


「一緒に、かえろ?」


 僕の、好きな人だ。

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