第38話 おかえり

 ◇ 引っ越し当日(土曜日)  ◇


 今週はよく晴れた。先週の土砂降りとは雲泥の差だ。わたしは目覚めるとうーんと伸びをした。と、枕元に何かいる。

「寝顔もかわいい。大家特権だな」

「覗き見でしょう?」

「起こしに来てやったんだろう? なんだ、葉山の方がよかったか? やり直すか?」

「馬鹿、もう信じらんない」

「葉山の話で赤くなるなよ」

 なってないよ、と言いながら夏掛けを被った。そろそろだぞ、と言いながら添い寝している。

「昼間もいいよな、この前、見えなかったところが全部見えて」

「朝からなにを? 変態教師」

「もう教師じゃない」

 わたしの振り上げた手をパシッと受け止めて、無理な姿勢で口付けをした。口付けだけでも息が切れる。空気を求めた先から口が塞がれてしまうから。

「もう来るぞ。葉山は時間通りだからそういうところはかわいくない。続きは夜だな」

「変態!」

 はははっと笑って居間に向かっていった。

 万事が万事、そんな感じで耀二に引き摺られて生活している。


 ピンポーン。

「葉山さんだ!」

「お前は出なくていい! 寝起きだろう?」

 もうとっくに支度をして薄化粧までしたのに、なにが寝起きなんだろう? 時々、そういうところが不可解な人だ。

「まぁねぇ。金沢さんにはわかんないだろうけど僕たちオジサン世代としてはね、金沢さんみたいな若い恋人は隠しておきたいものなんだよ。盗られたら困るだろう? いつ僕の気が変わってを攫うかわからないじゃないか」

 葉山さんは面白そうに笑った。耀二は向こうを向いて何も言わなくなってしまった。

 葉山さんの作ったオムレツはチーズが入ってふわとろだった。


「なんにせよ、引っ越せばすぐだよ。今日はバンを借りてきたから金沢さんの家具ぐらいは運べるんじゃないかな」

「はい、助かります。······葉山さんにバンって似合わない」

「意外性があっていいじゃないか、な、葉山。今日は俺も行っていいんだろう? あっちは病院だしな」

 わたしと葉山さんは目を合わせた。たぶん、葉山さんも同じことを考えてる。やっぱりそれはなしだ。

「金沢さんと彼の暮らしの片鱗を垣間見たい?」

 んん、と耀二は唸った。そこまで深く考えるタイプではない。どちらかと言うと絵以外の点ではどんぶり勘定な人だ。

「確かに見ない方がいいかもしれないな」と、二階に上がってしまった。

「荷受けはお願いしますよ」と言うと「気をつけて行ってこいよ」と元気のない声がした。


「あれでよかった?」

「同じことを考えてたんで。わたしと誠はああいう形で確かに終わっちゃったけど、あのアパートにはまだ······愛が保存されている場所があるから」

「そうだよね。彼だって本当に有結ちゃんがいらなかったら、何ヶ月もキープしてなかったと思うし。君たちの間には確かに愛はあったと僕は思うよ」

 そうかな、と疑り深いわたしは思った。でも善良で信頼のおける葉山さんが言うのならそうなのかもしれない。

 緑の光る中を白いバンはたった二往復して、部屋は空っぽになってしまった。処分してほしいものだけをまとめて置いて来た。どれもこれも思い出深いものだったけれど、わたしと耀二の始まりには必要のないものだったから。

 ポストから鍵を落とす。ジャラジャラした飾りはつけたままだった。あれこそわたしたちの思い出の集合体だから――。


 さよなら、誠。

 近くに住んでいるから耀二とわたしみたいにどこかですれ違うかもしれない。そんな時はどうか見逃してね。わたしも知らないふりをするから。


「ところで葉山さん、あの人は自分の絵がすごい値段で売れるって言ってたんですけど」

 くすくすっと葉山さんはこそばゆい声で笑った。

「画家だけで食べて行くのは大変なんだよ。わかるでしょう? 耀二の絵はこの前のM社さんみたいなお得意さんがいるからね、大きい絵を描けば大きいほど値段も跳ね上がるさ。その分、必要経費として絵の具代がかかるけどね」

 はぁ、と遠くの話のように頷いた。

「食べていく分を差し引いてもしばらく遊んで暮らせるくらいの金はあるんじゃないかな? 僕はどんどん仕事を運んでくるし、アイツ、無駄遣いはタバコくらいだし」

「タバコはやめようってこの前約束して実践中で」

 なんとなくお腹を見てしまう。そんな未来が来るんだろうか? なんだか信じられない。

「子供にタバコは良くないしね」

 思ってたことを見透かされた気がして、頬が上気する。やだ、ちょっとやらしかったかもしれない。


「いつ結婚するの?」

「さぁ」

「そういう話しないの?」

「自分のものになったからいいんじゃないですか?」

「そういう訳にはいかないよ。よし、僕から少し言ってあげよう」

 くだらないことを喋りながらバンは古い家に向かって走っていく。よくよく話を聞くとあの家も貸家なんかじゃなく耀二の持ち物で、結婚したらきっともっと家族のために小綺麗な家を買うと思うよ、と恐ろしいことを聞かされる。

 そんな資格ない······。

「パソコン決まった?」

「はい、一応。でも本当にいいんですか?」

「婚約祝いってことにした方がもらいやすいかな?」

「婚約······」

 耀二はうちの家族との対面を楽しみにしている。そんなに楽しい家族なら、有結をこんな風に育てた家族なら是非、会いに行きたいと意気込んでいる。わたしは――。とりあえず両親が了解してくれるというのはいいかな、と思う。親公認ってやつだ。

 それより耀二の家に行くのが恐ろしい。それでも結局行くけど。「若い嫁さんだって歓迎されるさ」と彼は呑気なことを言っている。

 お盆が明けたら、お互いの家に挨拶に行く予定だ。


 あまり手入れのされていない植木たちが見えてきた。ここがわたしの家になるなら草取りくらいはしてあげよう。いらない枝を切って、花を咲かせる。

 そう、ちょうどわたしあの絵のように――。

 小さなバンは玄関に横付けされる。

 耀二はアトリエの窓から顔を出すと階段を降りてくる。そして車から降りたばかりのわたしの頬をそっと触る。

「ただいま」

「おかえり」


(了) ······あとがきに続く

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